わふわふ










 昼の熱気は去ったものの、緑の木々から立ち上る夏の気配は、夕刻を過ぎても未だ地表に留まっていた。汗ばむ空気は月に晒され、木々の間を弱々しい風となって吹き抜けていく。海辺には巨大な輸送船が停泊し、眠りについたように気だるげに上下に揺れていた。砂浜の面積は狭く、すぐに草の生えた地面へと変わっており、そこを利用して大小の天幕がいくつか張られている。ごつごつとした岩肌が崖となり、それらを守るように半円状に取り囲んでいた。
「……いいか、あそこだ」
 その頂上に座り、油断なく今夜の襲撃場所である砂浜を見下ろしていたアメティストスは呟いた。ふと隣へ手を伸ばす。もふっと指先が埋もれ、そのまま脇に潜り込んできたのは巨大な獣の首だった。眼下に見える奴隷商人の天幕に視線を固定したまま、収まりのいい首の付け根を指先で掻く。
 アメティストスへ寄り添うように取り囲んでいるのは、大人ほどの身の丈を持つ犬の群れだった。一見すると狼のように見えるが、丸みを帯びた人懐っこい目付きと、能弁に揺れる尾からその違いが分かる。
 特に大きいのは左右に控える二頭だった。一頭は艶やかな金毛で、興奮しているのか先程からアメティストスの脇に擦り寄って尻尾を振っている。もう一頭は黒毛で、毛波は若干ぱさついているが堂々とした体躯の持ち主だった。胴体はがっしりと太く、船に使う丸太ほどの幅はあるだろう。こちらは地面に鼻をつけ、何が気になるのかしきりに地面の匂いを嗅いでいた。
「いいな、オルフ、お前はあっちから行くんだぞ。あっち……あっちだ。おい、本当に分かっているのか?」
 アメティストスはじゃれ付いてくる一頭をたしなめた。しきりに顔を舐めようとするので、両手でがっちりと首を押さえつける。途端に、ぺたっと耳が後ろに伏せられた。
「人の話を聞かないのはどこのどいつだ、ん?」
 怒られるのかと身を硬くさせ、困ったように目を泳がせる犬の様子を観察しながら、彼はもう一度岩場の反対側を顎で示した。
「あっちだ。ほら、顔を向けろ。そうだ、よーし……分かったな?」
 ぐっと両手で顔を向けさせて、何度も念を押す。オルフは襲撃となると張り切って先走る事が多いので、最初によく言い聞かせておかなければならない。わう!と一声鳴き、続いて大丈夫だと言うように尻尾を振ったので、アメティストスは両手の拘束を解いて「行け」と命じた。金犬は一度ぶるりと体を震わせると、数頭の犬達を引き連れて岩場の向こうへと軽快に走っていく。
「次はお前だ、シリウス……何をしている?」
 地面を嗅いでいたはずの黒犬は、いつの間にか横向きになってごろごろと体を地面に擦り付けていた。襲撃前にくつろぎすぎである。おそらく背中が痒かったのだろうが、何でまたこんな時に。
「お前は時々全く空気を読まんな!」
 黒犬はやばいところを見つかったとばかりに硬直したが、うりうりと横腹を掻いてもらって気持ち良かったのか、やがて悪びれずに力を抜いて「もっと掻いて」と目線で催促した。主人の意向を先回りして読む事に秀で、自分で餌を取ってくる非常に手の掛からない犬なのだが、どうも妙なところで抜けている。
「私とお前はこちらから先に出るぞ、分かったな」
 適当に撫でてやると黒犬はころんと起き上がり、了解の印のように鼻を摺り寄せてきた。その大きな背に跨り、アメティストスは時を待つ。何だかんだで和んでしまったが、これから一仕事が待っているのだ。背後に控えている犬達もぴたりと息を潜め、主人の合図を待っている。
 崖の下の天幕には、幸い、篝火は炊かれていない。夜空から差し込む月の光が道しるべになっている他は、暗く、静かな夜だった。アメティストスは見張りの数を確認し、勝算を読むと、腰から抜いた剣を頭上に翳した。
「――掛かれ」
 月の光を断ち切るように、すっ、と手を振り下ろす。その瞬間、跨いでいた毛並みの下で、しなやかな筋肉が動き出したのを感じた。黒犬は僅かに身を屈めた後、前足でしっかりと地面に体重を掛ける。そして自分を乗せたまま軽々と跳躍し、傾斜のきつい崖を一気に駆け下りた。振り落とされぬようアメティストスは両足でしっかりと太い胴体を挟み込み、空いた左手でその首に掴まった。
 呼応して反対側から遠吠えが鳴り響く。声のいい、オルフらしい荘厳な遠吠えだ。その声に煽られて続々と他の犬達も咆哮を上げ始める。それはまるで伝説で語られる冥府の獣が地上に彷徨い出てきたようだった。
 人を噛み殺させるような真似は、できるだけさせたくない。人の血の味を覚えてしまえば後戻りができなくなるからだ。そこでアメティストスは襲撃の際、相手への警告の意味も込めて彼らに雄たけびを上げさせるように躾けている。
 何事だと、天幕から人が飛び出してくるのが見えた。しかし機動力は完全にこちらの方が勝っているのだ、雪崩のように突っ込んでいく犬達の群れを止められる者などどこにいよう。それこそ猛獣使いでも読んでこなければ話にならない。そして近隣で最もその術に長けているのは、他ならぬアメティストスなのである。
「し……紫眼の犬だ!」
 数々の噂を聞いている奴隷商人達は我先にと逃げ出した。元から護衛も少ない一行だったと見え、荷を見捨てて夜の森へと逃れていく。何人か踏みとどまって応戦しようとする輩もいたが、猛進する犬達の巨躯に跳ね飛ばされ、あるいは薙ぎ倒され、あっという間に瓦解した。
「深追いはするな、放っておけ!お前達の牙を濡らすほどの価値はない!」
 アメティストスも叫びながら剣を収める。黒犬の背から降りて天幕の隙間を進み、残党がいないか確認すると、ようやく緊張を解いた。
「ご苦労だったな、もういいぞ」
 すると襲撃後の興奮が抑えられないのか、主人に褒めて貰おうと犬達がわらわらと駆け寄ってくる。ほとんど体当たりに近い結果報告を受け、さすがのアメティストスも尻餅をついた。
「わぷっ、こら、止せ、暑苦しいだろうが!」
 ただでさえ夏、そして運動後とあって汗ばんでいるのに、こうも大きな毛玉が次々と寄ってきてはたまらない。顔を舐めてくる奴を押しのけ、適当に首を掻いてやったり撫でてやったりしながら起き上がった。揉みくちゃにされた髪から土埃を払っていると、ふと視線に気付く。
 じっ……。
「どうした、オルフ?」
 別働隊を率いていた金犬だった。物言いたげに目を据わらせてこちらを見つめている。尻尾が一瞬ぴくんと震えたが、左右に振るまでは至らない。
「何だ。今回も私に乗ってもらえなくて拗ねているのか。仕方ないだろう。お前よりシリウスの方が大きいんだから、機動力の差だ」
 軽く手招きをしても、ふいっと顔を逸らしてしまう。誰よりもアメティストスに認めたがっているのがこの犬だった。自分の役割は理解しているのだが、肝心なところで側を離れなければならないのが不満なようである。しかしアメティストスとて彼の扱い方は分かっていた。
「……可愛くないな」
 試しにぽそりと呟くと、案の定、弾かれたようにこちらを向き、嫌われた?嫌われた?と言いたげにうろうろと左右に歩き回り始める。素直に近寄ってこないのは、主人の真意を確かめるのが怖いからなのだろうか。恐る恐る伺うような視線に苦笑してしまう。
「いいからこい。労ってやるから」
 構って欲しいのなら最初から飛びついてくればいいのに、手間のかかる奴だ。慌てて擦り寄ってきた首元を撫でる。普段はひんやりと濡れている茶色い鼻が乾いている事に気付き、アメティストスは眉を寄せた。
「もしや体調が悪いか?」
 そう尋ねながら、カリカリと鼻面を片手で掻いてやる。鼻は犬にとって大切な感覚器官だ。寝ている時は少し乾くものだが、健康な時は自分で舐めて、適度に湿らせているのが普通である。案の定、金犬はべろりと舌を出して満足そうに自分の鼻を舐めた。この様子だとあまり心配する必要はないようだ。
「ん、今度はどうしたシリウス?」
 そうこうしているうちに、いつの間にか輪から外れて周囲を見回っていた黒犬が戻ってきた。袖を噛んで引っ張るので用かあるのだと思い、案内されるまま天幕に向かうと、何やら中が騒がしい。入り口には簡単な柵が張られていたが、既に黒犬が体当たりしたのか木片が飛び散って、中への道が出来ていた。
 船で運ばれてきた奴隷達を押し込んでいた場所だろう。垂れ下がった布をめくって踏み込むと、溢れ出るようにころころと――色取り取りの、もくもくした毛玉が――転がり出てきて、アメティストスをたじろがせた。
「荷は子犬だったか……」
 狭くて遊び足りなかったのだと言わんばかりに、子犬達は足元でわふわふと鼻息荒く走り回っている。小さくて、ほとんど鞠のように真ん丸に見えた。うっかり蹴飛ばしてしまいそうだ。
 成犬達も何事だと寄ってきて、一気に天幕の温度が上昇する。構って構って、遊んで遊んで、と擦り寄ってくる様子はなかなか愛らしいが、夏の暑い最中、この毛皮の量でじゃれつかれるのは幾分しんどい――。

 




「……と言う、暑苦しいながらも非常に満ち足りた夢を見たのだが、目覚めて現実に戻ると、お前ら、単に暑苦しいな」
「あはは、ひでぇ!」
 寝癖のついた髪を掻き上げ、不機嫌そうに話し続けていたアメティストスがそう締めくくると、シリウスは腹を抱えて爆笑した。
 場所は遠征先の天幕、既に日が昇った時刻である。アメティストスが珍しく起きてくるのが遅いので、オルフ共々心配して様子を見に行ったら、寝ぼけた主人にガッと顔を掴まれ、もしゃもしゃと髪を撫で繰り回された挙句、据わった目で「毛が足りん!」と謎の一喝を受けたのが事の始まりだった。自覚がなかったが、もしや髪が薄くなってきたのでは……と要らない心配をして青ざめたシリウスは、今ではアメティストスの夢の内容を聞いて腹が痛くなるほど笑っている。
 犬の夢を見たのは、多分、こんな季節にも関わらず羊の毛を使った毛布を敷いて寝たせいだろう。アメティストスが面目な顔で淡々と夢の内容を語るものだから、シリウスはおかしくて仕方なかった。馬の世話も率先して行っていたから、元から動物が好きなのだろうとは思っていたが、きりっとした男前な表情で犬の可愛さを語られるとは。
「ひー、もー…おかしー…、もしかして俺ら、犬だった方が待遇がいいんですか?」
「少なくとも可愛げは増す」
「閣下は犬がお好きだったんですね、覚えておきます!」
 オルフが妙なところで興奮しながら握り拳を作った。最初は寝ぼけたアメティストスにもしゃもしゃと撫でられているシリウスの図を、「何だかとんでもない場に居合わせてしまった!」と驚愕の眼差しを向けていたのだが、今では思わぬ発見にほくほくとしているようである。
「あ、閣下。こいつも夢の中と犬っころと同じなんで、拗ねないうちにわしゃわしゃしてやって下さいよ。寝ぼけていたとは言え、俺だけって言うのも不公平でしょ?」
 面白くてそう口を出すと、予想通りにオルフはぎょっと飛び上がった。
「ちょっ、シリウス!?」
「そうか……それもそうだな。よし、こい、オルフ。労ってやろう」
「ええっ、あの、閣下まで!?いやいやいや、いいんんです、そんな、恐れ多い!それに私も髪が短いですし!き、期待されるほどの感触は見込めないでしょうから!」
 真面目な顔でアメティストスも話に乗って両腕を広げたものだから、オルフは目を白黒させた。しかし何だかんだで押し切られ、真っ赤になって髪の毛をもふもふされている。
「手触りはいいが、やはり足りんな。もっとこう、ボリュームがなければ」
「はは。オルフが恥ずかしがるので程々にしてやって下さいね。でも閣下もこんな暑いのに毛布を抱かないと寝付けないなんて、もしかしてお腹が弱くて冷やすと駄目とか、そんな可愛い理由じゃあ――」
 シリウスがそう言いかけると、今度はガッと顎を下から掴まれた。先程までオルフをもふもふしていたはずなのに、その早業ときたら鳥のごとく、ぎりぎりと絞める力は蛇のごとく、である。
「人が良い気分でいる時に、余計な事を言ったのはどの口だ。ん?」
「け、結局犬と同じ扱いじゃないですか、これ!?」
 そんなに地雷発言だったのだろうか。青ざめるシリウスに構わず、アメティストスは薄く唇を吊り上げて、「案ずるな。つまりそれだけお前達を可愛がっているという事だ」と迫力のある微笑を浮かべた。本当かなぁと思うが、犬にしろ何にしろ、オルフ共々、この人には敵わないんだろうなと思う。





END.
(2012.08.09)



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