暗雲礼賛









 水平線の僅か上に、筆を走らせたような黒い一本の線が伸びていた。時間を追うごとに太さを増して近付いてくるそれは、船乗りにとって不吉な印に他ならない。暗雲である。
「東からだ。あと四時間と言ったところだろう」
 船首に立つイドルフリードは望遠鏡から顔を離し、無駄なく目視に切り替えた。皮膚に直接吹き付ける風からも、生暖かい雨雲の気配を感じられる。遠く、稲妻の走る音がした。
「大きくなりそうか?」
「ああ、早めに帆を畳んだ方がいい。黒焦げのパンみたいなやつだ。錨も下ろした方がいいかもしれん。あちらでは雷が鳴り始めている。止まった方がいい」
「……随分なタイミングで来るな」
 航海士の返事を聞いたコルテスは、難しい顔で水平線を睨んだ。耳のいい人間ならば「急いでいる時に限って」と呟く声が聞こえたかもしれない。しかし彼は副船長へ振り返ると、手短に嵐への備えを告げた。その意を汲んで「総員、甲板に上れ!帆を減らすぞ!」と怒鳴り声が響き渡る。
「そうそう、今夜は皆じっとしているのが一番だ。もう少し船を南に流せば嵐の中心から免れるかもしれない。椅子に腰を据えるとまでは言えないが、まあ、暇になればカードをする余裕くらいはあるだろう」
 周囲の慌しさとは反対にイドルフリードは優雅な姿勢を崩さない。彼にとっては見通しのついた嵐など、泣き出した女を扱うようなものだ。対応などはっきりしている。涙に怯まず、慎重に様子を窺い、なだめすかしてやれば再び青空に戻るのだ。それまでヘマをせず誠実な手を打てばいい。
「避ける事は可能か?」
「いや、完全に逃げ切るのは無理だ。少しばかり立ち止まって雨宿りしていようと言うだけだよ。雲が来るまでに時間もあるからね。安全な領域までは退避できる」
 コルテスは厳しい顔で腕組みした。司令官として、彼はイドルフリードほど暢気に考える訳にはいかない。彼とて女性の扱いには定評があるが、軍事的な戦況や船の状況、任務の日程などが問題をややこしくしていた。
「ベルナール、海図をここに」
「はっ」
 命じられた男は素早く海図を広げる。ベルナール・ディアス、何かとまめな男である。望遠鏡で両手が塞がっているイドルフリードに代わり、傍らで海図を持っていたのだ。コルテスはそれを覗き込み、逃げ込む浅瀬や入り江がないかと確認する。それがさっぱり見つからないと知ると奥歯を噛み、最低限の筋肉で渋面を作った。イドルフリードはその横で再び望遠鏡を覗き込み、美女の脚でも眺めるような興味深げな顔で悠々と手摺りに寄りかかっている。
(対照的な……)
 ベルナールは嫌な予感がした。コルテスが船足を気にかけているのは数日前から顕著になっている。一刻も早く目的地に着きたい。しかし海は人の都合に合わせてくれない。風が弱く、予定よりも船足が遅くなっていた。ようやく風が出てきたと思ったら、この暗雲である。
「いや、このまま進む。突っ込ませるぞ」
 案の定、思い詰めたコルテスが真顔で言い放った。一拍の後、イドルフリードが静かに聞き返す。
「……何だって?」
 あちゃー、とベルナールは内心で顔を覆いたくなった。しかし海図を広げているのでそれも適わない。手摺りに寄りかかったイドルフリードが殊更ゆっくりと望遠鏡を下ろすのが視界の端に入り込んだ。
「フェルナンド――誤解させたなら悪いが、カードをたしなむのはあくまで我々が肩をすくめ、叱られる子供のようにこっそりと嵐の端っこで立ち止まっていた場合の話だ。錨も下ろした方がいい、とまで言ったんだぞ。それはつまり直撃したら尋常じゃないと言う事だ。錨を流して、漂いながら波を受け流さなければ転覆する可能性がある。そう、わざわざ解説しなければ分からないのか?」
「以前もあの程度の雲に突っ込んだ事はあったはずだ。それに真正面からぶつかろうと言うんじゃない。あくまで船を止めず、嵐の端を最短距離で進む」
「はっ、最短?」
 イドルフリードは伸ばしていた望遠鏡を両手で挟み込み、苛立ちを込めるようにして、ばしりと折り畳んだ。
「いいかい、海に最短も最長もない。我々が相手にしているのは自然の波だ。それも嵐のね。確かに私は航海士で軍事的な戦況は知らされていないし、君がどれだけ急いでいるのかさっぱり理解できないが、海の専門家として嵐の時の対処法は誰よりも心得ているつもりだ。そんな事は馬鹿げている」
「お前の腕ならいけるはずだ。ようやくの風を逃がしたくはない」
「ああ、確かに前回は何とかしたさ。しかしあれは突発的な雲で、他に避けようがなかったからだ。今は違う、避ける時間がある。錨を下ろすべきだ」
 両者とも引かなかった。その間も背後では船員達が甲板の手摺りやマストにしがみつき、帆を畳む作業を進めている。ベルナールは半眼になり、それこそ嵐が過ぎるのを待つように海図を広げ続けていた。早く持ち場に戻りたいのは山々だが、互いに苛立っている二人を置いていく訳にはいかない。何だかんだで自分の仕事には熱心で誇りを持っている男達なのだ。一度ぶつかると手に負えない。いざという時の仲裁役は必要だった。
 しかし最終的な切り札はコルテスの方にある。彼は目を細め、宝刀を抜いた。
「こんな言い方は好みではないが、イドルフリード、お前は航海士だ」
「うん?」
「そして私が指揮官だ」
 その瞬間だけ、彼らの周囲に水を打ったような沈黙が落ちる。もはやベルナールは恐ろしくて口を挟めない。イドルフリードはこれ以上ないというほど盛大に顔をしかめているし、コルテスはこれ以上ないというほど不遜に腕を組み続けている。いつのまにか指示を仰ぎに寄ってきた副船長も、まずい時にきてしまったと遠い目をしている。
「……ああ、そうかい、分かった。分かったとも、そう、それでこそ我らが将軍殿だ。いいとも、さすがだ、無謀すぎて惚れてしまいそうだよ、君のケツにキスしたっていい!」
 やがてイドルフリードは望遠鏡の柄を片手に叩きつけ、拍手でもするようにぱんぱんと鳴らした。彼らしくない投げやりな態度である。
「お前ならやり遂げられるさ。頼んだぞ」
「では、私からも条件がある」
 頷くコルテスの胸元にイドルフリードは望遠鏡を突きつけた。正確に言えば、どんと小突いた。
「帆は全て畳んでくれ。四分の一だとか、トップスルだけだとか、そんな中途半端な真似はさせない。あくまで舵だけで航路を取る。何かあった時の人員として海尉の班を残し、余計な船員は下にいかせろ、海に落ちても困るからな。ああ、しかし波が強くて舵が勝手に回り出すかもしれんから、その為の人手も必要だ――そして君は船長室に引っ込んでゲロでも吐いていてくれたまえ。少しでも甲板に出てきたら、うっかり持ち場を離れてカードの勝負を挑みたくなるかもしれないんでね。つまるところ私の前に顔を出すな分かったか低脳が!」
 一気にそう吐き捨てる。ベルナールの隣で指示を待っていた副船長は、ようやく決まった指針を大声で背後に怒鳴った。嵐を突っ切る旨を船員に伝えるその声に続き、イドルフリードが「ビビって漏らすんじゃねえぞ、糞どもが!」と付け加える。ベルナールはひっそりとコルテスに目配せした。口調が変わっている。
「……物凄く不本意みたいですが」
「本気を出してくれそうじゃないか。ああ、ベルナール、もう海図はしまっていいぞ」
 コルテスは苦笑を浮かべながらも満足そうにしてる。ベルナールはようやく海図を丸めて懐にしまい込むと、嵐の到来に備えてしっかりと帽子を被り直した。






 海は次第に青みがかった灰色になり、やがて黒に染まる。空が消えた。あるのは泥のような雲だけだ。船は大きく上下し、沈み込んでは起き上がる動作を繰り返し始める。雷は収まったようだが雨は止まない。叩きつける雨粒と甲板を浚う海水が、イドルフリードの長い髪をべったりと服に貼り付けていた。
「こういう時はつくづく髪を伸ばして良かったと思うよ、縛っておかなければ邪魔で仕方ない!」
「後ろはともかく前が邪魔そうですけどね!」
「ではもっと伸ばして縛ろうか!」
 ベルナールが合いの手を入れると、気を取り直したのだろう。皮肉げに笑い返すイドルフリードには先程のような投げ遣りな気配はない。彼はしがみつくように舵を握り、じっと嵐の様子を眺めている。怒鳴らなければ互いの声が聞こえないほど周囲は騒々しくなっていた。
「見てみたまえ、この船を!はるばる異国の海にまで我々を導いてきた女神だが、最近は少々お疲れ気味だ。こんな健気な美人を嵐に突っ込ませるなんて、我らが将軍殿は極悪人だよ。嘆かわしいな!」
 イドルフリードはコルテスに対してまだ根に持っているようだ。二人の周囲には船員が五人、甲板には選ばれた海尉の班員たちがいる。コルテスは言いつけ通り船長室に引っ込んでいるはずだった。ベルナールはそれ以上その話題には触れず、迫りくる大波から恐怖を紛らわす為、饒舌な航海士の隣で舵を支える手伝いをしている。
 波はどんどん高くなり、ほとんど山のようだった。それもよりによって岩ばかりの峻厳な山だ。それらは壮大な角度を描き、船体を軽々と持ち上げてしまう。ぐうっと横から姿を現す大波は、少し手を伸ばせば触れるのではないかと錯覚するほど巨大だった。イドルフリードはそのたびに怒鳴り、舵を支える男達に指示を与えながら、その波を斜めに突っ切っていく。山を越え、谷に差し掛かると、甲板には泡立つ海水が降りかかり轟然と反対側へ流れ落ちていった。ベルナールはこのまま転覆すると何度か思ったが、際どい場面で船は持ち直し、再び次の波へと果敢に挑んでいく。
「エーレンベルクさん、あんた、やっぱり凄い航海士だったんですね!」
 凄まじい進み方だった。こんな操船は聞いた事がない。ベルナールは思わず叫んでいた。
「当然だろう、しかし私の事は記録に残すなよ!お前の褒め言葉は些か痒いからな、麻疹と勘違いしてしまう!」
「意地っ張りですね、褒められるのは大好きでしょうに!」
「お前もおしゃべりな男だ、少しは口を減らしておけ!」
「しゃべらせて下さい、あんたと同じで寂しがり屋なんですよ!」
 あまりの経験に神経が高ぶっているのだろう、ベルナールはひどく愉快な気分になっていた。うねる海の鼓動が足元から直接感じられる。命綱をつけていなければ、傾く船板と覆いかぶさる海水の隙間に連れて行かれそうだった。海は本来なら人のいるべき場所ではないのだと改めて実感する。舵もぶつかってくる波に取られ、下手に押し返せば体ごと弾き返される恐れがあった。イドルフリードの指示によって力を受け流し、あるいは支え、勝手に回ろうとする舵を自分たちのものにしなければならない。
 しかし、何故こうも高揚している自分がいるのだろう。荒れる海に飲み込まれそうになりながらも、自分は今、どんなに美しいセイレーンの誘惑も耳に入らないほど、この作業に夢中になっていた。イドルフリードも同様なのか、怒鳴り返す声はほとんど笑って聞こえる――。





 果てしない波の連なりは数時間も続いた。しかし何事も終わりが訪れるのが世の摂理である。雨脚が次第に弱まり、雲が薄まって淡い金色を覗かせるようになると、海は元の清々しい青さを取り戻していく。
「舵を交代しろ。ずぶ鼠だ」
 コルテスが甲板に上がってきた時も、ベルナールは興奮状態にあった。舵にぶつかる振動は少なくなっていたが、まだ船は上下に揺れている。今ならばいつまでも起きていられそうだと思ったが、いつのまにか被っていたはずの帽子がなくなっている事に気付くと、途端にどっと疲れが押し寄せてきた。まるで体に張り付いた服の重さが数倍になったかのようだ。
「顔を見せるなと言ったはずだが?」
 舵の上に顎を乗せ、イドルフリードが口の端を上げて尋ねる。コルテスは目を細めて二人の様子を眺めると、宙を切るように片手を振った。
「もう嵐は過ぎた。今ならお前とカードをしても問題ない。よくやってくれたな」
 彼も彼で距離を稼げて機嫌が良いらしかった。あるいは部下が有能で誇らしいのかもしれない。口調に嫌味がなかった。明るくなっていく空に似た、妙に晴れ晴れとした声だ。イドルフリードはそれを聞き、かえって微笑を引っ込める。
「馬鹿を言わないでくれたまえ。頼まれたってカードなどするものか。着替えて寝る」
 そう言ってベルナールの背を叩き、先を行くように促した。いまだに臍を曲げているのだろうか。しかし階段を下りてコルテスと擦れ違う際、イドルフリードが拳を額に当て、不本意そうに敬礼を示すのを見た。ベルナールはそれに気付き、これもいつもの事かと濡れた髪を掻きあげる。付き合っていられない。そして彼は瞼に刻まれた嵐の光景を眠らせるべく、そそくさと船室に下りていった。





END.
(2012.05.07)

荒くれ者のスラングが好きです。たまにイドさんにも言って欲しい。


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