金の花、銀の花、そして。
ミーシャの鼻歌を聞く為だと思おう。
そう堪えて、かなりの時間が経った。
石作りの長机には切り花がこんもりと積まれ、風が吹くたびぽろぽろと地面に落ちていく。最初こそエレフセウスは律儀に一本ずつ拾い上げていたが、海の泡のように際限なく滑り落ちていく花々に愛想を尽かし、いつしかそれも諦めた。アルテミシアから熱心に「エレフも一緒にやりましょうよ」と花冠作りを勧められたせいもある。あと数ヶ月で成人の儀を迎えるというのに、妹と二人、幼い日のように花遊びをしているのは奇妙な心地だった。
「エレフ、そこ、もっときっちり縛らなきゃダメよ。あとで解けてきちゃうわ。格好悪いわよ」
「……うーん」
厳しい妹の監修のもと、エレフセウスは手元に視線を向ける事で浮かない顔を誤魔化しながら、花の茎を折り曲げ、他の束へと巻きつける。
二人が座っている縁台は王宮の柱廊から少し離れた、憩いの為の休憩場所だった。海の向こうからやってくる賓客を迎え入れる為、数週間前から王宮は歓待の準備で忙しい。夏を前に、同盟国で改めて和平の条項など確認するのだという。船には幼馴染であるアナトリア王子も同乗していると聞き、エレフセウスもアルテミシアも指折り数えて船の到着を待っていた。
山盛りの花々は彼らを歓迎する為に集められたものである。既にあらかたは侍女の手によって丁寧に花瓶へ活けられ、玄関広間、食堂、謁見の間、祭壇、音楽堂、寝所、浴場、廊下の端に至るまで――思いつく限りの場所へと旅立っている。残るは客人の頭に被せる習わしの花冠作りだけだった。
何も自分たちが作らなくてもいいのだが、これ見よがしの場所に置かれた花籠を見て、妹が気紛れに役目を買って出たのだから仕方ない。エレフセウスは気乗りしなかったが、楽しげに花籠を机上に引っくり返した妹からのお願いを無碍にもできず、先程から黙々と花冠を編む作業を進めていた。
王宮にも庭園があって季節ごとの花々を楽しめるが、ここは緑豊かなアルカディア。そうでなくとも花の種類は多い。けれども今日は他国から届けられた、乾いた大地に根を張る地中海沿岸の品種までもが揃っていた。妹は物珍しげにそれらを手に取り、南の花は色味が強い気がするわ、私の思い込みのせいなのかしら、と機嫌よく鼻歌を歌っている。エレフセウスは花に詳しくなかったので、どうなんだろう、と曖昧な返事をし続けていた。
(客人に花冠だなんて、誰が始めた風習なんだろう)
ついつい恨みがましく考えてしまう。様々な祭儀や競技で花冠を被るのは納得できるが、歓迎の意味を込めるなら、普通に宴会用の葡萄酒を振る舞うだけで充分ではないか。
「エレフ、ちょっと頭を貸してね」
気軽な声でぽんと花冠を載せられる。かさかさと花弁が髪に触れる音、そして季節を謳うような芳香。柱廊から離れているので通りがかりの人間には簡単に見つけられない場所にいるのが幸いだが、エレフセウスは渋面を作って妹を見返した。
「……ミーシャ」
「我慢して。これはオリオンのぶんだもの。大人と同じじゃ大きすぎるかもしれないし……むむ、やっぱり少し大きかったわ。縮めなきゃ」
顎に指を当てて値踏みをする妹の姿は、さながら専門家のよう。彼女はだんだんと凝り始め、客人に合わせた花の組み合わせまで考慮している様子だった。その真剣さにエレフセウスも茶々を入れられない。
「色味も変えたいから、新しく作り直すわ。エレフはこのまま被っていてね。見本にするから」
「嘘だろ?」
「大丈夫、私も被るから。ね、お揃いでしょ?」
ほらねとアルテミシアは自ら花冠を被ってにっこり笑う。エレフセウスは言葉に詰まった。理屈では妹が正しい。そして感情面でも圧倒的に妹が強い。
少しくらい我慢しようかと思った、その矢先。
「二人とも楽しそうだね」
背後から聞きなれた声がして、何かの演劇のようにタイミングよく(あるいは悪く)レオンティウスが顔を覗かせた。どうしてこう、物事というものは望まぬ方向に転がっていくのかエレフセウスには昔から不思議で堪らない。特にこの兄は「何も今ここで来なくても」という場面に限って犬のような嗅覚を発揮して近寄ってくる。自然と咎めるような声になった。
「レオンは仕事中じゃないのか?」
「気分転換だよ。散歩していたらミーシャの鼻歌が聞こえてきたから、つい」
「やだ、兄様のところまで聞こえたの? そんな大声のつもりじゃなかったのに」
「大丈夫。私が特別に耳ざといだけだよ」
レオンティウスは冗談めかして答えると、手の甲でそっと椅子の上の花を払い、何食わぬ顔で二人の横に腰かけた。つむじから頬、手元から指先と、流れていく兄の視線を肌に感じる。レオンティウスは何も言わないまま、とろけるような視線だけで花冠を被って花を編んでいる双子の姿を楽しんでいるようだった。反射的にエレフセウスは頭上の花冠を取り除こうと手を伸ばしたが「駄目」という視線がアルテミシアから発せられ、しばし視線の応酬の後、ぐぬぬ、と腕を膝上に戻す。
「夏の花まで混じっているね」
双子の無言の攻防を知ってか知らずか、レオンティウスは視線を山盛りになった花々へと移した。良い事を聞いてくれたと言わんばかりにアルテミシアが声を弾ませる。
「ええ。今日の為にわざわざ誰かが取り寄せてくれたみたい。籠の中に色々混じっていたのよ。素敵でしょ? 兄様にも一つ被せてあげる」
出来上がった花冠の中から、アルテミシアがひとつを選んで彼の頭に載せた。ありがとうと礼を言いながらも、レオンティウスの目はいまだに花の山の上を漂っている。やはり他国の花が珍しいのだろうか。
レオンティウスは考え深げに目を伏せて、丁寧に一本の切り花を取り出すと、手遊びのように自分の脇に並べ始めた。薔薇のように花弁が厚く重なった、鮮やかな青い花である。
「昔、皆でこうして色並べをしたね。庭園から違う色の花を集めて、少しずつ色合いをずらして並べていく遊び。ミーシャは夕暮れの渚を作るのが上手だった」
「ええ。赤色だけじゃなく、途中で黄色を入れるのがポイントだったわ。波が光を弾いた色よ。兄様は炎だったわね。黄色の炎」
「ああ、そうだった、懐かしいね。エレフは何だったかな?」
「……忘れた」
「エレフはいつも雲よ。白ばかり集めるの。他の色を集めるのが面倒だからって言っていたけど、私、知ってるわ。あの頃のエレフはあの白い花が好きだったのよね? 母様がよく私たちの寝室に飾ってくれた花だわ」
子供の頃の気恥ずかしい話も、肉親の前ではいつも暴かれてしまう。エレフセウスは賢明にも無言を通して答えを明かさなかった。そうでなくともレオンティウスとアルテミシアという組み合わせ。きょうだいの中でもおっとりとした、それでいて押しの強い二人に挟まれて、自分がぎゃーぎゃー騒いだところで簡単に言いくるめられてしまうと予想がつく。強がって反発したい思春期特有の発作はエレフセウスも人並みに――あるいは人並み以上に持ち合わせていたが、この二人が揃ったとなっては分が悪い。
レオンティウスはその間にも、記憶をなぞるように何本か花を抜き出して横一列に並べていた。子供の頃とは違う骨ばった兄の指が、茎の切り口にぷっくりと溜まった小さな滴に触れる。行儀よく並べた花々は、まるで整列して兄からの命令を待つ兵隊たちのようだ。エレフセウスはそれを横目で窺いながら、何故か物寂しいような気持ちになった。大人になった兄の手が、あっけなく過ぎ去った月日をありありと示すようだからだろうか。あるいは、まだ筋肉の薄い自分の手と比べてしまうからだろうか。
そうこうしていると、廊下でアルテミシアを呼ぶ侍女たちの声が聞こえた。どうやら女性陣だけの集まりがあるらしい。アルテミシアは腰を浮かせると「すぐに戻るようにするからそのままでいてね」と釘を刺し、王宮の中へと駆け戻ってしまった。これをきっかけにレオンティウスも中に戻ればいいのに、のらりくらりと言い訳をして立ち去らない。
「あとでカストルに叱られても知らないぞ。実はサボってました、なんて言われても俺は事情を知らないんだからな」
「平気だよ。ちゃんとカストルに、このあたりを歩いてくると言ってから出てきたから。エレフが心配するような事は何もない」
また一本、レオンティウスは花を並べる。
「……何か作ってるのか?」
エレフセウスは怪訝になって尋ねた。もしや先程の話題に出た、色合わせの遊びだろうか。花を摘んで大理石の床に並べる、素朴なあの遊戯。爪先にこびりついた黄緑色の液、上手く千切れずにぎざぎざになった茎、しゃがみ込んでモザイクのように花を並べるきょうだいたち――。
「いや、単なる暇潰しだよ。昔みたいにはいかないね。色に対する関心が薄れてしまった気がするな。……エレフの『雲』はもう出来ているね」
レオンティウスはそう言うと、目線だけでエレフセウスの頭上を指し示した。瞳に込められた微笑みの気配に、引っ込んでいた反発心が蘇ってくる。
「ミーシャが作ったんだよ、これは。レオンの被ってるのも同じ白い花ばかりだぞ」
「そうか……私も『雲』か。成る程、確かに頭が軽くなった気がするな」
レオンティウスは溜息のようにふっと笑ったが、それ以上からかう気はないようで、再び目線を前に戻して黙り込んだ。その唐突な沈黙に不自然なものを感じたが、正解も思い浮かばず、エレフセウスも作りかけの花冠を完成させる作業に熱中するふりをする。あまり会話をしたい気分ではなかった。
自分が成人に近づけば近付くほど、何故かこの兄に苛々する事が増えてきた。臆病だった幼い頃は些細な事ですら彼に泣きついたのに、我ながら恩知らずな人間だと思う。その後ろめたさと羞恥心はエレフセウスの中で居場所を見つけられないまま、こうして無愛想な態度となって形を取り続けてきた。
手元にあった白い花を摘まみ上げ、束に括り付ける。一本、二本。邪魔な葉は千切って捨てる。風が吹いて花々が一斉に匂い立った。三本、四本、五本――なかなかミーシャは帰ってこない。
不意に、ずしりと肩に重みを感じた。首を回してみると兄の頭が寄りかかっている。伏せられた睫毛は完全に瞳を覆い隠しており、エレフセウスは首筋に熱が集まってくるのを感じた。
(本っっ当に、こいつは……!)
せめて花冠を作るのを手伝うとか色々と選択肢もあるだろうに、よりによって自分を枕にうたたねとは!
確かにぽかぽか陽気で心地よく、空も穏やかに澄んで、吹き渡る風の尻尾さえ片手で掴めそうなお天気である。眠りたくなる気持ちも分かる。しかし、だからと言って本当に寝るか?
驚きと呆れと羞恥心とでエレフセウスは瞳を白黒させたが、やがて溜め息を吐いて頬杖をついた。結局、自分がどう目を反らそうが、兄は予想しないところからひょっこり顔を覗かせて、勝手に自分を動揺させていくのだ。いちいち反応するのも馬鹿らしくなる。
(親切に起こしてなんてやるもんか。寝坊して、カストルに叱られればいいんだ)
ふて腐れた胸中でそんな事を思ったが――こうして気紛れに侍女の仕事を手伝っている自分と違い、世継ぎのレオンティウスが現在どんな多忙な日々を送っているのか、さすがに知らない訳ではない。大人しく肩を貸してやりながら、心配とも尊敬とも慈しみとも呼べない、どこか苦い気持ちが込み上げる。作りかけの花冠を膝の上に放り投げると、押し流される雲が静かに太陽を覆い隠し、薄い日陰で王宮を柔らかに包み込んだ。
(ミーシャはまだかな……)
眠る吐息が聞こえるせいだろうか。エレフセウスも次第に瞼が重くなってきた。火に掛けられた鍋のように、とろとろと意識が濁っていく。兄の癖毛が首筋に当たって暖かい事も眠気の一因になっているのかもしれない。たいした抵抗をする時間もないまま、彼は眠りの淵へと落ちていった。
風が吹いた。
一度――微かに強まって、もう一度。
吹き飛ばされそうになった一輪を、骨ばった手がそっと押さえる。琥珀色の目を薄く開け、頭を弟の肩に預けたまま、レオンティウスが片腕だけを伸ばしていた。
彼の動作は至極ゆっくりしている。最初は指先で茎を押さえていたが、間接を丸め、風から守るように掌で壁を作った。
「切り花ばかり、と言うのもどうなんだろうね……」
彼は囁くと、おもむろに花弁を握り込む。やはりこれも静かな動作だ。手の甲に筋が浮かび上がり、五本の指に力がこもる。しばらくして掌を広げると、そこには毟られた鳥の羽根のようにくしゃくしゃになった花の残骸、そして微かな香りと植物性の液汁だけが残った。
彼は次に、隣に並べていた別の花を握り潰す。先程よりも花弁の数が多く、色味が薄い。その次は隣の赤い花、その次は黄色の――。
獅子の名を持つ彼であるが、この時は、あたかも腕だけが蛇の眷属であるようだった。拳が頭、爪が牙、腕が長い尾、肌に走る静脈の青はさながら鱗のよう。音もなくしなやかに忍び寄り、絡め取り、次々と獲物を飲みこんでいく。
「殿下、こちらにいらっしゃいましたか」
背後から人が近づいてくる気配を感じ、レオンティウスは横目で様子を伺った。
「……カストルか」
柱廊からやってきた従者に、静かにと、唇の動きだけで命じる。カストルは目の間の状況を見てとって、兄弟の微笑ましい団欒風景に居合わせてしまったかと頬を緩めたが、珍しくレオンティウスがにこりともしていないと気付き、すぐに表情を引き締めた。
「いかがされましたか?」
「これは誰が手配したものか分かるか?」
「これ、とは……」
潰された花々の残骸を見て取って、彼はすぐに意味を察したようだ。案じる言葉を先んじて制するようにレオンティウスは緩く息を吐く。
「……大丈夫だ。害になるほどのものはない。だが、少し気にかかる。念の為に調べてくれ。私の杞憂に過ぎないのならばそれでいい。過保護な兄だと笑われるだけだ」
「はっ」
「何か出てきたとしても、今はまだ大事にしたくない。報告だけ頼む」
長々とした説明をせずともこちらの意を心得て、カストルは一礼をすると王宮の中へと戻っていった。その足音を聞き届け、レオンティウスは緩慢に弟の首筋へ頭を擦り付ける。眠る呼吸の音は正常で、何もおかしいところはない。その事実に胸を撫で下ろす。
五年前、マケドニアで事件が起こった。軍勢で野営中、羊の肉を丸ごと火にくべようと近くの樹の枝で串を使った結果、彼らはその晩、多くの兵を失ったと言う。
また昨年の春、アルカディアの農村で山羊の群れが突然倒れ、後ろ足を硬直させたまま動かなくなった。命は助かったが麻痺が残り、今でも足を引きずっていると報告が届いている。
そして十年前、野山を駆け回って遊んでいたエレフセウスとアルテミシアが、腕の皮膚を赤くして帰ってきた事があった。ひりひりして痛いのだと涙目に訴えて、夜中に薬師に見て貰った事を、幼かったあの子たちは既に覚えていないのかもしれない。
毒――。優雅なる冷酷、という言葉がレオンティウスの脳裏に浮かんだ。
何食わぬ顔をして日常景色の中に溶け込んでいても、彼らは彼らの都合でその身に未知の力を宿らせている。王宮の庭園に植えてある花でも、表面に触れるのならば問題ないが、剪定の際に液汁が肌に付着すれば水ぶくれや化膿を起こすものもある。切り口から毒素だけが水に溶け、花瓶の中が汚染される事もある。その脅威はさり気なく、どこか甘やかだ。
普段であれば飾り用の切り花は庭師が持ってくるのだが、レオンティウスの見たところ、今回は出所の分からない花が何種類か混じっているようだった。地獄の番犬から生まれたと言い伝えられているトリカブトなど有名な花は混じっていないが、何せこれだけの量だ。目印になる青い花弁ではなく、何の変哲もない若葉だけなら、どこかに紛れ込んでいても不思議はない。
(……毒殺を狙うにしては弱すぎる。何か、他の目的だったのかもしれない)
それとも本当に自分の杞憂で、たまたま紛れ込んだだけなのだろうか。レオンティウスは掌を広げて皮膚を観察した。特に赤く爛れている様子はないが、心なしかぴりぴりと痺れているような気もする。エレフセウスもアルテミシアも白い花を中心に花冠を作っていたようだから、きっとこんなふうにはなっていないだろう。もし弟たちの身に何か起こっていたら、今頃、自分はどう振る舞っていただろう。
レオンティウスは無表情に瞬くと、手の甲を使って花の残骸を冷淡に地面へと払い落とした。つむじに弟の顎があり、時折、こくんと重さを感じる。エレフセウスはまだ目覚めない。起こさないように配慮したのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
――目を開けて、カストルとの会話は何だと問い詰めて欲しいような、いつまでも何も知らないままでいて欲しいような。
ふっとレオンティウスの唇が吊り上る。自嘲とも充実感とも取れる、微かな仄暗さの混じる笑みだった。
大事な弟。きっとこんなふうに守られてくれるのも僅かの間なのだろう。成人後は将軍の地位を得て、どこかの地へ赴任する事になる。その場限りのものではなく、何が起っても覆らないほどの寂しさがレオンティウスは欲しかった。他の誰かで埋まらないもの。代用の効かないもの。その事をきちんと確認できるくらいに。
風の音がありもしない感情を作り出すように無邪気に響いた。答えを先延ばしにする為にレオンティウスは瞼を下ろす。目を瞑っても、瞳の中に花の色や匂いが染みついている気がした。土と花と、衣服の匂い。僅かな髪の香料、首筋の熱。
人間は花々ほど美しくない。
レオンティウス自身が、それを身を持ってよく知っていた。
END.
(2017.01.12)
糠床さんのイラストにお話をつけさせて貰いました。二枚のイラストに合わせ、前半と後半で雰囲気が一転するような話を目指したものです。
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