食卓の軍師たち
沿岸部の視察から帰還した奴隷部隊がアルカディア王宮を訪ねてきたのは、日が昇りきった蒸し暑い夏の日だった。
ちょうど昼時、誰も彼もが腹をすかせている。王宮へ迎え入れるレオンティウスも「何もこんな暑い日に来なくても」と零し、アメティストスも反発する事なく「そうだな」と大人しく頷くほどだった。馬で付き従ってきた彼の部下たちも汗を掻き、顔を真っ赤にしている。報告はまた後にしようとおざなりに挨拶を済ませ、まずは昼食会となった。
古代ギリシャでは日没頃の夕食が一日で最も重要とされる。ので、昼食は一般的に軽いものだ。大袈裟な歓迎はいらないとアメティストスが断った事もあり、長テーブルにはワインと魚料理と果物籠などが並べられる。皆、暑さにうんざりしながら、もそもそと食べ始めた。
「そう言えば、またペルシアあたりがきな臭いと聞いたが?」
オリーブの実を齧りながらアメティストスが尋ねる。あまり熱の入った声ではなかった。思い出したついでに、という程度の口調である。
「いや、特に大きな動きはないと思うが……どこかで噂になっていたのか?」
首を傾げてレオンティウスが返す。彼もあまり熱のある声ではない。
大国ペルシアとは数年前にやりあった事があった。大規模な戦で、戦力不足を補いアルカディアと奴隷部隊も共闘したのである。それからペルシアの動向には気をつけていたが、今は内部争いが起こっているらしく、ギリシャ側に侵略してくる様子は見られない。アメティストスの聞いた噂もその類だったようで、いまだにごたごたが続いているようだった。
「巨大な国だからな。どこかしらには火種があるものだ。侵略してきた国々を鷹揚に取り込んできたはいいが、文化の違う者たちを無理に使おうとすれば反発も起こる。……あの時も凄い部隊がいたな。確か、象……とかいう動物に乗っていた」
あの時とは、まさにペルシア軍と正面対決をした当時の事である。
「いたか、そんなもの」
「いたとも。さすが多民族の軍だなぁと感心した記憶がある。えーと……」
レオンティウスは視線を泳がせると、手近にあったイチジクの実を取り出し、
「ここが軍の正面だったとして……このあたりにいたぞ」
とテーブルの上に置き直した。当時の戦況を再現したいようである。アメティストスは唐突に示された配置図を理解しようと首を傾げた。
「………」
「思い出せないか?」
「……いや待て、どっちが北だ?」
「ええと、こっちだ。私が最初このあたり、お前の遊撃隊がこっちにいて……」
レオンティウスはワインの入った杯を、ことんと右斜め上に置いた。それでようやく通じたらしく、アメティストスも「ああ、そう言えば」と頷いている。
「いたような気がするな」
「だろう。象も機嫌が悪かったのか、あまり前には出て来なかった。慣れない場所に連れてこられたせいだろう」
「動物と言えば、豹やライオンの毛皮を被った部隊もいたな」
「……?」
「こう、右翼側に」
今度はアメティストスが果物籠の中から葡萄の房を手に取ると、枝の先を無造作にちぎってテーブルに置いた。先程レオンティウスが象を表したイチジクに比べると小さく、葡萄の粒が人の集まりを思い起こさせるので、想像するにはちょうど良い選択である。
「奴らが終盤、徐々に中央にせり出して、戦況の不利を悟って逃げ出そうとする味方を押さえ込む役割になっていた。今思えば、最初に奴らを潰しておくべきだったな。そうすればペルシア軍はもっと早く撤退していただろうに」
「それはどうかな。当時、あの辺りは弓兵が守っていたように見えたぞ。ええと……」
レオンティウスがきょろきょろとテーブルを見回し、オリーブの小皿を見つけると、持ち上げずに皿の淵に指先をかけて、ずるずると手前へ引き寄せた。背後に控えていた給仕の男が、珍しく行儀が悪い王の行動に目を丸くしている。
「もしお前たちが先に……その、豹や獅子の毛皮を着ている部隊を襲っていたら、こちらがこうなって、こうなるんじゃないか?」
再びレオンティウスはオリーブの小皿を、ずるっと横手に滑らせた。部隊の移動を表しているらしい。
「こうなると、いささか分が悪い。いくらお前の指揮でも総崩れになる恐れが出てきただろう」
「……いや、押さえ込める」
アメティストスはむっとした顔で、今度は果物籠から桃を取り出した。どん、と手前に置く。レオンティウスは「ん?」と眉をひそめると、更に「んんんん?」とテーブルに顔を近づけた。
「……いや、それでは駄目だ。退路も取りにくい。やはり最初は泳がせるしかないと思うぞ」
「大丈夫だ、押し切れる。こちらの遊撃隊も二手に分けて――」
軽く身を乗り出し、アメティストスは素早く小刀で桃を二つに切り分けた。種を中心に、ぐるりと半分に。滴った蜜がテーブルに落ちる。
「うーん、確かにそれなら……。しかし、そうなると後方の部隊がお前たちを狙ってくるのでは?」
「そちらはオルフの部隊がどうにかしていたはずだ。実際の脅威は少なかったはず」
「だが不確定だろう。ここはもう少しこう、こうして、これをこう……」
「それは悠長に過ぎる! こちらを先に潰すしかない」
「いやいや、それは無茶だろう。いくらなんでも急ぎすぎだ。連携を取る為に一旦は後退して――」
「それこそ相手の思う壺だろうに! そこはこう――」
ことん。
ずっずっ。
どん。
かちゃかちゃ。
上座にいる二人の手によって、テーブルの上は目まぐるしく配置を変え始めた。果物はあちこちへ転がされ、魚の乗った料理皿は食べられる前に遠のいていき、ワインの入った杯は水滴を撒き散らしながら前進する。
哲学の発祥地、そして裁判も頻繁に行われた土地柄、一般的にギリシャ人は討論好きだと言われる。古代であってもそれが適応されるのかは分からないが、普段から上に立って人々を鼓舞する演説を行う者、その上その分野に一家言ある者ならば、話し始めると止まらない。同席している臣下たちは「この暑い中よく議論をするなぁ」と思いつつ無言で己の食事を進め、おろおろしている給仕に同情を寄せていた。
(……まずは食べてからにしましょうと、声をかけるべきでしょうか?)
テーブルの下座にいたオルフが、こそっと隣のシリウスに耳打ちする。
(やめとけやめとけ。海戦に出ていた俺はともかく、お前も当時あの場所にいたんだろ。「お前はどう思う?」って両方から問い詰められるに決まってる。俺たちは下手に口を出さず、大将の好きにさせておこう……)
シリウスは達観した顔でワインをすすった。
そんな矢先。
「楽しそうで結構ですが、いつまでも食べ物で遊んでいるのは感心しませんなぁ」
白熱した議論へ、ついに冷や水をかけた者がいる。
「陛下もアメティストス殿もそれくらいに。ほら、給仕の者も困って下りましょう?」
カストルである。彼は『にっこり』と音が聞こえるような完璧な笑顔を浮かべていたが、その裏にあるメッセージは誰でも読み取れた。レオンティウスにとっては幼少期からの世話役、アメティストスにとっては父親に瓜二つのせいで反射的に身構えてしまう相手である。
「……はい」
「……はい」
我に返った二人は神妙に頷いた。
「あまりテーブルを散らかされては、我々も落ち着いて食べられませんし」
「そうだな……申し訳ない」
「……すまなかった」
議論が白熱するあまり立ち上がっていた二人は、こそこそと椅子に座り直した。アメティストスは沈痛な顔で耳を赤らめているが、レオンティウスの方は叱られた後の子供のように慌てて料理皿を元の位置に戻している。あちこちで展開されていた軍略は片付けられ、テーブルの上に平和が戻った。
(さすが年長者……)
(今度からは最初からカストル殿にお願いしましょう……)
己を恥じている主人の為、何も起こらなかった素振りをしつつ、シリウスとオルフはそう目配せしあった。まさかこの数時間後、宴会の席で、今度はカストルや自分たちを含め、酔っ払った面々全員で『自分が考える、あの時の最強の戦略』議論が持ち上がるとは、さすがに考えが及ばなかったのである――。
END(2018.01.30)
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