誕生日の夜




現代レオエレ♀





 エレフとミーシャの二十歳の誕生日には、お気に入りのレストランから料理を届けてもらって。主役の好物と、ケーキと、特別な贈り物を。
 そんな話は以前から母が提案していて、父も乗る気になっていた。訳あって疎遠になっている長兄は参加できないにしても、子供たちが全員が成人するというのは両親にとっても祝うべき節目だったのだろう。
 お気に入りのレストランから料理を届けてもらって、主役の好物と、ケーキと特別な贈り物を。
 計画通りに事は進められ、エレフは気恥ずかしそうに、ミーシャは満面の笑顔で、それぞれに礼を言った。髪を上げている二人は普段よりも大人びて見えたが、初めて堂々とアルコールを飲める機会とあって楽しそうにはしゃいでおり、贈られたプレゼントをひとつひとつ丁寧に開いていく様子はきらきらと眩しいものだった。
 意外な事に長兄からの贈り物も届いた。外国産のワインである。これは当日のうちに開けなければと一同は妙な使命感に駆られ、食後になってから飲み直しているうちに結構な時間になってしまった。
 既に父も母も寝室に引き上げている。ソファに並んでいるのは今日の主役、双子の姉妹で、まだ持ちなれないグラスを両手で包み込んでいる。風呂を済ませて部屋着に着替えているので、先程のような大人びたきらめきは薄れていたけれど、他愛のなく酒を嗜んでいる彼女達の姿を見ると、否応なく二十年という歳月の尊さを感じさせた。
 額縁に入れて飾ってしまいたいな。
 そんな事を考えながら、レオンは斜め向かいの席から双子を眺めている。手元の携帯を使えば写真など何枚も撮る事は出来たけれど、それも無粋に思えた。
 現在レオンは部屋を借りて一人暮らしをしているが、今日ばかりは実家に帰って妹たちの誕生日を祝っている。どちらかと言えば酒に強い方だという自信はあったが、今日ばかりは常よりも冷静でいなければという思いもあり、ワインは一杯しか飲んでいなかった。それでも先程から熱に浮かされたように頭の芯がぼうっとしている。無意識に目がエレフの横顔を捕らえるたびに視線を引き剥がしては、内容の入ってこないテレビ画面へと移す事の繰り返しだった。それでも時折エレフと視線がかち合って、互いに想いを巡らせるような瞬間があると、否応なく今日という日の重さを思い知らされる。
 いつだって頭の片隅で待ち望んでいたはずだった。三年前、実の妹とおやすみのキス以上の事をした時から。他人の目を逃れ、彼女の唇に、手足に、胸に、背中に、あるいはもっと密やかな場所にまで――この手で触れ、心地良さを分けあってきたのだから。
 彼女が成人するまで最後の一線だけは越えないという約束が、今日、終わる。
 腹は括っていた。もう何年も苦悩してきたのだ。このままではいけない、エレフの未来を潰す事になるぞと思っても、結局は振り払えなかった。手に入るはずのないものがあちらから飛び込んできたのだ。もう自分からは手放せない。ならばせめて誠意を尽くすしかなかった。例えそれが歪んでいるものだったとしても。
 成人するまで一線を越えなかったのは、自分を抑える予防線であると同時に、なけなしの責任感からでもあった。自分が彼女の兄ではなく、あるいはもっと年が近かったら、何の躊躇いもなく先へと踏み込んでいたかもしれない。エレフ自身は何度も「別にそこまでこだわらなくてもいい」と言ってくれたが、晴れて大人になった彼女に二人の関係をどうするのか選んで欲しかった。
(……選ばせるように、もう色々と教え込んでしまったけれど)
 口元を隠した掌の下で、微かに自嘲を浮かべる。己の執着心の強さに吐き気がした。無愛想に見えるが優しい子なのだ、あれだけレオンの心を与えておいて、それを無碍にできる子ではない。それを知っていて何度も愛していると告げた。肌にも触れた。まるで呪詛のように。
 ずるい事をしている。両親にも顔向けできない。この関係を知られたら勘当されて当然だ。全てを失い、エレフからも光を奪い去ってしまうのかもしれない。けれど――。
 そこまで考えて目を伏せる。やはり少し酔っているのかもしれない。覚悟を決めたはずなのに、また堂々巡りに陥っている。
 気が、急いているのだ。
 ずっとこの日を待っていた。最後の最後まで愛したい。思いのままに抱きしめて、貪って、食らい尽くしてしまいたい。その衝動の強さに自分自身が怯んでいる。
(……いきなり今日、という訳ではないけれど)
 既に夜も回っている。気持ちの区切りとしても今日ばかりは普通の家族として過ごすつもりだった。久々に訪れた実家が予想以上に居心地が良く、思い出の気配が濃厚で、両親のいる屋根の下でエレフをどうこうするのは気が引ける。だから今夜は普通におやすみと言って就寝する気でいたが、それでも遂にこの日がやってきてしまった事への期待と脅えは拭えなかった。
 もう一度、エレフを見る。ふわふわの長い髪から覗くくつろいだ横顔。愛しいという想いと、大事なものを自分自身で踏みにじろうとしているのではないかという恐れで口元が歪んだ。
(どうしてエレフだったのだろう)
 自問する頭の片隅で、断片的な思い出だけがちらちらと瞼の裏を過ぎっていく。それを追いかけるように睫毛を伏せた。
 エレフとミーシャが生まれるまで、家の中はごたごたとしていて、時折うるさい親戚連中や外側の人間までもが、あれこれと心ない言葉を送り込んでくる時期だった。下手に家柄が良く、家業が拡大しすぎていた事もそれらに拍車をかけていた。長兄が家に見切りをつけ、今でも家に寄り付かなくなったのは当時から続く確執の結果だったが、レオンにとってもそれらは灰色の日々で、あまり上手く思い出せない。
 父親と側近たちが散らかっていた様々な事柄を整理し、うるさい連中に睨みをきかせ、事態を収めた頃に生まれたのがエレフとミーシャで。レオンにとっても彼女たちの誕生は新しい幕開けの合図となり、それを区切りに記憶も徐々に鮮やかになってくる。
 とにかく、やんちゃな子供たちだった。はいはいをする頃から足腰が丈夫で、あちこちに動き回っては物を掴み、何でも口に入れようとして周りを慌てさせる。大きくなると裸足で走る事にも躊躇いがなく、二人できゃあきゃあと騒ぎながら家を抜け出して、近くの公園でいつまでも遊んでいた。おかげでレオンは学校から帰ると、まずは二人の居所を探すはめになった。
 ――あの頃は何もかも輝いて、自分を慕ってくれる二人の妹を、平等に慈しんでいたはずなのに。
 辿る記憶は一気に時間を進める。
 親類の結婚式での事だった。披露宴が始まる前の控え室。ウェルカムドリンクが配られ、各々が好きにくつろいでいる時に厄介な親戚の男に捕まった。元から礼を欠いた振る舞いが目立ち、年若い人間に懇々と説教をするのが好きな男で周囲からも煙たがられていたが、レオンならば無碍にしないと思ったのかもしれない。家族から離れて空になったグラスをホテルマンに返そうと席を立った時に、やあ、と声を掛けられたのだ。
 男に何を言われたのか覚えていない。下世話な噂話か、結婚する新郎新婦への祝いに見せかけた嫉妬心か、嫌味か、当てこすりか。相手の口がぱくぱくと魚のように動く映像だけが残っている。適当に切り上げてしまう事もできたが、自分が相手をしなければ他の人間に当たりに行くだろうと容易に想像できるだけに選択肢から外してしまった。相手の言葉に耳を傾け、相槌を打ち、答えにくい質問には苦笑だけを返して、機械的にやり過ごす。どんな嫌味も内側までは入り込んでこない。多少不快な程度であればすぐに忘れてしまう。
 そうしていると、不意にエレフとミーシャが近付いて自分を呼び止めた。父様が用事だと呼んでいるから、レオン兄様、早く来て、と。
 話の途中で割り込むなんて躾が出来ていないと男は臍を曲げたが、無邪気を装い、早く早くと急かすミーシャの勢いに飲まれて、それ以上は何も文句を言えない様子だった。エレフはその間じっと男とレオンとを見据えている。やがて二人は揃ってレオンの袖を引いて控え室から強引に抜け出すと、扉を閉めたところで一気に怒りを爆発させた。
 ミーシャは顔を赤くさせ、信じられない、なんて恥知らずな人かしら、兄様が何も言わないのを良い事にあんな真似をして、と肩をいからせた。彼女はレオンが返しそびれていたグラスを半ば奪い取るようにして持つと、ホテルの人に返してくるわと言い、すぐに扉の内側へと戻っていった。末妹の優しさと気配りを嬉しく思っていると、廊下の静寂からようやく言葉の糸口を見つけたように、隣に立っていたエレフが唐突に怒り始めた。
 馬鹿、あんなのは適当に切り上げてくればいいんだ、兄様なら簡単にできたはずなのに大人しく犠牲になるなんて、本当に馬鹿だ、と。
 微かに眉を寄せ、真っ直ぐに向ける視線が思いの外に強く、一瞬レオンも気圧された。まさか自分が叱られるとは思っていなかった。
 そんな大袈裟な事じゃないんだよ。今日はお祝いの日なのに、下手に波風を立てると、これからの式が台無しになるかもしれないだろう?
 そう返すとエレフはもどかしそうに口元を引き結んで、それじゃあ兄様ばっかり損をする、と言った。上手く言葉には出来ない様子だったが、何よりも雄弁に彼女の瞳が憤りを伝えていた。
 レオンはそれでいいのかと、強く問いかける眼差し。鈍く心を覆っていたものを視線ひとつで焼き払ってしまいそうな、存在感のある目線。
 小さい頃はあれほど泣き虫だったのに、成長を重ねるごとにエレフの内側に潜む凛とした鋭さが目に見えて育っているのは明らかで、その時、廊下の暗がりで閃いたエレフの瞳の美しさに、はっと殴られたような気分になった。些細な事を怖がって、びいびいと泣いていた彼女の頭を何度も撫でていたのは、ほんの数年前の事だったのに。
 自分はあの時、彼女をどう宥めたのだろう。いつものようにふわふわと微笑んで、改善する気もないくせに、ごめんねと心にもない謝罪をしたのだろうか。そしてそんな自分を、やはり彼女は咎めるように見上げたのだろうか。
 似たような場面が何度かあって、その都度、エレフはきりきりと弓のように眦を吊り上げて、問いかけるようにレオンを見ていた。本当にそれでいいの、それで後悔しないの、と。銀の睫毛の柔らかさに不釣合いな苛烈な瞳がその下に閃いて、よどむレオンの胸に新しい風を撃ち込んでくる。誤魔化す事を許さない妹の生真面目さを前に、霧が晴れるように自分の本音を明らかにされる瞬間の、あの清々しさ。それは魅惑的であるが故に危険なものだった。如才なく振る舞う事で守り通していたものが砕けてしまいそうだった。エレフが思春期に入り、家族の間にも適度な距離を持つべきだと信じ始めた頃からはレオンの行いを直接糾弾するような事は稀になっていったが、あの鋭い視線に身を晒す事をどこかで待ち望んでいる自分もおり、その矛盾にしばし悩んだ。
 これが恋だと自覚した瞬間の、ほとんど恐怖に近い衝撃は鮮明に覚えている。
 高校の終わり頃。レオンはかなり早い段階から、大学に入ると同時に一人暮らしを始める事を視野に入れていた。いずれ家業を継ぐ予定だったが、だからこそ今のうちに離れておかなければ一生ここから動けないかもしれないという漠然とした不安があったのだ。今でこそ実家は居心地の良いものに変わっていたが、疎遠になった兄から近況報告を兼ねた電話が鳴るたびに、狭い世界で生きていた子供時代の息苦しさを思い出す。誰が悪かった訳でもないのに、不条理に歪めさせられた兄との確執には苦い思いしか湧いてこなかった。一度は親の庇護下から抜け出して、外の風に当たってみたいと思っていた。
 進学先について両親に打ち明けた日。リビングから廊下に出ると、そのやり取りを偶然聞いていたエレフがいつかと同じような目でレオンを見上げていた。盗み聞きして悪いと前置きをしてから、そっと尋ねてくる。
「レオンは家を出たいの?」
「……その予定」
 家にいる事が嫌な訳じゃないと知らせるように微笑んだつもりだったが、エレフはそんなこちらの表情などお構いなしに、微かに考え込むような顔を見せた。
「……そう」
「寂しく思ってくれる?」
 冗談交じりにそんな軽口をきいたのは、両親と真面目な話をしてきた反動からだった。素直ではない妹の事、寂しくなんかないと言い張るだろう。それをからかうのをこっそり期待していたのに。
「寂しいというか……変な感じはするだろうな。ずっといた人がいなくなるんだから。でも、レオンが羽根を伸ばせるならそれでいいと思う。……たまには帰ってきて欲しいけど」
 そう言って、ぎこちなく微笑んだ。
 それは取り立てて特別な表情ではなかった。ミーシャと比べて愛想のある子ではなかったが、それでも年相応に楽しい事があれば微笑んだし、友達とふざけている時などは歯を見せて笑う事もあった。だから、その時の不器用な微笑みが目新しかった訳ではない。よくある日常の、ちょっとした仕草のひとつだった。やり取り自体にも決定的な言葉があった訳でもない。
 だと言うのに。
(ああ、私は――)
 その表情に吸い込まれたように目が離せなくなった。どうしてだろう。何がいつもと違うのだろう。家を出る話をして一時的に感傷的になったせいだろうか。
 だが、それだけでは説明がつかなかった。それだけ唐突に、その瞬間は舞い落ちてきた。
 寂しがって貰いたい。逃げるように家を出て、それでいいのかと叱ってもらいたい。自分の力を試してみろと力強く送り出してもらいたい。ぎこちなく笑った顔を両手で包み込んで、また帰ってくるよと安心させたい。彼女の髪をくしゃくしゃに撫でて、本当は私も寂しいよと甘えたい。今、あの細い手首を取って、こちらに抱き寄せてしまいたい――。
 たまらない想いに喉が震えた。矛盾する感情が一度に溢れて整理できない。同時に、すっと冷たい手に心臓を一撫でさせられたようだった。
(……私は、何を)
 普段は意識せずともできるのに、その時ばかりは表情を取り繕う事に必死だった。当たり障りのない会話でその場を切り抜けて自室に戻る。後ろ手に扉を閉めたまま立ち尽くし、レオンはのろのろと片手で口元を覆った。
 エレフの手首を取って抱き寄せる、先程の願望が、まるで本当にあった事のように生々しい感触で残っていた。緩やかに落ちる長い髪はレオンの顎をくすぐり、背中に回した腕にも触れるだろう。滑らかな白い手首は驚きで強張っているが、強く抱きしめてしまえばきっと掴まえられる。柔らかい体の鼓動を胸元に感じて、そして――。
(……駄目だろう、これは)
 家族に向けていい感情ではなかった。降って湧いたような強い想いにレオン自身が打ちのめされた。どうしてこうも唐突に、実の妹を邪な目で見る事になってしまったのだろう。思い直すようにと告げるように、繰り返し子供の頃の美しい場面がいくつも目の前を横切ったが、積もり積もったものが弾け跳んだだけで、とうに自分は妹の事を見ていたのだと気付かされただけだった。
 一生、告げるつもりはなかった。家族として接するだけで充分だ。いずれ一人暮らしを始めるのだから物理的にも距離が取れる。隠し通す自信はあった。
 ――けれども、そうやって踏み止まっていたレオンを引きずり落としたのは、また、あのエレフの鋭い問いかけの視線だったけれど。

「レオン」
 呼びかける声に、つらつらと浮かんでいた思い出が霧散する。
「ミーシャが寝ちゃったんだ。部屋まで運ぶの手伝ってくれる?」
 見ると、ソファに持たれて撃沈しているミーシャと、心配の二文字を顔に張り付けているエレフの姿があった。先程までは楽しそうに何か話し合っていたのに、アルコールの許容量は双子でも違ったらしい。
 くたりとしたミーシャを背負い、階段を上がる。先回りしたエレフが部屋の扉を開けてくれた。よっこいしょと寝台に横たわらせ布団を被せると、エレフは慌しく「吐かないように見ていて。明日の為に二日酔いの薬も持ってくるから」と階下に戻っていった。きちんと枕元に水と薬を用意して、ミーシャが目覚めてすぐに飲めるようにしておきたいのだろう。片割れに向ける細やかさには相変わらず頭が下がる。
 けれどもエレフの心配とは反対に、ミーシャは気持ち良さそうに枕を抱いて、すやすやと寝入っていた。具合が悪そうには見えない。化粧を落とした寝顔は昔と変わらずに幼く見える。
 エレフとの関係を彼女に話した事はない。エレフが話しているのかどうかも知らない。どちらにせよ彼女たちは双子なのだから、恐らく知っているのだろうとは思う。けれどもミーシャがそれについてレオンに何か言ってくる事はなかった。エレフはともかく、自分は軽蔑されてもおかしくはないと思うのだけれど。
 近くの椅子に腰掛け、ふと机の上に目をやると、先程両親やレオンから贈られたプレゼントの他に拳ほどの大きさの箱が置かれていた。リボンは既に解かれて、今はただ箱だけが蓋をされたまま置かれている。中を覗かなくとも送り主の見当は付いた。
「あれ……兄様……?」
 不意に目を覚ましたらしいミーシャが、何度も瞬きを繰り返しながら不思議そうに首を傾けた。
「そのまま寝ていなさい。ワインを飲みすぎたみたいだね。今、エレフが水と薬を持ってきてくれるところだから」
 そう説明すると、ああそうなのね、と安心したように再び枕に頬を押し付けている。微笑ましさが重なって、レオンは机の上を指差した。
「これはオリオンから?」
 尋ねると、気恥ずかしそうにミーシャが頷いた。
 すったもんだの末、彼女は三年前から幼馴染と付き合い始めている。年相応の恋をしている姿を見ていると、彼女ほどにはエレフを幸せにできないのだろうという複雑な悲しみはあったが、それでも尚、この末妹が幸福そうにしているのは嬉しかった。
 何を貰ったのだろう。尋ねてみたかったけれど、恋人同士の秘密を暴くのは無粋だ。箱の大きさから見てアクセサリーだろうから、いずれミーシャが身に付けてお披露目してくれるかもしれない。
「……ねえ、兄様。『赤毛のアン』って読んだ事ある?」
 そんな事を思っていると、脈絡のない話題を投げかけられた。視線を机から引き剥がし、ふんわりと寝転がっているミーシャへと移す。末妹が酔っ払うとどうなるのか、前例がないだけに少し怖かった。普段穏やかな人間ほど酔うと人が変わると言うが。
「さあ……どうだったかな。大体の内容は知っているけれど」
「孤児だったアンを引き取るのはね、マシューとマリアっていうおじさんとおばさんなの。私、二人を夫婦だと思い込んでいたわ。でも久々に読み返したらね、二人は兄妹で、ずっと一緒に暮らしていたの。それで……働き手になる子供も欲しいねって、アンを引き取って。周りの人たちもそれを不自然には思っていなくて、ただ単に、結婚しないまま兄妹が家に残っているだけだからって」
「……ミーシャ?」
「同じ話を昨日エレフにも話したわ。そしたらね、成る程なって、エレフは少し笑ったの……」
 ゆっくりと瞼を閉じ、彼女は言葉を切った。酔いに任せたものではない、真摯な暖かみが白い瞼にも宿っていた。
「……私、エレフも兄様も大好きよ。ずっと、大好き」
「……ありがとう」
 目の奥が微かに熱くなる。はっきりと言葉に出さずとも祈ってくれていると分かった。彼女もまた見守ってくれていたのだ。二人の為の言葉を、この日、この為に、贈ってくれた事が堪らなく嬉しい。
「ミーシャ」
「なあに?」
「私はね、今、凄くお金を貯めている最中なんだ。これから何があってもいいように」
 彼女の瞳が、丸くなってこちらを向いた。エレフよりも赤味の強い暖かな紫色。きょとんとしたのも束の間、彼女もまた恋を知る者として、レオンの告白をそっと促した。
「……何があってもいいように?」
「そう。誰に何を言われても、どこか遠くに行く事になっても、先立つものがあればやっていけると思ったから。……そうしたら、いつかアンみたいな子供を引き取って、楽しく暮らすのもいいかもしれないね」
 小さく微笑みかけると、ミーシャもゆるゆると息を吐いて顔の強張りを解いた。溜め息のように頷く。
「……素敵。私も見てみたいわ。でも、できれば遠くには行かないで」
「努力するつもりだ」
「お願い」
「エレフには、まだ内緒だよ」
「うん……」
 とんとんと、階段を上がってくる足音が聞こえてくる。二人は口を噤み、その音に耳を澄ませた。
「なかなか薬が見付からないと思ったら、母さんが自分のところに持ってちゃってたんだ。ミーシャはどう、大丈夫?」
 いつになく早口なのは彼女も多少酔っているのかもしれない。大丈夫よと答えるミーシャの横に跪き、甲斐甲斐しく世話を焼いている。もう大丈夫だからと三度ミーシャが断って、それでようやく気が済んだらしくエレフも枕元から立ち上がった。
 おやすみの挨拶と、最後にもう一度、誕生日おめでとうと言い添えて、二人揃って部屋を出る。エレフの部屋はこの隣、レオンの部屋はその向かいだった。しかしリビングの片付けが残っているので一階に戻り、エレフがグラスを水洗いしている間、テーブルを拭いたりクッションの位置を元に戻したりと細々とした作業をする。
「レオン」
 キッチンから出てきたエレフが、思い詰めた様子で呼びかけた。
「それで、二十歳なんだけど」
 ぶっきら棒なお誘いだった。彼女もこの日を待ってくれていたのだと分かると、何だかどうしようもない気持ちになる。
「……うん、約束したね。大人になって気持ちが変わらなければ、エレフの全部を貰うって」
「変わってないよ。ご丁寧に待つ事なかったんだ。……別に変わりやしないのに」
 恨めしげなエレフの言葉を苦笑だけで返す。どれだけ自分がこの日を待ち侘び、同時に恐れていたか、きっと誰にも分からないだろう。
「でも、今晩はよそう。もう遅いし……それに今日は家族として過ごす最後の一日だから」
「…………」
「また改めて私からお祝いをしたいんだ。今度の休みに会える?」
「……ああ」
 エレフは不満げなようなほっとしたような、どっちつかずの声音で頷いた。けれども一歩踏み出して距離を詰めると、軽く爪先立ちをしてレオンの頬に唇で触れる。驚いて見下ろすと、痛いくらいに真剣な眼差しのエレフがいた。
「おやすみの挨拶。家族でもこのくらいはしたよな」
「……小学生の時くらいじゃなかったかな。それにいつも私からで、エレフからしてもらった記憶はないけれど」
「好きな奴の真似はしたくなるものだろ」
 エレフは人を食ったように軽く笑い、その微笑を閃かせたまま身を翻して階段へ向かっていった。恋を自覚した瞬間に想像したように、立ち去る彼女の手首を掴んで抱き寄せたい衝動が湧き上がったが、やはりそれは想像に留まり、ただ後ろ姿を見送る。
 本当なら一生告げるはずのない想いだった。それが受け入れられて、抱きしめて、キスをして、肌に触れて。いつもこれだけで充分だと思う自分もいるのに、どうしてこう、欲には際限がないのだろう。膨らむ執着心を噛み締めるように、レオンは短く嘆息する。
 ――今度の休みに。
 夢を叶えれば全ては現実になる。できるならこの現実が自分たちにとって優しいものでありますようにと、そう祈った。



 

END
(2014.08.11)




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