雲の切れ間、その幕間






 蟻地獄を眺めているようだ、というのが率直な感想だった。
「この広さで最後尾まで声が届くものなのか?」
「ええ。建物の造りのせいですね。実際に演目が始まれば、舞台で針が落ちる音さえも聞こえると言われています」
「他の国と比べると少し小さいくらいですよ。そのへんはアルカディアの土地柄のせいでしょうね」
 素朴なアメティストスの質問にオルフが、続いてシリウスが応じた。ほう、と気のない相槌を打って、改めてその景観を見下ろす。
 巨大なすり鉢状になった野外の円形劇場。日暮れには早かったが、晴れた空には微かに星の気配が漂ってきていた。その空の下を物見高い市民たちがぞろぞろと集まり始めており、アメティストスが最上階の通路にいると知ると、振り返って歓声を送ってきた。ゆるりと片手を上げてそれに応じながら、中央の階段を一歩一歩下りていく。左右に控えていたシリウスとオルフがその後に続いた。
 石で組まれた舞台は想像以上に大きく見えた。何重にも輪になっている観覧席の中央を見下ろしていると、渦巻きを覗き込んでいるように遠近感があやふやになる。じっと見ていると舞台がどんどん広がって、自分がそこに引きずり込まれていくような錯覚すらあった。
 常であればここは牛による脱穀作業や葡萄酒造りなど、農作業に従事する為の集会場だったはずである。それが一転して劇場に変貌を遂げるのは、春と冬の祭を行う時期と決まっていた。中央の舞台に祭壇を設けて貢物を神に奉納し、豊穣を願って踊り明かす。それが徐々に形を変え、現在では年に二回、大掛かりな演劇が競演されるようになった。
 しかし今は秋。季節外れの開催である。
 彼らに割り当てられたのは中央の最前列だった。他の座席は白い石灰石で造られているが、ここだけは赤色の石が使われている。一目で位が高い人物が座る場所だと分かった。
「ああ、ここだよ」
 先に席についていたレオンティウスが片手を上げて合図を送る。隣にはイサドラが、その周囲には見知った家臣たちが座っていた。普通の祭儀であれば彼らは観衆の声援を受けながら最後に着席するのが常なのだが、今日ばかりは主役をアメティストスたちに――あるいは舞台袖にいる役者と詩人たちに譲ったのだろう。大勢の観客を想定した演劇には時間も金もかかるので、通常は国家行事として年間計画に組み込まれているが、今回は急遽の取り計らいだった為、儀礼的な部分は大幅に簡略化されているようだった。
「さあ、こちらへ。何か飲み物を頼みましょうか?」
 イサドラが躊躇いを見せつつも、暖かな声で席を勧める。産みの母との距離感はいまだに掴めていなかったが、軽く礼を言って葡萄酒を頼み、シリウスとオルフと共に席に着いた。
(わざわざ、こんな事をしなくとも――)
 密かに溜息を吐きながら、アメティストスは手すりに頬杖をつく。
 事の発端は、レグルスが仕入れてきた町の噂話だった。
「どうも最近じゃ、アメティストス様は子供時代に熊を倒したって事になっているみたいですよ」
「……は?」
 王宮の会議室。一通りの議題が済み、室内には安堵と解放感が満ちていた。休憩がてらに軽食が振る舞われ、各々くつろぎ始めている。思いがけない言葉にアメティストスは蜂蜜水の杯を掲げていた手を止め、眉間に皺を寄せてレグルスを見遣った。
「広場で若い詩人たちが好き勝手に歌っているんですよ。元はこちらの楽師殿がペルシア軍と戦う際に向こうの陣営で即興に歌ったもののようですが、それを真似たものがどんどん作られているようで」
 レグルスの説明を聞き、卓の端で罰が悪そうにオルフが目元を歪めた。一年前、奴隷部隊が正式に和睦を結ぶ為にアルカディアに上陸した時から既に広場では盛んにこの主題が演じられていたらしいが、次第に脚色が強くなっているのだという。
「ああ……いかにもありそうですねぇ。部隊でも前々からそんな噂話が」
「心外ですね。確かに敵の心に訴える為に情感豊かな詩にしましたが、私はあくまで事実に基づいたものを歌いましたよ。そもそも閣下の幼少期のお話など、恐れ多くて聞いていませんし……」
 苦笑するシリウスのセリフを半ば遮るようにして、オルフが苦々しく反論した。責任を感じているのか、視界の隅でアメティストスの反応を気にしている素振りを見せている。それを面白がるように微かに目を細めながらレグルスが続けた。
「他にも色々とあるようですよ。海賊をしていた頃に異国の姫君とロマンスがあったとか、紫眼の狼と呼ばれる由縁もずばり山奥で狼に育てられたのだとか」
「ん? その調子だと私は獅子に育てられた事にならないか? 困ったな。実物を見た事もないのに」
 レオンティウスが焦点のずれた心配をして、室内の空気を弛緩させた。誰もが「いや、それはない」という言葉を胸の中に持った沈黙だったが、当のレオンティウスは蜂蜜水を一口飲んで唇を湿らせると、真面目な顔で話題を変えた。
「いっそ、こちらが正式に詩か劇を作って披露するのはどうだろう。ちょうど冬と春には演劇祭の出し物がある。ここでアメティストスの身の上を主題にしたものを披露して、市民に彼を身近に感じてもらうのは?」
 打って変わって建設的な議題である。皆、一様に「ほう」という顔になった。
 和睦が結ばれてから一年。条約としては少なくとも三年間の支援関係を持つという文言が青銅版に彫られて記録されていた。三年後にはまた条約を見直す事になるが、奴隷部隊がアルカディアに半ば組み込まれるような形で滞在しているせいもあり、三年以上の支援関係は予め想定されているものとも言える。大半の市民は奴隷部隊に好意的だったが、一度は敵対関係だった事、そして忌み子の王子が舞い戻った事で再び兄弟間の王位争いが起こるのではないかと危惧している輩が少なからず存在しており、何度か足を引っ張られる事件も起こっていた。
「さすが陛下。それはイメージアップに繋がりますね。民衆の人気が高まれば反対派も我々に手を出しにくくなるでしょうし」
 レグルスが声を弾ませた。その調子の良い言い方には、最初からこうなる事を期待しておいたのではと窺わせるものがある。
「どうせなら観劇記念のテラコッタも出しませんか。芝居の登場人物を真似た素焼きの人形なんですが、意外に売れるらしくて。持ち帰った土産のテラコッタを見るたびに民衆も和睦の素晴らしさを思い出す。素敵じゃありませんか」
「ちょっと待って下さい。閣下の承諾も取らないまま、話を進られては困ります」
 噛みついたのはオルフである。部下に名前を出された事で、苦い顔を崩さないまま黙り込んでいたアメティストスはようやく重い口を開いた。
「……どの程度の噂になっているんだ。そのホラ話は」
「結構な範囲ですね。船乗りの耳にも入っているようですし、隣国の方にも広がっていると考えていいでしょう」
「あまり良い気はしないな」
「だからこそ、我々が正式なものを作るべきなんですよ。アルカディアは先王の時代から文化面にも力を入れているんです。良い役者も育ってきていますよ。下らないホラ話を上塗りする為にも、ひとつ荘厳なものを作ってみては?」
「だからと言って、特別な出し物にする必要があるのか。いっそオルフが一晩中どこかで歌い明かせばいいと思うが。きっとすぐに広まるぞ」
「さすがにそれは、奴の喉が死ぬかと」
 どこか他人事のように提案すると、シリウスが真面目な顔で待ったをかけた。オルフは「閣下が仰せになるのなら」と背筋を正した状態で、命令が下れば一晩でも二晩でも歌い奏でてくれそうな気配だった為、これは賢明な判断と言える。
「やはり見世物にするのは気が進まないか? 好き勝手に歌われるよりは良いかと思ったのだが」
 レオンティウスがこちらを見ながら尋ねた。珍しく煮え切らない表情でアメティストスが腕を組む。
「……そもそも観劇した事がないから、良いも悪いも分からん。マケドニアと組んだ時に歓迎の宴に呼ばれて演舞を見たりはしたが、その程度だ。その正式な出し物とやらがどんなものになるのか、今一つ想像できん」
 そう零すと、レオンティウスが「あ」と言う顔をした。その顔には「そうだこの子は奴隷として暮らしてきたのだ……そのような余裕はなかったはず……」という気遣わしげなものから「ここは兄として観劇の楽しさを教えてやらねば!」という決意に満ちたものへ瞬時に移り変わる。軍議の時には滅多に表情を変えず、私生活でも笑みを崩さないのに、どうしてかこの時ばかりは分かりやすい。アメティストスは自分が余計な事を言ってしまった事に気付いたが、既に後の祭りだった。何故かシリウスやオルフ、レグルス、そして一言も発言しないまま事の成り行きを見守っていたゾスマ、軽食の支度を取り仕切っていたカストルまでが同様に「あ」という顔を見せたのだから堪らない。
 そのまま、まずは実際の様子をアメティストスに知ってもらわなければという話になり、とんとん拍子で慰労会と懇親会を兼ねた今回の観劇が決まったのである。


 アメティストスは下男が運んできた葡萄酒に手をつけながら、ぼんやりと無人の舞台を見つめていた。両者の友好を示す機会だからと、アルカディアの宝物庫から引っ張り出された品物で飾り立てられていたせいもあって頭が重い。よく考えれば歌やら何やらを聞くのに、しゃらりと音の鳴る耳飾りをつけるのは馬鹿げているのではないかと気付き、面倒になって早々に外してしまう。
 日差しが弱まった為か舞台の両脇には既に松明が灯されていた。ちらちらと揺れる炎と、人々のざわめき。まるで劇場全体がひとつの生き物となって呼吸しているように感じられる。まだ誰もいないのに、これから物語が始まるという強い気配が石造りの舞台に満ちていた。
(自分の身の上を、形に――)
 他人事のように、その提案について考える。
 ふと、少年時代に世話になった老詩人の事を思い出した。ここに彼がいたならば、どういう歌を自分に授けてくれたのだろう。今となってみれば、あれは自分だけが見えていた亡霊だったのではないかと感じる事もあった。黒い影のような不吉なものではなく、偉大な善き祖先の亡霊。岩陰に二人で腰を下ろし、骨のように細い皺だらけの指先が夜空の星をひとつひとつ指し示した光景を思い出す。あの頃はあまり真面目に聞いていなかったが、今もどこかで飄々と、さまよえる誰かに教えを施しているような気がした。
(……だからと言って)
 妹との思い出を見世物にしたくないという気持ちと、彼女がどう生きて死んでいったのか、その痕跡をどこかで残しておくべきではないかという気持ちが胸中でせめぎ合っていた。レスボス島での騒ぎは既に知られているところだったが――なにしろそれがアルカディアでは内乱の発端になったのだから――しかしそれはあくまで『星見の巫女が水神の生贄にされた』という程度であり、彼女個人の血の通った物語というものでは決してなかった。他の者が犠牲となる事を良しとせず自ら生贄になったのだと美談になってはいたが、それとは別の、自分がよく知っていた少女としての妹を、人に知ってもらうのも良いのではないか、という気もしてくる。
(……ミーシャはどうして欲しいだろう)
 喜ぶだろうか、怒るだろうか。幼い頃は勿論、彼女を探して旅をしている最中でもその存在は常に傍らにあって、妹の事は自分が一番よく分かっているのだと信じて疑わなかったのに、今ではそれも揺らいでいる。男女の双子で性格も全く違ったが、幼い頃は二人の間に境界などというものはなく、互いが天秤の両側にいてちょうどよく吊り合っているような存在だった。しかし彼女が自ら進んで生贄になったのだとレスボス島の信女たちから聞いた時、ああ、妹は既に大人になっていたのだなと息苦しい心地になった事を思い出す。夢の中で彼女に三つ編みを解かれた時も。ここにいない人の事を思う心もとなさが、彼を感傷的な気分にさせた。
「……お前の気が進まないのなら、無理に決断しなくても良いのだぞ」
 むっつりと黙り込んでいるアメティストスを慮ったのか、隣に座るレオンティウスが控えめに言った。主賓である二人の会談を邪魔しないよう周囲はそれぞれ談笑を交わして距離を取っていたが、周りに聞こえないよう用心を重ねたのか、それは囁くような声音だった。
「いくら他の流説を抑える為とはいえ、不快になっても無理はない。お前の持つ思い出を面白半分に流布させるつもりはないのだ」
 アメティストスは無言で相手を見返す。タイミングの良さが癪に障った。ほとんど睨むような目つきになったが、ふと別の言葉が口をついて出る。
「どうせなら、お前の話も歌に仕込んでもらったらいいだろう」
「……私の?」
「内乱の事を」
 即ち、異母兄との争いの事である。アメティストスにとってもスコルピオスは憎悪の対象であったが、どうして妹と親友が彼に殺されなければならなかったのか、その根元の部分を知りたいという気持ちもあった。劇とはいえ、その破滅を見届ける事で溜飲を下げたいという暗い感情もしつこく胸の底に沈みこんでいる。自分だけ過去を暴かれるのが不公平だという考えもあった。
 レオンティウスは眉を上げた後、無言で「どうかな」という顔をしたが、強く否定するような事はしなかった。少しの間考えるそぶりを見せていたが、やがて軽く首を振った。
「当時あの人が何を考えていたのか、私にはさっぱり理解できない。だから再現できないよ。他にもやりようはあったはずなのに、どうしてあのような形で内乱を起こしたのか」
「……私もミーシャが何を考えていたのか、よくは分からない」
 レオンティウスを同じ土俵に引き上げる為だとは言え、先程まで考えていた想いが自嘲となって零れ出た。
「ただ、こうであったならいいと思うものがあるだけだ。……感傷だな」
 レオンティウスは意外そうにこちらを見て、ちらりと舞台へ視線を移す。
「……こうであったらいい、というものならば、確かに私にもある」
「そうか」
「もう終わった事だ。どう思われようが今更構わないが……ああ、そうだな……形に残しておくのも良いのかもしれない」
「ふん」
 吐息で相槌を打つ。我ながら肯定とも否定とも言い難いものだった。それでもレオンティウスに自分と同じ迷いを植えつけた事に満足し、葡萄酒の残りに口をつける。
 人の心に残留する記憶。それぞれが抱えていたものを赤裸々に知ろうとまでは思わない。だが死者を悼むにせよ憎むにせよ、かつてこの地に存在していた命に別の意味を見出すのが、生き残った者の特権なのかもしれなかった。
 開演のドラが鳴らされる。舞台には合唱隊が登場し、観衆は居住まいを正して始まりに備えた。松明の光が色濃くなる。アメティストスは葡萄酒を脇に置き、邪魔な横髪を払いのけると、そっと舞台の物音に耳を澄ませた。




END
(2015.02.15)


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