HONEY? T









 尊敬する大将閣下が実は女でした。
「……うん。女、なんだよな……」
 シリウスは誰にも聞こえぬよう小声で呟き、再び脳内で同じ文章を繰り返した。
 たいしょうかっかが じつは おんなでした まる
 文法上の間違いはない。生まれた時から奴隷として主人の役に立つよう教育され、貿易の護衛兼交渉役をしていたくらいである。ギリシャ語以外にも異民族の言葉だって多く知っているし、何なら訳して何種類もパピルスの上に書き付ける事だって出来る。
 だが、その文章が意味する事実を彼は上手く飲み込めずにいた。
「風を生かせ!相手は重い軍艦だ!追いつかれるほどのグズがこの船にいるか?」
 鼓舞する声は雄々しく高々に、夕日の迫る甲板に響き渡る。船縁に片膝を置き、半ば身を乗り出した女傑の喉から。
 緩くうねる月毛が荒々しく風に舞っていた。隙のない立ち姿で飛んできた矢を叩き切るアメティストスは、続けざまに叫ぶ。
「いいか、どんなに挑発されても相手にするな、とにかく逃げろ!無事に港へ帰れたら、久々に腐らない酒を飲ませてやる!」
「褒美に女は?」
 ふざけた合いの手がどこからか入ってきても、薄く笑って。
「まずは残してきた女房と頑張るんだな。子供が生まれたら子守りくらいしてやろう」
 と軽快に返す、その豪胆さと言ったら。
「格好いーなー、大将―…」
 本当に女性なのかと疑わしく思いながら、シリウスは同じように弓をなぎ払った。
「ぼさっとするなシリウス!オルフの位置は掴めたか?」
「……はい、ただいまっ」
 見惚れている場合ではない。叱責の声に頷き返し、慌てて水面へ眼を凝らす。
 いつものように市場を襲い、見事に奴隷ばかりを連れ帰った帰りの追撃戦。追っ手を適当にあしらいながら、オルフの率いる先遣隊と合流するよう船を走らせている最中だ。
「いました! あちらに追っ手は付いていないようです!」
 報告すると、よし、とアメティストスは呟いた。
「あっちの船には弓兵がいたな。攻撃はオルフに任せよう。こちらは物資も積んで普段より重くなっている。とにかく風に乗る事だ」
 さくさくと指示が出されていく。やがて船足を速めたこちらの意を汲んで、オルフの船が横から敵に射掛けて時間を稼いでくれた。
 潮の流れについては最初から計算に入れてある。太陽が海に帰る薄闇に紛れ、彼らの部隊は入り組んだ海岸線を利用しながら追っ手をまいた。
「良くやったな、お前達」
 労うアメティストスの言葉を皮切りに、わっと船内で歓声が沸く。シリウスはそれを眺めながら、自分に言い聞かせるように例の文章を思い返していた。銀の髪を邪魔そうに掻きあげる彼女の仕草が、思いがけず魅惑的だったので。
 たいしょうかっかが じつは おんなでした まる




 * * * * * * *
  



 アメティストスが女性だと知るのは現在シリウスしかいない。
 事の始まりは着替え中にばったり遭遇する、と言う実に陳腐な事故がきっかけだった。男尊女卑のギリシャで一人旅するには男を装った方が便利だったから、らしい。
 確かにそこらへんの男より男らしい人である。普段は胸を布で潰し、外衣を羽織る事で身体の線を誤魔化しているから、外見からは気付かれない。何より腕は立つし、立ち振る舞いや言葉遣いも颯爽としているし、それに酒豪だ。
 男とは単純な生き物である。例え言葉が通じなくても気持ちよく酒が飲める相手には素直に懐いてしまうもので、人種も年代も違う人間同士が集まった奴隷部隊において、酒宴は重要な交流の場となっていた。
 その席でアメティストスはがんがん飲む。びっくりするくらい飲む。陽気にはなるが、滅多に酔っ払わない。
 そこが格好良いのだ。元から彼女に救われた人間ばかりだから、さすが俺達の将軍様だ!と惚れ直してしまう。オルフなんかは敬愛の度合いが強すぎて、彼女に注いで貰った酒を有り難く全部飲み干すものだから、翌日は二日酔いで不機嫌になるパターンが多い。
「文字通り心酔してんのなぁ……」
「閣下の酒を断るなんて畏れ多い真似、しませんよ」
 拠点の村へ無事に逃げ帰った夜、恒例の宴の合間。席から離れて夜風に当たっていたシリウスが呆れて言うと、石段にしゃがみこんだオルフは恨みがましい口調で非難してきた。口元を押さえている所を見ると、そろそろ限界が近いようだ。
「貴方こそ何なんですか。護衛の癖に、閣下の隣から逃げて一人酒なんて忌々しい……」
「職務怠慢みたいに言うなよ。お前と同じで、酔い覚ましに立っただけだろ」
「そうですか? それにしては長いですね」
 オルフは鼻を鳴らす。長い前髪が揃って揺れ、その下からぎろりと鋭い目線がシリウスを射た。
「白々しいものです。閣下を避けているのは宴だけじゃないでしょう?」
「……まさか」
 内心でひやりとしながら、シリウスは大袈裟に肩をすくめさせる。
「なんでまた?」
「理由なんて知りませんよ。ああ、例えお二人が喧嘩なんてしていても仲裁なんてしませんからね。私はそれで結構ですから」
 側近が自分だけになれば嬉しい事です、としれっとオルフは答える。彼らしいと言えば彼らしいが、まさか見破られているとは思わず、シリウスは誤魔化すように頭を掻いた。
「……はいはい。冷てぇのな」
 オルフの忠誠心は行き過ぎて危うい所があるが、アメティストスを慕う姿勢は飼い主の後を脇目も振らずに追う番犬の類だ。素直に酒の相伴に預かって青ざめている彼の事を、少し羨ましいと思ってしまう。
(や、別に俺だって下心がある訳じゃないけど……)
 犬種こそ違うもののシリウスは自分も彼と同じ仲間だと思っていた。主人の為に働く事が生きがい、上手く出来たら誉めて欲しい、という純粋な服従。だが最近、調子が狂ってきているのは確かだ。
(なんたって大将、意識して見れば美人だもんなぁ)
 こうして村に帰ってきているぶんには問題ないが、船の上では全員が四六時中生活を共にするのだ。アメティストスが幾ら男前だからと言って、風でめくれ上がる彼女の白い二の腕だとか、髪をまとめる時に覗く片手で掴めそうな細首だとか、そういう物を発見するたびシリウスは帆柱に自分の頭をがんがんと叩き付けたくなる。
 後ろめたい!
 平たく言えば、気後れと気疲れで彼は混乱していた。
 きっと最初に裸を見てしまったのが悪かったのだ。軍神のごとく海から地上に舞い降りる狼が、柔らかい肉と曲線ばかりで作られているだなんて奇跡もいいところである。よくあのでっかい胸を上手く誤魔化せるなぁ、と無意識に彼女の服の皺を眺めた後、「巨乳好きの俺の阿呆!」と我に返るのだった。
 彼女の忠実な部下でありたいと思う。あまり自分の考えを表に出すような人ではないし、時折覗く表情がはっとするほど暗い人だからこそ、何の見返りも求めずに尻尾を振っていたいのに。
(くそ、男心の馬鹿野郎っ)
 そうした想いを裏切る不謹慎な自分の煩悩が憎らしい。
(どう大将を位置づけすればいいのか戸惑っているだけだ。断じてやましい気持ちではないぞ、俺は!)
 そんな訳でシリウスとしては「ちょっと冷静になろう」と自粛の意味を込めて主人から距離を置いているのだった。アメティストスも秘密を知られて居心地の悪いものがあるのか、時折シリウスと顔を合わせると妙にむっとした顔をする時があって、それがまた少し悲しい。
「はぁーあー…」
「煩いですね。人の隣で溜息を吐くとは失礼な」
「もー、隣で毒ばっか吐く奴よりはマシだろー…」
 オルフがごちゃごちゃと文句を言うが、まともに取り合う気にはならずにシリウスは宴の席に視線を戻した。
 石造りの建物は普段は集会場として使われているが、今は村中が集まって酷いどんちゃん騒ぎになっている。次々と運ばれてくる料理は瞬く間に人から人へと回されて、溢れ出てくる会話は途切れる事がない。
 だが一番華やいで見えるのは、やはりと言うか何と言うか、アメティストスの紫まじりの高貴な月毛だ。背もたれつきの長椅子にゆったりと腰掛けて酒を煽っている、ご主人様の存在感。
(……ん?)
 見るとシリウスとオルフが席を立った事をこれ幸いとばかりに、数人の娘達が酌をしようと寄ってきていた。明らかに好意がある目つきで、或る者は無遠慮に、或る者は気恥ずかしそうに酒や肴を勧めている。アメティストスは取り立てて反応する訳ではなく、ごく自然な態度で酒を注いで貰っていた。
 と、そこで彼女は僅かに眉を寄せる。そして酒を注ぐ娘の髪を突然手に取った。
「あ、あの……?」
「少し動くな」
 動揺する娘を一言で制し、じっと視線を動かさない。彼女は何やら真剣な表情で睫毛を伏せ、複雑に結ばれた髪を眺めている。顔が近い。
「閣下ぁー、まだお楽しみは早いですよぉー」
「口説くなら俺達と飲み終わってからにして下さいねぇー」
 男達から囃し立てる声が上がり、娘も瞳をとろんとさせていた。だが何せ、集中し出すと周りを綺麗に無視する特性がある人の事、シリウスは複雑な気持ちになった。
 確かに周りから見れば絵に描いたような美男美女。だが実はこれ、美女美女なのである。
(違う意味でちょっと美味しいとか思ってしまった俺の馬鹿……)
 船旅で疲れた頭が妙な想像ばかり送ってくるらしい。頭の中で二人の周囲には花が咲き乱れている。
 やがてシリウスがげんなりしているのも知らず、
「……悪い。面白い編み方だなと思って」
 と、アメティストスは口元を少しだけ綻ばせた。
 普段は無骨な英雄が、ちょっと笑う。何と言う奥義。
「……俺、大将に太刀打ちできる気がしないわ」
 あれは惚れるだろ、という言葉をシリウスは喉の奥に飲み込んだ。娘も卒倒しそうになっている。具合が悪そうに夜風に当たっていたオルフは、一部始終を見ていないと言うのに素っ気なく斬り捨てた。
「何を当たり前の事を」
「うん……そうだった。そうだったよな……」
 その言葉が全てを集約している。しみじみと納得していると、再び酒を飲んでいたアメティストスと眼が合った。彼女は例によって少しむっとした顔をすると、人差し指を曲げてくいくいと手招きする。
 シリウスは後ろを振り向いたが、彼女が自分を呼んでいる事は薄々と分かっていた。気休めにオルフの頭を掻き回し、ぎゃんぎゃん喚くのを尻目に席に戻る。
「えーと、何かお呼びですか?」
「しけた面をしていたからな。気味が悪くて敵わん。飲み直せ」
「あー…、しけっちゃいませんけどね。ちょっと格差社会について考え事を」
「ふうん?」 
 怪訝そうな顔をするアメティストスから酒を受け取って、隣に腰掛ける。先程の娘達は撤退したのか(きっと刺激が強すぎたのだ)酒瓶だけが床に残っていた。
「さすがにこれ全部は飲みませんよね?」
「どうかな」
 とぼけた顔で彼女は薄く口の端を上げる。シリウスは苦笑だけ返した。
「オルフはどうした、潰れたか?」
「あっちで座り込んでましたよ。明日になれば俺が八つ当たりされるんで、あんま飲ませないで下さい」
「そうか。平気そうな顔をしているから、つい飲ませてしまうな。強がっているのが面白くて」
「単に意地っ張りなんですよ。ほら、最初は船酔いも酷くて死にそうな顔していた癖に、今ではちゃっかり克服してるでしょ。あれは筋金入りですな」
「意思が強くて結構じゃないか。鍛えがいがある」
「止してください。これ以上酒飲みが増えると困るんですからね」
 酒で身体が温まったせいもあるだろう。最初こそ隣の席を気まずく感じていたシリウスだが、上機嫌の彼女の横でちびちび舐めるように飲んでいると、そんな気遣いも呆気なく消えていった。
(あー、やっぱ普通が一番だよなぁ……)
 きっと異性だからと変に意識していたのが悪かったのだ。長い脚を組んで座っているご主人様はやっぱり格好良いし、詰まらない事で悩んでいた自分が急に馬鹿らしくなってきた。
 だが和やかなシリウスとは反対に、アメティストスにはこちらのペースが不満らしい。
「お前は意外と飲まないな。酒は嫌いか?」
 そう言って中身の減りを確かめるように手元を覗き込んできた。
「ん、いや、あまり習慣になってないだけですよ。嫌いじゃないんですけど、昔はそうそう飲まなかったんで、何か勿体なくて」
「見掛け倒しだと思うだろう。ガタイはいい癖に」
「……はぁ、さいですか」
 視線の近さが気になってくる。とは言え彼女はすぐに姿勢を直したのでシリウスの微妙な戸惑いも長くは続かなかったが、残り香がふわりと尾を引いて鼻先を掠めていった。
「よし、オルフが駄目なら今夜はお前に飲ませてやる。男なら一度や二度、酔っ払って醜態を晒すものだ」
「ええ、嫌ですよ!偏見ですって!」
 ようやく普段の調子が出てきた所なのに、また風向きが変わってきた。厄介な上司お決まりの「私の酒が飲めないのか」攻撃に太刀打ちできるスキルは、残念ながら未修得である。強引に勧められるままシリウスは杯を重ねるしかない。
「なんだ、結構いけるんじゃないか」
「うぅ、俺は自分のペースで飲みたいんですぅ……」
「知らん」
 ふふ、と満足げに微笑む彼女が本格的に極悪人に見えてきた。
 だってシニカルに笑うたび目の前でふわふわ揺れる髪だとか、手に零した酒を忌々しそうに舐める品のない仕草だとか、脚を組みかえる時に覗く膝裏だとか、酔った男の眼にはどんなに凶悪に映るかだなんて、この人はちっとも理解していない。
(もうやだ……)
「ん、何だ、泣き上戸なのか?」
 ぐずぐずと目元を押さえつけて嘆く純情な男心に気付かずに、罪作りな女傑は面白がるばかり。シリウスは破れかぶれに相手をきっと睨み付けた。
「なら言わせて貰いますけどね、姫さん」
「……おい」
 女性の呼称で呼ばれて不愉快だったのだろう。先程まで気分よく整っていた眉が一瞬で吊り上る。他の兵が混乱するといけないからと本当の性別は秘密にしているのに、シリウスが不用意に口に出した事を咎めているようだ。
 だが幸い、周りに二人の会話を聞いている者はいない。シリウスはもう一度「姫さん」と呼びかけ、据えた眼で管を巻き始めた。
「大体、俺が酔っ払って、そりゃあもう凄まじい暴力を振るい出したらどうするんですか。男の酒癖なんてどんなもんか分かったもんじゃないのに、考えなしに、こんなガバガバ飲ませて」
「……お前が暴力?」
「でなきゃ、ほら、裸で踊るとか、口に出すのも憚られる程いやらしい事とか――…」
「………」
 しまった、と思った時には遅かった。アメティストスは酷く白けた顔で押し黙ると、無言で酒を浴びせかけたのである。
 濡れた前髪からぽたぽたと冷たい雫が滴り落ちて、シリウスは少し呆然とした。
「……あの……」
「よく分からんが落ち着け。お前らしくもない」
「……やりすぎじゃないですか……?」
「そうだな。悪かった」
 あしらいが上手すぎる。あっさりと謝罪した彼女が外套の裾でシリウスの顔を乱暴に拭ったので、また眼が潤んできた。思ったよりも酔いが回っているらしい。世話をされて嬉しいとか思う自分が、本当、情けない。
「もう、早く女だって事、全員にバラして下さいよ……」
「また脈絡がない酔っ払いだな。どうしてだ?」
「だって姫さん美人なんですもん……」
 俺一人の手じゃ負えません、と続けるつもりだった愚痴は「……馬鹿にしているのか?」と吐き捨てる相手の台詞で遮られた。顔を拭う手が更に乱暴になり、むぐ、と呻きながらシリウスは慌てて様子を窺う。
 眼を怒らせて不機嫌になった彼女の、赤らんだ耳朶の辺りがどうしても照れているようにしか見えなかった。
 何か色々とまずい気がする!
「すいません姫さんは世界一男前です伝説のヘラクレスも真っ青の豪傑です」
「……ふん」
 取り繕うシリウスの謝罪が虚しく地に落ちる。この微妙な雰囲気も、それこそ酔っ払いの醜態にしか見えないんだろう。会話など一つも聞いていない周りの男達が、土下座しているシリウスを見て暢気に笑い転げていた。








END.
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