藍と語らう
夏の終わりにふさわしい、青い宵の晩だった。
今日の為に短く刈り取られた芝。あちこちから借りてきた丸テーブル。集まったのは顔見知りばかりで、そこかしこから上がる笑い声には遠慮がない。勧められるまま飲み干した杯は既にかなりの量になっている。
人の輪から離れ、ぼんやりと生垣に持たれて立っているエレフの脳裏に、ふと幼い頃の記憶が甦ってきた。
港まで続く坂、先を競って駆け下りていく自分達の姿。戸口から声をかけられ、おやつだよと渡されるトマトの瑞々しい香り、口の周りをべたべたにしながら頬ぼった感触。こっそり忍び込んだ裏庭の、芳しい芝生の匂い――。
一つ一つの記憶は鮮やかなのに、どうしてか切れ切れとしか思い出せなかった。目の前の光景の方が強烈だからだろうか。気を抜くと感傷で溺れそうになるのに、それを許さない明るい空気で満たされている。
歓談する人々、祝いの料理、夏の庭。
それでもどこか心細く思うのは、これが区切りの日だと覚悟しているからだ。空を仰げば既に銀砂のような星が散っている。日が落ちてからは微かに肌寒く、秋の到来を予感させる。
物思いにふけっているエレフの背後から、不意に声がかかった。
「すまない。エニアス・ホテルの人から、夕飯を取りたいのならここに行けと言われたんだが――」
振り返ると、若い男が立っていた。
旅行客だろう。彫りの深い顔立ちはこの辺りの人間とさして変わりないが、言葉には妙な癖があった。北からやってきたのか、羽織っている上着はやや厚手のものだ。襟足を覆う茶色い髪が港からの潮風に煽られて微かになびいている。問いかける声は若々しかったが、落ち着いた物腰から自分よりも年上だろうというのは見当がついた。
特に警戒心を抱かったのは、同じような人間が既に宴会へ紛れ込んでいるからである。様子を尋ねたまま親戚連中に引きずり込まれ、夕方から飛び入りで宴会に参加している旅行客が数人いるのだ。まあ、これだけ騒いでいるのだから興味を持たれて当然だろう。
「ここは何をしているんだい? ビアガーデン……ではなさそうだが」
男は微かに眉を下げ、困惑したように裏庭を見回した。彼の眼を引き付けているのは無造作に露台で調理されている子羊の丸焼きだろうか、それとも狂ったように笑い続けている酒に酔った親戚達だろうか。
「ほら」
言葉で説明するよりも早いと、エレフは顎を突き出した。丸テーブルを三つ挟んだ向こう側で音楽に合わせて踊っている集団がある。その隙間から、滑らかに弧を描く純白のドレスが見えた。膨らませた裾を両手で持ち上げ、つまずかないようにしながらステップを踏む華奢な足首。続いてその隣に並び、同色の礼装に身を包んだ若者の姿も。
「ああ、披露宴か」
男が納得したように頷く。
一度、この地方の婚姻の様子が映画の題材として取り上げられた事があった。元から大作ではなかったし上映する映画館も少なかったが、口コミで評判が広がり、このギリシャ式の騒がしい披露宴は以前よりも人々に知られるようになっている。
昼間に教会で式を挙げ、夕方からは親戚と近所の人を集めて自宅で宴会。軍隊にふるまうような大量の料理と、参加した人間をことごとく酔い潰す強いワイン、それから絶え間ない音楽と踊り――当事者のエレフでさえ、映画の中の出来事のように思える。眩しくて直視していられない。
「披露宴というか、もう二次会みたいなもんだけど」
「新郎新婦は君の身内か?」
「ああ」
男からの問いにそっけなく答えた途端、じわりと込み上げてくるものがあった。視線を逸らすと同時に話題を変える。
「あんた、エニアス・ホテルから来たって言ってたな」
ああ、と男が頷いた。
「休暇中でね。今夜から泊まろうと思ったんだが」
「悪い。ホテルの食堂にあるテーブルを、ほとんどこっちで借りたんだ。オーナーが顔見知りでさ。もう観光シーズンも終わりだから、そう必要ないだろうって話だったんだけど……当てが外れたみたいだな。確かに食いっぱぐれた客が来たらこちらに回してくれと言ってあったんだが」
「そういう事だったのか。部外者が邪魔をしてしまったな」
「いや、いい、こっちの読み間違いだ。好きに食べていってくれ。オーナーともそう約束してる」
生垣の出入り口には低い鉄製の柵が作ってある。エレフは内側から柵を開き、男を裏庭に招き入れた。
「本当にいいのか? 礼服でもないんだが」
「物騒な奴ならともかく、祝ってくれるのなら誰でも参加できる宴会なんだ。この地方の風習で、外からも幸福を運び込んでもらうんだと」
「成る程」
「それに客の相手をしている間は、俺も親戚連中に無理やり酒を注がれずに済むから」
エレフがそう言うと、男は軽く息を漏らすようにして笑った。普段からこうして微笑むのだろう。よく馴染んだ表情だった。
「じゃあ、お言葉に甘えるよ。見ず知らずの人の披露宴での夕食をご馳走になるなんて、滅多にないからね」
男は最初、ぼんやりとした様子で裏庭を見渡していた。
まあ確かに、一人でゆっくりと休暇を過ごすつもりでこの古びた港町を滞在先に選んだのに、こんな見ず知らずの集団の中で夕飯を食べる羽目になれば戸惑いもするだろう。もしもエレフが彼の立場だったら、ホテルに閉じこもってレトルトのパスタでも食べた方がましだとさっさと帰っているところだ。
「場違いになるかと思ったけれど、本当に飛び入りしてもいいものなんだね」
男は気を取り直したように瞬きをすると、場を仕切っている人に挨拶をしに行った方がいいのかと尋ねた。既に親族達は堅苦しさを昼間の式で使い果たしてしまっていたし、あえて酔っ払いに絡まれにいかなくてもいいのだと説明すると、男は呆れたような感心したような顔で瞬きをして「では、何を食べたらいいのかな」と尋ねた。
食事は立食のバイキング形式になっているので、まずは食器類が置かれたテーブルに連れて行かなければならない。人を掻き分けて歩くと四方から「そいつは誰だ」と尋ねられるので、簡潔に「飛び入り」とだけ答えて先に進んだ。まともに相手をしていたら余計な時間を食う。男は降りかかる質問へ律儀に返事をしながら、ゆっくりと後ろをついてきた。色めきたって声をかけてくる女達を如才なくあしらっているあたり、場慣れしているに違いない。
「皿はそこ、スープ皿はそこ、ナイフとフォークはそれを使ってくれ」
「分かった」
「食べ終わったら、好きなタイミングで帰ってくれていい。飲みたいのなら止めないが、宴会は深夜まで続く。そんな連中には付き合いきれないだろ」
いつになくあれこれと世話を焼いたのは、そうしなければまた親戚連中に取り囲まれ、煩くからかわれるからである。男はそんなエレフの真意に気付いたのか、これはどういう料理なのかと細々と尋ね始めた。どうやら協力してくれるらしい。
「こちらの地方だと、パスタを……その、かなり、じっくり茹でるみたいだね」
「はっきり言っていいぜ。茹ですぎだって」
「これは?」
「ドルマデス。種類は色々あるけど、これは肉と米を葡萄の葉で包んだ奴」
淡々と解説しながら、エレフも料理を摘み始めた。男は葡萄の葉を噛み千切るのに苦労している様子だったが、何とか中身を零さずに上手く飲み込んでいる。
鼻筋の通ったその横顔を見て、どこかで見たよう気がするな、とエレフは首を捻った。
(有名人か何かか?)
初対面のはずである。となれば、テレビや雑誌で見たのだろうか。しかし俄かには思い出せない。
「この料理は、みんな手作りなのか?」
記憶を探っていると、また男が尋ねた。有名人だろうが何だろうが観光客には親切にしろと子供の頃から躾けられている。エレフはひとまず疑問を棚上げにした。
「ああ、そう。大体はうちで用意したけど、持ち寄りばかりだな」
改めて見渡すと、テーブルの上は壮観だった。最後まで食べきれるだろうかと不安になるほどの皿数である。味付けの濃淡や野菜の切り口から、誰がどの料理を作ったのか大体の見当がついた。伝統とは言え、やたら卵とレモンのソースをふりかけるのが隣町のおばさんで、蜂蜜を入れすぎるのは国道沿いに住んでいる親戚の婆さん。エニアス・ホテルのオーナーが差し入れてくれたのは林檎型のバスケット・パイ。朝から母さんが用意していた魚介のワイン煮は、いつもよりも味が濃いような気がした。
「おいエレフ、こっちも食べなよ!」
唐突に背後から、でん、と大皿が飛び出した。振り返ると近所に住んでいるクリーニング屋の母子が立っていた。
「危ないな、皿がぶつかるだろうが」
「こんくらいで台無しになったりしないよ。ほら、そっちのお客さんも食べて食べて!」
「はい、頂きます」
男は苦笑しながらも取り分けられた料理を受け取った。
「それにしても晴れて良かったねぇ。このところずっとお天気だったけど、ほら、時々あるだろう、思い出したみたいに夕方から雨になる時が。うちは姉さんの結婚の時がそれで、随分大変だったんだよ。それがまあ、今日はこんな気持ち良い、過ごしやすい天気で」
「エレフ、親父さんは大丈夫か、酒には強い人だけどさすがに飲みすぎだろ。俺、ちょっと止めてこようか?」
「止めとけ止めとけ、聞きゃしないよ。子供の結婚となれば誰だって少しくらい羽目を外して飲みたくなるもんさ。次はエレフ、あんたが嫁さんを見つけてくる番だね」
好き勝手に言ってくれる。嵐のようにクリーニング屋の親子が去っていくと、どっと肩に疲れを感じた。ここ数日はずっとこんな調子なのだ。
――多分、拗ねていると思われているのだろう。だから周りが構ってくるのだ。
エレフの溜め息をどう捕らえたのか、男が密やかに微笑んだ。
「楽しい人達だね」
「うるさいの間違いだろ」
「それで、君はどちらの身内なんだい」
「あ?」
「花嫁と花婿の」
不意を突かれ、エレフは頬張っていた料理をぎこちなく飲み込んだ。喉の奥にレモンソースがこびりつくような感じがする。間を持たせる為に、生垣から飛んできた小さな羽虫がグラスに止まろうとするのを追い払った。
「花嫁の方の、兄」
「ああ――そう言われれば、髪の色が同じだね」
「見て分かるだろ。……双子なんだ」
何故か弁解するような口調になる。何を弁解したいのかは自分でも分からなかった。男は少し珍しいものを見るように目を見開いた後、ゆるく首を傾げた。
「けれど、不思議と花婿とも似ているように見えたから」
「……あっちは幼馴染」
「ああ、だからかな。一緒に過ごした時間が長いと、お互いに似てくると言うからね」
意外な言葉にエレフの手が止まる。
(……どうだろう)
お転婆な妹に、陽気な幼馴染、泣き虫で意地っ張りな自分。ばらばらな個性。どうして三人は気が合うのだろうねと周りに言われる事の方が多かった。子供の頃から言われ続けてきた評価と真反対の事を、こんなところで言われるとは。
(似てる……?)
くらりと、足元を波で浚われるような感覚を覚える。
「少なくとも私からはそう見えたよ」
「…………」
会って一時間も経っていない人間にそう言われ、自分達の何が分かるんだと腹が立たなかったのは、おそらく裏庭に吊るされたオレンジの電飾の灯りが優しく、流れる音楽が陽気だったせいだろう。目に見えない繋がりを肯定してもらったようにも感じた。
いつも一緒に居た、大切な人たちが結ばれる事に文句などない。けれど披露宴の最中に、拗ねたように人の輪から離れて、こんな隅っこにいる理由は。
「……自分で言うのもなんだが、俺、過保護なんだ」
「うん?」
唐突に思えるほどそう切り出したのは、この空気に溺れたせいだ。行きずりの人間だからこそ、どんな無責任な事を言っても許される空気があった。絶える事のない男の淡い微笑みも、それを助長していた。
「物心ついた頃から、妹が、いなくなる夢ばかり見ていた。それもかなり物騒な方法で。時々どっちが夢なのか分からなくなるくらい頻繁に。……だから、ガキん時は夜が来るのが怖かった」
いきなりの話題に男は面食らった様子だったが、すぐに耳を傾ける姿勢を取った。寄りかかるように片手をテーブルに置く。その仕草を横目で見ながら、やけっぱちで悪夢の記憶を辿った。
「目を離せば誰かにさらわれるんじゃないかとか、事故に遭うんじゃないかとか、そういう嫌な想像ばかり追いかけて、軽いノイローゼになったり」
「……それは大変だったね」
「けど、そんな俺を気遣ってくれたのも、あの二人なんだ」
「少し、寂しい?」
労わるような男の声が、しんの耳に沁みた。釣られて頷きそうになる。
けれども。
「いや……昔は、元気でいてくれるだけで良かったんだ。俺の前からいなくならないでくれるのなら。でも今は、誰よりも幸せになってくれないと満足できない。……我ながら欲が深いと思う」
恐ろしい予感を振り切るように、走って走って、ようやく安心できる場所に辿り着いたような気もしていた。もう大丈夫、もう心配は要らないのだと。だが走りきった先にも道は続いていて、妹を取り巻くその景色が、世界のどこよりも美しい場所でなければ嫌なのだ、と。
そう思う自分の、あさましいまでの執着に、少し嫌気も差すけれど。
「人の望みとは際限のないものだからね。けれど誰かの幸せを祈る事に、欲深いも何もないはずだ。……肉親ならば、尚更」
微笑を深めて相槌を打つ男の声が、不意に歓声で掻き消された。裏庭の中央に陣取って焼かれていた子羊の丸焼きがようやく出来たのである。切り分けた肉を貰おうと、人々は皿を持って移動し始めた。急に気恥ずかしさが戻ってくる。
「あんたも食べに行くか?」
「いや、また後で。混んでいるから」
遠目で人ごみを眺める。誰も彼もが幸せそうに見えた。
「私は実は、人を探しにきたんだ」
しばらくしてから、ぽつりと男は切り出した
「私の家は代々、結構大きな商売をしていてね。そのせいか親戚関係が複雑なんだ。跡継ぎ問題が起こるたび、荒れに荒れる。私も兄と一悶着があって、もう疎遠になってしまった。親戚総出で仲が良い君達が羨ましいよ」
「……おい」
「ん?」
「まさかあんた、マフィアとか、そういうのじゃないろうな」
「はは、まさか」
男は声をあげて笑ったが、そこにはどことなく皮肉っぽい響きがあった。
「まあ、そうでなくとも教育に良いとは言えない環境だから、両親も考え直したんだろうね。下に生まれた兄弟を、人知れず養子に出したらしい。私はその頃ちょうど学生寮に住んでいたから、そんな事があったと知らなかった。知ったのは三年前だ。……ただ、このあたりに住んでいるとだけ」
「名前は?」
「聞いていない。そもそも両親に打ち明けられた訳じゃないんだ。偶然知ってしまって、私が勝手に訪ねてきただけだから」
「じゃあ、名前も知らない兄弟とやらを探しにここまで?」
「……先日、家を継ぐのが正式に私に決まってね。問題が片付いた今なら、会っても構わないかと思ったんだ。既に別の人生を送っているだろうから、名乗るつもりもなかったけれど――何か困っている事があるのなら援助ができればと」
「…………」
エレフは黙り込んだ。神妙な顔をして聞いていたが、自分の手には負えそうもない話題である。男もエレフの反応など気にしてはいないのだろう。彼もまたこの場の空気に溺れただけだ。
――胸に詰まっていたものを吐き出して、裸足で浅瀬を歩くように、誰かと少し感傷に浸りたいだけ。
苦し紛れに視線を泳がせたエレフは、ちょうどいいものを見つけ、咄嗟に声を明るくさせた。
「そういう事情だったら、これだな」
他の料理に追いやられ、テーブルの中央にまで後退していた大皿を右手で引き寄せる。こんがりと狐色に焼けた、まあるい菓子。
「ファヌロピタ、ってパウンドケーキ。探し物がある時に食べると願いが叶うって言うんで、昔はよく食べてたんだ。本当はファヌリオスっていう聖人にちなんだケーキだから、きちんとした祝日に教会に行かなきゃならないんだけど。子供の頃に飼っていた猫がしょっちゅう姿をくらませる奴で、妹が特に可愛がってたから、毎回どっかにいくたびに母さんが教会にケーキを持っていって、お祈りしてもらったんだ」
エレフの話に合わせ、男は義理がたく頷いた。
「可愛らしいおまじないだね」
「いや、それが結構盛んなおまじないでさ。おばさん達が早く自分のケーキを持ち帰ろうと祭壇に卒倒して揉みくちゃにされるから、割と騒々しい。確かにこれを食べた翌日に猫が戻ってきたりはしたけど、あれは単に腹が減ったからの気がするな」
聖ファヌリオスの名はこの国の言葉で「あらわす・引き出す」という意味がある。それこそ行方不明や音信不通になった人やペット、病気の人の場合はその治療法まで探し当ててくれるのだそうだ。また、未婚の女性の場合は結婚相手を見つけてくれる、と。
(分け合って、三人で食ったっけ)
確かに結婚相手も連れて来た訳だ、これは。
ゆっくりとナイフで切り込むと、香ばしく焼きあがった焦げ目の一角がほろりと崩れた。黄色い断面が姿を覗かせる。パウンドケーキと言ってもバターと卵を使っていないので手ごたえは硬い。エレフはそれを自分の皿と相手の皿に取り分けた。頬張ると、中には数種類のスパイス、それから作り手のアレンジでオレンジの皮と絞り汁が入っているのが分かる。甘味が少ないので食べやすい。刻んだ胡桃も入っているらしく、こりりと快い感触がした。
男は皿を手に取ると、目を伏せて、時間をかけてそれを見つめていた。もしやケーキが苦手なのだろうかと訝しく思った頃、フォークで切り分け、ぱくりと口に。
「……素朴で、美味しいね」
零した声はその内容とは逆に、ほろ苦さが滲んでいた。
「実は少しばかり怖気づいていたんだ。実際に兄弟と会ったら、自分はどうするんだろうって」
「どうって?」
「こう見えて、私は欲が深いんだよ。一度でも会ってしまったら、あれこれ首を突っ込んで、いらない世話を焼いてしまうかもしれない。それこそ、誰よりも幸せになってくれないと満足できないかもしれない」
「会った事もないのに?」
「だからこそ、だよ。兄弟らしい事をしてみたくて、余計な火種を持ち込んでしまう可能性もある。愛情と執着は似ているから。間違った事をしてしまいそうで」
男は大きく息を吸い込んだ。
「けれど、今は少し腹がくくれた気がするな。良い披露宴を見れたおかげだ。……皆、幸せそうだ」
男はもう一度、良い披露宴だ、と呟いた。舞台裏を知っているエレフとしては――数日前まで手配が終わらずに頭を掻き毟っている妹だとか、張り切りすぎて花嫁よりも派手なドレスを着ようとする叔母のところの娘だとか、予定にはない余興を始める厄介な近所の若い連中だとか――素直に頷けなかったが、他人の目にはそう映っているのだと聞いて悪い気はしなかった。
人ごみが散ったので、子羊の丸焼きを貰いに行く。残り物とは言え、柔らかい部位はまだ残っていた。焼けて白くなった脂身を包丁で削いで受け取る。一口一口噛み締めていけば、生き物の命が直接胃の中に流れ込んでくるように感じた。
「ところで、その髪は流行りか何かか?」
同様に肉を咀嚼しながら、男が何気なく尋ねてきた。
「いや、地毛だよ。おかげで学生時代は染めてるんだろって、しつこく疑われたけど。そういや、あんたもそこだけ金髪だな」
答えた瞬間、男が息を飲んだ気配がした。同時に背後で歓声が上がる。誰かが手持ち花火を用意していたらしい。色とりどりの眩い火花が子供たちの手に渡っていた。
「――ファッションで、だよ。せっかくの休暇だから、気晴らしにね」
花火に視線を奪われていた為、声だけが届く。引き寄せられるように視線を隣へ戻すと、男が運勢でも占うような顔でこちらを見つめているのが分かった。
「へえ。あんまり似合ってない気がするけど」
「……そうか。それは失敗したな」
彼は苦笑し、恥じるように後ろ髪を首筋に撫で付ける。
ふざけて花火をふりまわす子供たちを叱る声が響き、宴会は賑やかに進行していった。
東国には『祭りの後の静けさ』という言葉があるらしいが、それはこちらでも変わらない。
妹が新居に移り、共に食事を食べる事もなくなったとあれば、朝の静けさは更に深さを増したように思えた。鳥の鳴き声だけが大きい。
――どうせ近所にいるのだけれど。
心細さと寂しさと、それから透明な達成感が胸にこみあげる。自分はきちんと送り届ける事ができたのだ。おそらく。
昨夜はあの後、エレフも踊りの輪に引きずり込まれ、よりにもよって妹と幼馴染の間に挟まれた位置で踊るはめになった。手を繋いでくるくると回りながら、ここは特等席だからね、と悪戯っぽく笑った二人の顔が瞼の奥に焼きついている。この間に入れるのなんてエレフくらいなんだから、と。
飲みすぎた昨夜の酒を追い払おうと、玄関先に届けられる牛乳瓶を回収し、暖めて飲む。母はとうに昨夜の片づけをしに家を出ていた。父はまだ眠っている。
新聞を取り忘れた事に気付いて再び玄関に出ると、見覚えのある姿が坂の下に見えた。
朝の散歩なのだろう。相手もエレフに気付くと、軽く片手を上げた。
「おはよう」
「昨夜はどうも」
彼はあの後、踊りつかれた妹夫婦のところに行って挨拶をし、酔っ払った親戚達の集合写真に無理やり参加させられた後ホテルへ帰っていったのだ。あれだけ飲まされたのに優雅に散歩とは恐れ入る。
どのくらい滞在する予定なんだと聞けば、二週間だと言う。それが名も知らぬ人間を探す日数として充分なのかどうかエレフには判断がつかなかったが、男は暢気におすすめの観光名所はあるかと聞いてきた。
「悠長だな」
「焦っても仕方がないからね。のんびりやるつもりだよ」
清々しい、しかしどこかに心を残してきたような表情だった。もしかしたら今朝、妹の不在を実感した時、自分もこういう表情をしていたのかもしれない。
エレフはポストから引き抜いた新聞を丸めると、この人懐っこい観光客を改めて朝の光の中で眺める。二週間も滞在するのなら薄手の上着を貸してやった方がいいかもしれない、と思った。
「――そう言えばあんたの名前、まだ聞いてなかったな」
そう尋ねると彼は眩しそうに目を細めて、耳慣れない、やたら大仰な名前を名乗った。
END【初出:2014/11/3 レオエレ小説アンソロジーに寄稿】
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