迷走の午後




Laurencin×Hiver








「ところで、何故、あの時は僕が女役だったんだ?」
 そうイヴェールがぽろりと零した言葉で、座りながら仕事の報酬を数えていたローランサンはテーブルに額をぶつけそうになった。
 質問が唐突であると同時に不用意すぎて、まともな反応が取れなかったのだ。過剰反応する自分に腹が立ったが、何かを飲んでいる途中だったら確実に噴き出しているところである。
「お前、それは二度と口にすんなって言っただろ。ちゃんと謝ったし、もう俺は忘れたんだ」
 がくんと硬貨の中に落ちかけた首を気力で支え、向かい席を必要以上に睨み付ける。顔が強張るのが分かった。イヴェールは頬杖を付きながら、相方が動揺するのを不思議そうに眺めている。
「そうは言っても、僕の方は覚えているから釈然としないんだが。一つも覚えていないのか?」
「……だ、か、ら、忘れたっつってんだよ!」
 呆れたようにイヴェールは言うが、溜息を吐きたいのはこっちの方だ。詳しい出自は知らないが教養もある彼の事だから、もしかしたら元貴族か、あるいは裕福な商家の出なのかもしれない。恋の華が淫らに咲き乱れる社交界の付き合いを知っていれば、貞操観念が希薄でも頷けるが──この男の場合、単に何も考えていないのでは、とも思う。
 そもそも事件から数日たったのに今更ぶり返す話題でもない。ローランサンは返事をしないまま視線を避け、手元の硬貨を苛立たしげに掴むと、円テーブルの上から袋の中に乱暴へ押し込んだ。ジャラリと鳴る金属音で、靄ついた思考を追い払おうとする。
 ──本当に何なんだ、こいつは。
 全く訳が分からない。酒の勢いで一夜限りの情交を待ってしまった二人だったが、その後、特に関係が変化することはなかった。悪いのは酔っ払った自分で被害者は彼の方なのだから、当然それなりの制裁──非難や別離など──が訪れると思っていたのだが、当人であるイヴェールの反応は今でもさっぱり分からないし、掴めない。何も気にしていないのかと思えば、こうして臆面もなく質問してくる。こちらが記憶の彼方へ追い払おうと必死で努力している最中だというのに、これでは堪ったものではない。
 しかし実を言えば、ローランサンも部分部分の短い記憶なら覚えていた。すっかり溺酔していたにも関わらず、初めて男を抱いた経験はそれだけ珍しい、と脳が保存したのだろうか。月光に浮かんだ肌と、くしゃりと歪んだ表情と、鼓膜を揺すった嬌声──。
 仕事仲間としてのイヴェールを知っている彼にとって、この映像は歓迎するべきものではない。無駄に動揺する羽目になる。連日で同じ宿屋に泊まっている事もそれを助力しており、折に触れて彼の痴態を思い出してしまうのは非常に居心地の悪いものだった。
 ローランサンは舌打ちすると、銅貨や銀貨(残念ながら金はない)を詰めた袋の口を縛り、だんと音を立ててテーブルの端に置く。
「その話はもういいだろ。酒の勢いとは言え悪かったよ。だが酔っ払いの俺相手に、素面のお前が女役になるのは仕方ないじゃねーか。これで逆だったら、俺の方が男を誘う真性だったのかってショック受けて首括ってたぜ」
「ああ、それもそうか」
 ぶっきら棒な口調で喋るローランサンの顔色を窺いながら、イヴェールは頬杖の上で小さく呟く。納得したのかどうなのか──しかし口を閉ざす気配はない。ローランサンが早めに話を切り上げたい事を察しつつ、敢えて会話を続ける気のようだ。淡く人の悪そうな微笑が浮かぶ。
「しかしこうなると、自分が酒に強いのが損に思えてくるな。まさか君の無礼講に付き合う羽目になるなんてね」
「……おい、イヴェール」
 もしや、こうして揶揄するのが彼なりの仕返しなのだろうか。ローランサンは面白くなさそうに、引き結んだ口を曲げた。
「こっちが反省しているのに趣味が悪いぜ。もう止めろよ」
「そっちの態度が態度だから、反省が良く分からないんだ。なあ、本当に悪いと思ってるのか?」
「しつこい」
 思わず、叩きつけるような調子になる。
「終わった話を蒸し返して何が楽しいんだよ。俺だって普通の男だぜ、抱くなら女がいいに決まってるだろ。例え器が三流でも、場末の娼婦の方がマシだ。何が楽しくてお前なんか──」
「ふうん?」
 言葉を遮るように片眉を上げたイヴェールの声が、不意に一段階、低くなった。
「娼婦と比べられるとは思わなかったな。酔ったときの相手に丁度良かった、と?」
 薄く笑んだ彼の反応に、失言だったか、と口を噤む。からかっていただけなのだから、こちらも本気で返すことはなかったのだ。話が妙な方向へ転がり出している。
 しかも先程までと違って、低く囁くイヴェールの微笑は雲行きの怪しさを物語り、常の開けっぴろげな陽気が剥がれ落ちてしまっていた。彼は不機嫌になったときほど物静かになる男だったので、その見えない不穏な雰囲気に、ローランサンは内心たじろいで顔を背ける。
「そういう意味じゃない。仕事仲間に手を出すような事はしないって言ってるんだ」
「でも、出してしまったな」
「………」
「それで後悔している。自覚していたかは知らないが、ずっと目を合わせようとしなかったものな」
 ぎくりとする。声は更に冷ややかさを増した。
「罪悪感も結構だが、いい加減に僕も不愉快だよ。忘れるなら忘れるで徹底して貰えないか。こう何度も避けられるのは、あまり良い気分じゃない」
「それは──」
 ローランサンは口ごもり、指摘通りに反らしてしまっていた視線を無理に合わせた。つまり、今までイヴェールが暢気に接していたのは、ぎこちなくなった関係の和解の為だったのか。これでは更に肩身が狭い。
「……別に意識して避けていた訳じゃない。俺だって悪いと思っていたからだ。仕方ないだろ」
 ぼそぼそ苦く吐き出すと、ふうん、とイヴェールは相槌を打つ。普段から男にしては涼やかな声だが、こうなると氷のように玲瓏としている。
 彼は言い訳じみたローランサンの言葉に冷笑すると、視線を絡めるようにして軽く身を乗り出した。
「意外と純情だね。じゃあ、これで無しにしようか」
 相殺だろう、と指先でするりと顎を持ち上げられる。細められた色彩は伏せ目がちだったが、白い睫毛の下で鮮やかに光っているそれは何故か──怒っている、ようだ。
 思いもよらない展開に焦る暇もない。唇のきわを掠め取るような接触が、最初だった。続いて、軽く押し付けられた唇が柔らかに呼吸を奪いにかかってくる。反射的にローランサンは僅かに体を引いて距離を取ろうとしたが、やんわりと掴んでいるイヴェールの手は案外強固で、回避するまでは至らなかった。
 ──何のスイッチが入ったんだ、こいつ。
 宿の小さな円テーブルを挟んで、頭の芯が痺れたように動けない。それは行為が問題ではなく、むしろ相手の豹変に呆気に取られていたと言う方が正しい。ざぁっと砂嵐に似た目眩が一度だけあって、大きく心臓が跳ねた。そういえば情交の記憶は残っているのに、彼との口付けの場面だけは綺麗に抜け落ちてしまっていたと今更になって気付く。
 それはイヴェールらしい、丁寧で紳士的な口付けだった。乱暴ではないが、ときおり軽く唇や吸う仕草が滑らかで、夢見るように甘い。見目も良い彼の事だから、これで女どもは恍惚としてしまうだろう。実際に本気を出している彼は妙な迫力があって、普段では考えられないほど麗しく見えた。
 しかしキスとは駆け引きである。更にローランサンの場合、これまでの人生経験で育成された処世術で、窮地に陥ったときほど反射的に開き直る場合が多い。硬直から逃れると、ほとんどヤケクソでイヴェールの胸倉を掴み上げた。そして一度顎を引くと、噛み付くように相手の唇を食みにかかる。
 対極の、獣めいた荒々しい口付けだった。イヴェールは一瞬驚いたように息を止めたが、既に意地になっているのだろう。顔を離すことはなく応えてくる。泥沼だなと考えながら彼の髪を掴んで頭を引き寄せると、がたん、と椅子が音を立てた。
 どちらがリードを取るか、それを競って熱を奪い合う。しかし隙の出来た唇に深く舌を差し込む段になると、そこで初めてイヴェールが目を瞑った。舌先が逃げ、ぴくりと頬に睫毛の感触が当たる。
「……ふ」
 鼻から抜ける、小さな吐息が漏れたのを聞いた。構わずに口内を舐め上げると、今度こそはっきりと上ずった震えが伝わってくる。絡まった舌が熱く、先程は氷のようだと感じた声音も、次第に溶け出しているような呻き声が上がった。
「ん、う」
「…………」
 ふとローランサンは我に返る。
 これ以上は危険だと警報が鳴った。同時に先日の光景が蘇り、薄目を開けてイヴェールの表情を窺った途端、弾かれたように肩を突き放した。
 ──何を張り合ってるんだ。
 冷静になると、場に流されて、今度こそ取り返しのつかないことをしてしまったような気がしてきた。時間を戻せるなら、キスに応えた瞬間の自分をまず殴ってやりたい。
「くそっ」
 イヴェールの方も一度咳き込んで悪態をつくと、口元に手を当てていた。正気には戻ったようだが瞳が薄く潤んでしまっている。赤みを帯びた目許は未だ記憶に新しく、ローランサンは天を仰ぎたくなった。
 これでは先日の行為がチャラになるどころか、余計に気まずくなるだけじゃないか。
「これで懲りたろ。お前、決定的に押しに弱いんだ」
 無愛想に告げ、だからもう余計な事はするなと先に釘を刺しておいた。イヴェールは何を言われたのか理解していないようにきょとんと瞬いたが、やがて不本意だと言わんばかりに口元を拭う。
「……それは盲点だったな」
 僕が墓穴を掘っただけじゃないかと呟き、悔しげに赤くなった唇を噛む。仕返しが失敗してばつが悪かったのだろう。微かに上気した頬を眺めながら、ローランサンは不機嫌に頬杖をついて硬貨の入った袋を掴み、そろそろ新しい宿を探そうと決意した。ここまで妙な展開になってくると、もしや部屋に呪いでもかかっているんじゃないかと思いたくなる。
 まったく、一体なんなんだ、俺ら。








END.
(2007.09.28)

ツンギレと天然フェロモン



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