日々洋々











 いるべき場所に見当たらず、いなくてもいい時に現れる。おおよそイドルフリード・エーレンベルクほど厄介な男は存在しない。
 こちらと思えばあちらへ。あちらと思えばこちらへ。蝶が花を飛ぶようにと表現すれば美しいが、おかげで当直を交換する際、部下の二等航海士はうろうろと先輩を探すはめになった。水夫達も心得たもので、エーレンベルクなら甲板でハンモックを干していた、いや医務室で船医とカードをしていた、と目撃情報を惜しまない。しかし努力も虚しく、散々船内を歩き回った二等航海士が「天候よりも余程読みにくい上官だ」と途方に暮れる光景が船内の日常茶飯事となる。
 さて、イドルフリード本人の言によれば。
「やれやれ。どうも不思議な事に、彼とはいつも不幸な入れ違いになるようでね。まるで互いの体が透けてしまい、気づかないまま通り過ぎるような具合なのだ。これもまた海の怪異と言えよう」
 まさしく「いけしゃあしゃあ」とは彼の為に作られたような言葉だ。これで航海士としての腕が悪かったら、それこそ鞭の間を歩かせて背中の皮を剥がなければなからなかっただろう
 だが、腕は良かった。残念ながら腕は良かったのだ。
 この男の場合は腕と言うより、むしろ勘なのかもしれない。暗雲と晴天がせめぎ合う気紛れな天候や、面白いようにひょいひょいと船が座礁する複雑な島巡りにおいてさえ、彼は決して航路を誤まらなかった。耳のいい音楽家が街角の雑踏から美しい旋律を見つけ出して楽譜に書きとめるように、鼻歌まじりで目的の場所を嗅ぎ分ける。そして他の人間が妙なる天の音楽に気付かない事を信じがたいとばかりに嘲笑うのだ。いやはや哀れなるかな、低脳たる君達には海の女神の声が聞こえないようだね、と。
 まあ、このように何かと問題の多い人物だが、なにせ未知の海域が星の数ほど存在する時代。余白を埋めるように海図へ海蛇や大蛸を描き入れ、闇の中を手探りするように陸地を書き加えていった大航海時代の幕開けにおいて、腕のいい航海士の存在はそれこそ黄金にも等しい。また当時は厳格な海軍の掟も確立されていない。それ故に多少の問題も大目に見なされており――。
「うわぁっ、エーレンベルクがまた何か妙な物を釣り上げたぞっ」
「誰か網を持ってこい!この野郎……つっても航海士じゃなくて魚の方だけどよ、めちゃくちゃ暴れてやがる!」
「恐ろしい、こりゃ悪魔の落とし子じゃあぁぁ!」
「おい、爺さんが腰を抜かせたぜ!」
「誰か船医を!」
 今日も今日とて、イドルフリード・エーレンベルクの奇行の結果に周囲が振り回される事となる。
「……この馬鹿騒ぎは何事だ」
「ああっ、将軍!いい所に!うちの、うちの上官がまた、またぁああ!」
「…………まずはお前が落ち着け」
 うっかり甲板に出てしまったコルテスはうっかり尋ねてしまった事により、涙目の二等航海士にすがりつかれて大変鬱陶しい事になってしまった。迂闊である。騒ぎなど無視して船室でくつろいでいれば良かったと後悔しても時遅く、あやよあれよと腕を引っ張られ、彼は騒ぎの渦中へと引きずり込まれてしまう。
 磨きこまれた甲板には人だかりができていた。漏れ聞こえてくる話し声に耳を傾ければ――なんだこの物凄い魚、いや、そもそも本当に魚なのか、何かの奇形児じゃないのか、毒々しいにも程があるぞ、妙にぬめぬめしているし、恐ろしい、やっぱりこりゃ悪魔の落とし子じゃあああ、落ち着け爺さん、おーい誰か船医を呼んでやれ――と怒声が飛び交い、まさに大混乱ここに極まれり。
 まったく、たかがイドルフリードの奇行ごときで取り乱すとは情けない。早急に規律を叩き込んでやらねばとコルテスが船員達への指導計画を立てていると、不意に一際大きい弁舌が響いた。
「まったく、たかが魚ごときで情けない!」
 音楽的なその声は、奇しくも彼の内心を読んだように同じ文句から始まっている。
「元よりここは偉大なる大海洋。我々がいるのは慣れ親しんだ故郷の川や湾ではない。言わば亀の甲羅から流れ落ちる世界の果てだ。それは諸君も重々承知していたはずだろう。神話の領域を塗り替える時代の寵児――それこそが我ら船乗りの誇りではないか。それがどうだ、少し珍しい魚を見たくらいでガタガタと!」
 独特の節回しで言い放つイドルフリードは、世にも奇妙な大魚を靴先で軽く踏みつけて笑っている。甲板を滑らないようにとの配慮だろうが、あまり見てくれのいい格好ではない。深海から這い出た茶色い怪魚は泥の塊のように見えた。
「さて、我こそはと名乗り出る探究心のある輩はいないのか。こいつの腹に食いついてやろうと意気込む、愛すべき先駆者は?ある船などは飢餓に襲われたあまり、帆桁に貼り付けてあった牛の皮まで剥がし取って食べたと言うが、腐った水や鼠の肉さえ食す船乗りにとって最も恐ろしいのは腹を壊す事ではない。ましてや、多少見てくれが悪いからと言って食事の機会を逃すような愚かな真似はしない。そうじゃないか、諸君?」
「そうは言ったってなぁ……」
「前に獲ってきた奴もクソ不味かったしな……俺なんか故郷の母ちゃんが思いっきりイカで尻をぶっ叩いてくる幻覚まで見たんだけど……何だったろう、あれ……」
「なあ、あんたは航海士としてうちの船にきたのかよ、それとも単に海釣りを楽しみにきたのかよ?」
「愚問だな。いくら私の興味が広範囲に渡っているからと言って、本業を忘れるほど落ちてはいないぞ」
「だろ。だったらこんな魚なんか釣ってないでさぁ――」
「しかしそうだな、私とて西周りの航路は初めてだ。数多ある船の中からここを選んだ理由を思い返すならば、今回ばかりは後者だと言わざるを得ない」
「って後者かよ!海釣り目的かよぉぉ!」
 水夫が頭を抱えて膝から崩れ落ちた。どうでもいいがここの船員、乗りが良すぎる。
(将軍将軍、お願いしますよ、出番ですよ!)
 呆れ果てたコルテスが無言を貫き通していると、二等航海士が小声で催促をしてきた。つんつんと肘を突っつかれ、またもや鬱陶しい事この上ない。舌打ちをすると部下はびくっと肩を跳ねさせた。
 コルテスは仕方なく人垣を掻き分けていった。見れば見るほど珍妙な魚だ。ようやく将軍に気付いたイドルフリードは悪びれずに顔を明るくさせ、やあフェルナンドようやく起きたのかい、と面白くもない挨拶をしてくる。
「よもや君まで説教など、つまらない真似はしないだろうね?」
「……お前が何故そう自信ありげなのか不思議で仕方ないが……まあ、今回はご希望通り説教は止してやろう。魚は役に立ちそうだ。むしろもっと釣ってもいい」
「おや。君が調理でもしてくれるのかな?」
「違う。いいか、今からそいつをビスケットの袋の上に乗せてくるんだ」
 コルテスの淡々とした指令に、はっとイドルフリードが青ざめる。
「まさか――」
「そうとも。この長旅でビスケットには既に虫が湧いている。しかし魚の生臭い匂いに惹かれて蛆虫どもは袋の底から這い出してくるだろう。その魚は蛆虫で一杯になる。で、それを捨てる。かくしてビスケットは綺麗になると言う訳だ」
「ぎゃあぁぁぁ、君って奴はっ」
 見目麗しい姿に似合わず、航海士は絶叫と共に目を見開いた。
「せっかく私が、この私がだぞ、一時間もかけて釣り上げた魚を、よりにもよって蛆虫どもの巣窟にしようと言うのか!」
「有効活用だろうが。いい加減に虫が湧いた食料ばかり食いたくはない」
「よく見たまえ、確かに見た目は珍妙かもしれないが、この艶、この鱗、この尻尾、そしてこの腹!まさに美味い魚の条件を満たしているではないか!」
「やかましい。お前のゲテモノ好きは理解できん」
「これは世の生物学者が涎を垂らして喜ぶような新種の――」
「と言うか、魚がどうこう言う前に、お前が詭弁でもって船員達を論破できるか試しているだけなのだと分かっているぞ。傍迷惑だ。黙れ」
「……ははっ……馬鹿な事を……おや、急に空が曇ってきたな」
「とぼけるなエーレンベルク」
「君に隠し事はできないね……。ふっ、そうとも、許してくれ、私は弱い男だ。誘惑に抗えなかったのだ。知恵とは毒であり甘い林檎である。ああ神よ、私の稚拙な口車に乗り、前回ですら彼らはあんな魚を食べてしまった。文明人である彼らが、あたかも蛮族のように!ああ、私はこの唇に宿るミューズが恐ろしい!それとも真に恐ろしいのは彼らの純朴さの方だろうか……それを確かめる為に、つい今日もこんな真似を……」
「演技も白々しいぞ」
「イドルフリードてめぇ!」
「俺らで遊ぶんじゃねぇ!」
 航海士が航海士なら将軍も将軍、船員も船員である。コルテスは問答無用で魚を取り上げると隣の人間に渡し(それは件の二等航海士であり、今では畏敬の眼差しで彼を見つめていた)、今後も釣りにうつつを抜かすようであれば同様に対処せよ、と命令を下した。小芝居を切り上げたイドルフリードはぶつくさ文句を言っていたが、周りを囲む水夫の集団をなだめる為、今は弁明に忙しい。

 昔から船乗りは陽気な男達だと相場が決まっている。そしてそれは、おおむね正しい。






END.
(2011.05.02)

ぬるいギャグとは言え、何故か航海士が予想外にアホの子になってしまった……。



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