祝い酒に天の杯
















 長い航海の労いに。水平線に次の補給地が見えた暁には、ワインを全て開けて祝杯を!



 ――と言う話だったのだが、いざ陸が見えて樽を覗いてみると、残っている量は僅かで。
「ろくに配給も出来ん低能なのかね、我らが航海長は!仕方ない、諸君、掻き集めたまえ!」
 と皮肉屋の航海士の号令により、娯楽に飢えていた水夫達は一斉に探索に乗り出した。貯蔵品の入った船倉は勿論、厨房、家畜の住まう飼い葉置場まで及ぶ大捜索である。彼らは空になってバラした樽まで調べ上げ、医務室にあった消毒液まで引っ張り出し、華々しい酒盛りの準備に期待を膨らませた。
「しかし、それでもこの程度か……陸ならば更に水で薄める事も出来るのだが」
「有り得ん。船では水の方が貴重だからな。既に使い切ってしまった」
 船室に集められた樽と壜を一瞥し、イドルフリードとコルテスが呟く。元より食糧事情が苦しい航海、それなりの量を見越して積載していたが、船員達が満足する宴を目指すとなれば心許ない。不満の溜まりやすい過酷な労働状況だからこそ与える飴はとびきり甘くなければ、と言うのが二人の方針であった。
「古代には海水でワインを割ったとも聞く。この機会に試してみるのも一興かもしれないな。質と量、どちらを取るかと言う問題かもしれんが」
 取り上げた壜を光に透かしながら、イドルフリードが思案する。
「もしくは薄い酒よりも摘みを奮発するべきか。水夫と言えば船酔いに酒、気付けに酒、病に酒、怪我に酒、と何とも愛すべき思考の持ち主だが、なあに、どうせ数日で補給地に着く。無理に酸っぱくなったワインを薄めて惨めたらしく酔うよりは、食事で腹を膨らませた方がいいだろう。そうだ、バラしていない豚が何頭かいたはずだ。あれを捌けばいい。いつものような何の肉なのか分からなくなるようなどろどろのスープではなく、もっとこう、大胆で旨みのある――」
「こちらとしてはその前に、他に試してみたい事がある」
 コルテスが話を遮った。気持ちよく語り出していたイドルフリードは出鼻を挫かれて鼻の上に皺を寄せたが、すぐに気を取り直す。
「ほう。何か妙案でも?」
「お前の持ち物を改めさせてもらいたい」
「……うん?」
 ぴく、と金の眉が跳ね上がった。コルテスは腕組みをしたまま相手の顔をじっと眺めている。イドルフリードは訝しげに首を捻り、手にした壜を卓に戻した。
「分からんな。どうしてそんな話になるのかね?」
「普段なら酒に目のないお前が、あっさり調達を諦めたからだ。さては既に樽からくすねているだろう?」
「失礼な、濡れ衣も甚だしい!あんな狭い場所のどこに酒をくすねるだけの空間があると――!」
「濡れ衣だと言うのなら問題ないだろう。見せてもらおうじゃないか」
 コルテスが言い放つと、しんと部屋に沈黙が降りる。イドルフリードは一言も発しなければ顔色を変える事もなかったが、水面下で激しく考えを巡らせていたようだった。その証拠に瞳の輝きが常よりも鋭くなっている。しかしコルテスが確信的に口の端を吊り上げると、はっとしたように詰めていた息を吐き、一歩前に踏み出した。
「……ところでだ、フェルナンド」
「何だ」
「常々思っているのだが、酒の価値は何だと思う?」
 イドルフリードが小声で囁く。
「私が思うに、それは質でも量でもない。そんなものは馬鹿舌の男達にはちっとも問題じゃない。元から東西の区別さえ付かない、牛のように鈍く幸福な連中さ。それなりの物が飲めれば満足する」
「ほう。それで?」
「では酒の真の価値とは何か。薬になる事か、酔える事か、それとも夢を見る為か。あるいはもっと深い価値があるのか?」
 彼はコルテスの答えなど待たない。声を低め、人目を憚るように詰め寄る。
「私が思うに、酒の持つ真の価値とは罪悪だよ。理性を解きほぐし、人間を動物にさせ、思いもよらぬ結果を生む。酒で人生を豊かにする男よりも、人生を棒に振る男の方が多いのは何故だと思う?普段は貞淑なご婦人達が、すまし顔を引っ込めて胸を押し付けてくるのはどの瞬間だ?」
「…………」
 顔を覗き込む相手に、コルテスは眉の動きだけで続きを促す。イドルフリードは更に声を低めた。
「酒は言わば楽園の林檎、蛇の誘惑さ。飲み干すたびに我々は神から見放され、荒野を彷徨う最初の種族なのだと思い知らされる。しかし知恵を得た人間達が今日の文明も気付いたように、罪は罰だけではなく、祝福も連れてきた。例えばある作曲家は正体を忘れて飲み崩れた際、記憶の跳んだ状態でとてつもない楽譜を書き上げたと言う。これは言わば酒と言う悪魔との取引だ。だからこそ二日酔いになった人間は、昨夜の自分の行いを罪深いと感じるのさ。そんな悪魔、捕まったが最後。誰だって抗えない――」
 そう話を締め括り、こくん、とイドルフリードはおどけた仕草で首を傾げ。
「……と言う訳でフェルナンド。友人同士、ここは一つ取引しないか?」
「よし、乗った」
「ははっ、即答だな!」
 二人は急に軽い口調になり、晴れ晴れと互いの拳を打ち合わせる。コルテスは組んでいた腕を解き、一仕事終えたように椅子に座り込んだ。
「お前の詭弁に慣れたせいだ、即答にもなる。心配せずとも黙っておこう」
「ならば話は早い。後で一瓶渡そうじゃないか。ふふ、聞いて驚きたまえ、ストレートの酒だぞ!」
 イドルフリードもまた何かをやり遂げたかのように上機嫌になる。
「安心したまえ、船からくすねたものじゃない。混ざり物のない陸のワインさ。製法が違うようで色が少し薄いんだが、味は文句なしの一品でね」
「ほう……どこで手に入れた?」
「私の隠し財産だよ。以前、花売りの娘がスカートの下に隠し持って小船で届けてくれたのさ。いくら愛すべき仲間達とは言え、価値も分からん連中にばら撒くほど私は酔狂ではないのでね」
「スカートの中、か。お前の事だから胸に挟ませたのかと思ったが」
「はっ、成る程。谷間から壜を抜き取るわけか。次に試してみよう」
「船員達には罪滅ぼしに、お前の助言通り料理の方で奮発するとしようか。料理人に言って豚をバラしてもらってくれ」
「そうだな、任せたまえ。私から伝えておく」
 二人は集めた宴会用の酒樽を見回しながら、この部屋にはないワインに想いを馳せた。結託の秘密もまた、酒と同様に甘美な罪悪である。





END.
合同お題より



TopMainConquistadores


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -