止まり木も透ける
多少のやっかみと誇張によって、船乗りは港ごとに女がいると吹聴されている。確かにそこらの農夫より稼ぎが多く、船の上では博打以外に使い道のない金を彼らがばら撒く先は、酒と女と相場が決まっていた。
だが娼館の一室を二ヶ月も借り、悠々と滞在する男はそう多くない。
「船長がお使いに行っている最中でね。帰りはここで待ち合わせなんだが――迎えが来るまでは華のある場所で骨休めしたいものだろう?」
上陸休暇だと言う。部屋代は全て先払いだった。金髪を緩く束ねた男は、早くも目星をつけた女の腰を抱き寄せてカウンターに金を積み上げてみせる。しなを作った女の唇を頬に受け、男は艶やかさと不吉さがないまぜになった笑みを浮かべた。
船乗りにしては白すぎる肌に娼館の主は疑わしげな視線を浴びせたが、腰に差した細身の剣と、索具を上り下りを繰り返して傷だらけになっている靴を見つけて承諾する。見かけない顔だが、船乗りは一年も二年も海に出ているものなのだから元から常連客は多くない。
貸し出されたのは二階にある西向きの小部屋だった。事を為す目的で作られた為、寝台だけは無駄に大きく、窓は海に向けて気持ちよく開かれている。しかし誉められる場所と言えばそれくらいで、他はいたってお粗末な造りだった。寝台と小卓の他は家具もなく(椅子すらない)漆喰が剥がれた壁は蜘蛛の巣のようにひび割れている。
しかし過酷な船上生活で慣れているのか、男は文句も言わず小さな手荷物と注文した酒と、それから気に入りの女を鼻歌交じりに連れ込んで自堕落な休暇を謳歌し始めた。彼はしばらく陸酔いだ何だと理由をつけて寝てばかりいたが、やがて日が経つと町に繰り出すようになり、人々の話題提供に一役買うようになる。遊び人だが何を頼んでも如才なくこなしてしまうので――荷運びの護衛やら酒場の帳簿付けやらラテン語の聖書を訳すやら――徐々に一目置かれるようになった。娼館を間借りすると言う大それた事をしておきながら、獣のようにがっつくと言うわけではなく、とにかく華のある生活を楽しみ、礼節を重んじた態度を取るとの事で、女達からの人気も獲得している。
「エーレンベルクさん、貴方宛に知らせが届いたわ。迎えの船が来るんじゃないかしら?」
日が経った宵の口、馴染みの娼婦が手紙を引っさげて部屋に食事を持ってきた。
「ああ、ありがとう。そろそろかと思っていたけどね。夕食はそこに置いてくれたまえ」
男は礼を言ってそれを受け取ると、手早く封蝋を破り取る。女は食事のトレイを小卓に置き、後ろから腕を絡めて彼の手元を覗き込んだ。
「どう、当たり?」
「そのようだ。欠員の補助と船の整備が済んだら出航するらしい」
「ふうん。ここにはいつ頃?」
「さてね。詳しい日取りは書いていないな。航路予定くらい教えてよこせばいいものを」
低脳めと決まりきった罵倒を吐き出す男の顔は、しかし不思議と満足げだ。これみよがしに胸元を押し付けてくる女を抱きとめ、その丸みに手を這わせながらも、視線は手紙の上を漂っている。
「残念。じゃあ近々さよならなのね。遊びおさめにサービスしましょうか?」
「……そうしてもらえると有り難いね」
「だったらこんな紙切れより、私に集中してちょうだい」
手紙を取り上げると、男の碧眼がそれを追って物言いたげに宙を浮く。その顔を両手で挟み込み、瞳を封じるように舌を出して瞼を舐め上げた。唇を寄せると応じてくれるが、男の所作が以前よりも熱心なのは知らせを聞いて浮き足立っているからなのだと容易に知れる。女はドレスの裾を持ち上げて、やれやれと首を振った。
「あーあ、面白くないわね。また上客を海に取られるんだわ。貴方、綺麗だし払いはいいし妙な性癖もないし、とっても良かったのに」
「成る程。そいつは光栄だ」
「男ってどうしてこう幼稚なのかしら。引き止めたって聞きゃしないんだから。船の上がどれだけ楽しいか知らないけど、地に足が着かない自由って、さぞかし魅力的なものなんでしょうね?」
皮肉で混ぜっ返すと、男はおかしそうに片目を眇めた。
「自由?そんな高尚なものがあんな所に?」
くつくつと喉の奥を震わせ、彼にしては珍しい、開けっぴろげな笑い声を上げる。
「ああ、確かにね、自由と言えば自由かもしれない。海は無限、風さえあればどこへでもいける――しかし君、あの船がどれだけの人力を使わなければならないか知っているかい?」
「え?」
「まずは出港、錨を引き上げるだけで水夫達は死に物狂いだ。巨大な索巻き機に取り付いて、鞭打たれる牛のように取っ手を押し回す。なにせ船を留め置く錨だ、そりゃあ重いよ。それが海中にしっかりと食い込んでいるんだから、あの仕事の最中に彼らの筋肉が張り裂けたとしても私は驚かないね。あんなものは家畜がやる仕事だ」
彼は指折り船内での不自由をあげつらい始めた。曰く、個人の部屋がない為に狭くて汗臭い、配給食は悪臭を放って虫がわいているし、腐っていないか確かめる為に水樽には常に蛙なんぞを飼っている、何ヶ月も同じ面子と顔を突き合わせて華がない。仕事にしても気を抜く暇がなく、絶えず進路を確認しなければならないし、風によって正しく帆を張り直さなければならない。帆が多すぎると突風でマストがへし折れる場合があるから、船員達を使って迅速に対処しなければならない――。
「これだけ苦労しても、風がなければお終いだ。例え風があっても、船は真正面には進めない。常に帆を膨らませる為には風に対して斜めに突っ切らなければならないんだ。これを切り上がりと言うんだがね、向かい風の場合、帆面を左右交互に向けながらジグザグに前進しなければならなくなる。必死に5リーグ走っても、直線距離にして1リーグしか進んでいないなんて事もざらだ。風と潮に縛られる。自由なんて程遠い、効率の悪い乗り物だよ、あれは」
「ふうん……」
「船乗りの魂が自由だと言う人間もいるが、それも疑わしい限りだな。我らが船長も――まあ野心家だ何だと呼ばれているが、意外に面倒でね。出航を妨害されたのだって一度や二度じゃない。雇い主からの承認を得ないまま飛び出してきたようなものだ」
じゃあ何もそんな船に乗らなければいいのに、と言うと、自分でも常々そう思ってる、と男は返した。しかしそれ以上ごたごたと語る気はないようで、先程までの饒舌さを引っ込めて行為に集中し始める。
娼婦は体をまさぐられながら、彼が胸の豊満な女を好むのは揺れる感覚が波に似ているからなのだろうか、と考えた。目の前の男はあまり船乗りらしくはなかったが、根っこの部分で海と繋がっている気配を感じる。何だかんだ不平を言ったところで船から下りる気などさらさらない癖に、つかの間の愛にすら海を求める男の滑稽さが憎らしかった。女達は体で彼らを地面に繋ぎ止めようと必死になるが、報われる事は稀である。簡単に錨を下ろすほど、船乗りと言う生き物は賢くはない。
波に揺られる生活は、男達を鳥や魚に変えるのだ。農夫が犬や羊に似てくるのと反対に、船乗りは陸の人間よりも夢見がちで、投げ槍で、どこか広々とした気性の持ち主になる。
翌日になると男は散策の場所を歓楽街から波止場へと切り変え、水平線に注目し始めた。それは恋人の帰りを待ち焦がれると言うよりは、放し飼いにしていた犬が戻ってくるのを待つ飼い主の姿に似ている。
子供が母に抱きつこうとするように、湾は左右に弧を描いて開けていた。娼婦は時折、彼の元に酒を届けて共に小さな湾を眺める。そして遂に三本マストの軽走帆船が湾に現れ、燦々と太陽を浴びるのを、彼の隣で目撃したのだった。
「おっと。あのキャラベルはうちの船だな」
男は何でもない口調で防波堤から腰を上げ、船着場へと向かっていった。女が慌てて「部屋に置いてある荷物はどうするの」と尋ねると、「どうせ次の航海には新調するものだから処分してくれて構わない」と事もなげに告げる。二人で坂道を下りていくと、湾の深くに滑り込んでくる船体が徐々に大きく見えてきた。
「ちょっと、エーレンベルクさん。本当にあれ、貴方の船なの?」
「そのはずだが」
「おかしいわ。ちっとも止まらないじゃない!」
その船は速度を緩めず、ほとんど大海を進むような速さで近づいてきていた。甲板の人影が確認できるほどに接近しても、船は白い波頭を立てて洋々と進み続けている。減速をする気配もない。出迎えのボートは慌てて近寄るのを止め、どういうつもりだと声高に怒鳴っていた。
このままでは桟橋、もしくは停泊している他の船に衝突する危険がある。キャラベル船は小型とは言え、五十トンもの船体が制御を失って追突するとなればどんな事になるか、火を見るよりも明らかだ。
「確かに。行き足が過ぎるな」
男も怪訝そうに目を細め、事故でも起こったのかもしれないと不吉な推測を口にする。運良く他の船が脇に避けていたので正面を遮るものはいないが、桟橋だけは逃げ隠れできないまま進路上に取り残されていた。惨劇を予想して女は耳を塞ぐ。
ぶつかる――!
しかしその一瞬、舵が一杯に切られ、キャラベル船は船首を軸に、横滑りするようにぐるりと身を捩った。矢継ぎ早に号令が飛ぶ。水夫達が素早く何事か――ロープを引っ張ったり緩めたりと駆け回っているのが見えた。船尾近くの第三マストが勢いよく張られ、進行方向とは逆の風を捕らえると、ぐっと船体を後方へと押し戻していく。
気が付いた時には、船はぴたりと桟橋に横付けされた。つまり、急激に半回転して止まったのである。
湾を眺めていた人々は一様に呆然とした。船員の動きが少しでも遅れれば、タイミングが合わずに大事故へ発展しかねない技だ。操船の腕は見事だが、こんな乱暴な停泊は見た事がない。
「はっ――」
いち早く正気づいたのは、やはり例の男だった。
「はははっ、いやはや、傑作だ!馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に申し分のない馬鹿だな!戦艦でもないのに急停止だなんて、あんな曲芸を覚えてどうする!寿命が縮んだぞ!」
彼は腹を抱えて大爆笑した。目尻に涙を浮かべ、体を折り曲げ、人目を憚らず笑う。そして出来の悪い子供を見守るような顔になり、もう一度満足げに「傑作だ」と繰り返した。
「何が傑作なものですか!あんな常識外れの船に乗るなんて、酔狂を通り越して狂ってるわよ。いいの?」
一部始終を見ていた女が問いかける。桟橋の方でも、あんな入港の仕方があるかと組合の者が船員を捕まえて説教する声がした。男もそれを苦笑まじりに見遣ったが、仕方ないと肩を竦める。
「残念ながら船乗りとは酒がなくても酔っ払える連中なのでね、常に狂っているのさ。なにせ板切れ一枚で海に乗り出した人種の末裔だ。向こう見ずなのは本望だろうよ」
「まったく……お気楽なものだわ。驚かせたぶん、後で船長を殴っといてちょうだい」
「ああ、それは妙案だ。引き受けよう」
彼は服の襟を直して桟橋へと足を向けたが、ふと思い出したように女の頭を撫で、ひらひらと片手を振った。髪型を崩されて女は鼻の上に皺を刻んだが、どうせこれが最後の触れ合いなのだからと文句を押し殺す。
――船に自由がないなんて大嘘だわ。あそこには自由と、選べる不自由しかないじゃないの。
散々好き勝手に弄んだ癖に、振り返らずに船へ乗り込んでいく無責任な背中を、陸に暮らす女は醒めた目で見つめていた。
* * * * * *
甲板に上がると見慣れた風景が視界に飛び込んでくる。既に補給は済ませてきたのか長く停泊する気はないらしく、水夫達はすぐにでも出港できるよう持ち場に着いたままだった。
「出迎えご苦労。随分と派手な再会を演出してくれたね、フェルナンド。そんなに私に会いたかったか?」
「抜かせ。逆帆を打つにはちょうど良い風だったから試したまでだ。しかし、確かにお前への凱旋には変わりない。ひとまず喜べ」
温度の低い声がイドルフリードの軽口を跳ね返す。大仰な挨拶はしない。離れた時間を感じさせない仕草で、服を新調したコルテスが水夫達を顎で示した。
「新しい船員を入れてな。どれだけ早く一連の動作ができるのか叩き込んだのだ」
「ふむ、成る程」
その成果が先程の急停止と言う事らしい。イドルフリードは周囲を見渡し、蜘蛛の巣のように張り巡らされた段ロープと索具を眩しげに見遣った。水夫達がうろちょろと、しかし規律の取れた動きで働いている。航海士としての本能を呼び起こされたのか、彼は手近なロープを掴み、タールの染み付いた粗野な手触りをうっとり味わった。
「ああ、さすがに懐かしいね。船は一人では動かせない。いくら陸では万能な私でも、ここに来れば無力な一人の人間だと分かるよ。おまけに足元は奈落の海」
イドルフリードは感嘆すると、口元を笑みの形に引き上げる。
「この覚束ない感覚が堪らないな。ぞくぞくするよ」
「ほう。お前に被虐趣味があったとは初耳だな」
「さて、どうかね。しかし私は航海士、君達の命運を握っていると言っても過言ではない役職だ。船を安全に目的地へ届けるのも、反対に危険な浅瀬に追い込むのも、私の見識しだいと言う事になる。先程の無力感とは反対に、この支配感も実に堪らない」
「……今度はうんざりするほどお前らしい理由だ」
「欲が深いんだよ、私はね」
神にも人にもなれるなんて得じゃないか、とイドルフリードは笑う。コルテスは軽く鼻を鳴らして友人の芝居じみた発言を黙殺すると、久々の再会とは思えぬ乱暴さで、新しい海図用紙の束を相手の肩に叩きつけたのだった。
END.
(初:2011.07.23)
(再:2011.12.10)
とある帆船作品で急停止が格好よく描写されていたもので二人にもさせてみた(※再掲載にあたり、時代考証的におかしな部分は修正しました)
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