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 いつの間にか満ちた月が頭上に昇っている。
どれだけ経ったのだろう。背中を大木に預けて容態を見守っていたレオンティウスは、ふと異変に気付いて顔を上げた。
(何の気配だ……?)
 周りの様子がおかしい。全ての音が掻き消えている。風の唸り、草の葉擦れ、自分の呼吸さえも遠い。まるで夢の中のようだ。
 向かいではアメティストスが音もなく寝入っている。憔悴した横顔が薄い月光に晒されていた。長い白銀の髪が、風もないのに小さく揺れる――。
 その時、雲が切れた。
 何かがいる。亡霊か、精霊か。どう言葉を尽くしていいのか分からないが、戦場で鍛えられたレオンティウスの直感が、この場に何者かの気配を悟らせた。
 目に映らない不思議な気配が、アメティストスのすぐ傍らに佇んでいる。じっと目を凝らせば、森の色がうっすらと薄くなっている箇所があった。ちょうど人の形をしている。
 やがて姿なき気配は揺らめいて、そっとアメティストスの髪を撫でた。紫交じりの三つ編みが宙に持ち上がる。そしてそのまま、ゆっくりとほぐされていった。
「……な……」
 熱にうなされたまま、眠るアメティストスが呻く。
「行くな……っ」
 そんな彼の髪を再び見えない手が撫でる。きつく編まれた一房が、時間を巻き戻すように、堅く繋いだ手を放すように、ゆるゆるとほぐれ、紫の色を薄く、淡く、静かに純白に――流していく。
 儀式めいたこの現象が何を表わしているのか、レオンティウスには分からない。しかし名のある叙情詩の一場面のように美しく、どこか寂しい光景だった。
 青年を象徴する死色の紫が徐々に薄れていく。解かれていく三つ編みの柔らかな波模様が、風にそよいだ。
「ミラ……?」
 その時どうして女神の名を呼んだのか、レオンティウス自身でもはっきりとしない。ただ自分達をイーリオンの戦場から連れ出した力と同質の、捩れた糸を解きほぐす不思議な慈しみを感じたのだ。幻聴だろうか。ひたひたと、星明りの中を水が波打つ音が聞こえ始める。
 呟いたレオンティウスの言葉に応えるように、その気配はそっと掻き消えた。清らかな花の香りが宙に漂ったが、それもすぐに散ってしまう。
「ミ……シャ……!」
 追うようにアメティストスが声を絞り出し、両腕を伸ばした。眠りから覚めたのか目を開けてはいたが、視線は天を仰ぎ、縋るものを探している。彼の髪はすっかり銀一色に変わっていた。堪らず、レオンティウスはその手を掴む。
「落ち着け。どうしたのだ」
 青年の腕がびくりと跳ねる。疲れきり、老いた表情が乱れた髪の合間から覗いた。やがて押し殺すような叫びの中から、悲嘆と呪詛とが飛び散っていく。
「もう、自由にと、そう……」 
 解かれた自らの銀髪を確かめ、彼は唇を歪めた。
「憎しみを今更、捨てるなど……!」
 何と言葉を掛ければいいのか分からず、レオンティウスは掴んだままの手首を下ろす。先程の現象が何だったのか、切れ切れに漏れる言葉は要領を得ない。だが恥も外聞も忘れて衝撃に耐える彼の表情が、大きな意味を持っている事は分かる。アメティストスは半ば独り言のように呻いた。
「あのまま死ねば、ミーシャの元に逝けただろうか」
「……止せ。そのような事を言うものではない」
「では教えろ、どう立てばいいのだ。憎むなと言われた所で、もう……復讐は、為されなければ……!」
 暗い自嘲を振り切るように、アメティストスは声を詰まらせて吠えた。形振り構わぬ慟哭に胸を突かれ、レオンティウスは押し黙る。彼の抱え込んできた悲嘆の本質にやっと触れた気がした。
(彼もずっと独り、苦しんできたのだろうか)
 その悲しみに覚えがあった。敵として再会した以上、和解など傲慢な期待でしかなかったのかもしれない。それでも、こうして打ちひしがれる彼の姿に、やはり捨て置けない、と思った。
「アメティストス。過去、運命の女神は我らを引き離した。だが今は違う。侘しい憎悪の為だけに生きるな。お前から手を伸ばす事が出来ぬなら、私が何度でも手繰り寄せるから」
 握った手を胸の高さにまで引き上げる。彼に道を示す事で、神託に流されるまま罪を重ねた自らの償いになればいい。
「お前はもう、救われていいのだ」
 聴き覚えのない異国語を耳にしたようにアメティストスが動きを止める。厳粛な沈黙の後、薄い水晶の瞳は揺らぎ、やがて何かを噛み殺すように硬く閉じられた。
 手が、握り返される事はない。そう容易いものではない。
 しかし振り払われぬまま預けられる彼の手に、これまで擦れ違うしかなかった互いの道が、ようやく触れ合う音がした。


 姿を消していた英雄達が、風の都に舞い戻ったのは更に五日後の事である。混乱していた戦場に休戦を告げた後、アルカディア獅子王は講和会議の場を設け、無血の話し合いを望んだ。
 いくら引き裂かれようが、人と人は出会う。時代はまた、別の方向へ進もうとしている。



END.
(2012.04.02)
和解エンド。レオエレアンソロジーに寄稿した小説のアレンジ版です。CP要素を減らして加筆修正しました。この続編がオフ本『雲を掴む民』になります。


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