2






 そうして三度、太陽と月が頭上で入れ替わった。
 昼は渓流に沿って歩き、夜は交わす言葉もなく眠る。長い沈黙が耳に痛くとも、実りある会話を今の自分達が出来るとも思えなかった。
 やがて憔悴しきったアメティストスの眼差しに、気だるい憂いが垣間見えるようになる。既に感情らしい感情を放棄したのか、無言で押し黙る表情は、不穏なほど追い詰められて見えた。
 何を考えているのだろう。抵抗もほとんどなくなり、深い沈黙を身にまとって彼は殻に閉じこもり続けた。
「いい加減、何か話してくれないか。お前の不幸、少しは償わせて欲しい」
「……笑わせる」
 焚き火に照らされた口元が小さく動く。向かい合ってはいるものの、木にもたれて緩く首を傾けるアメティストスの声は、どこか遠い木霊のように冷ややかだった。
「どこまでも甘い王だな。実は肉親だったからと言って、貴様は逆賊を無条件に生かすのか?」
 痛い所を突かれて口を噤む。顔を曇らせたレオンティウスの変化に気付き、相手は忌々しげに目を細めた。
「貴様だって分かっているはずだ。早く殺せばいい。今更になって奇麗事を押し付けるな。兄弟だという理由で簡単に許せるなら、こちらも、最初から剣を取ったりはしなかった」
 ひんやりした風が吹く。自分達の救いようのなさを、美しすぎる星明かりがはっきりと浮かび上がらせているようだった。その輪郭の、何と言う侘しさだろう。
(……嗚呼そうか。もう彼は私の弟ではないのだ)
 物悲しくレオンティウスは悟る。眼前にいるのは自分とは全く別の運命を生き、世界を呪った気高い一人の青年。肉親だからと言う理由だけで手繰り寄せられるほど、自分達の距離は近くない。
 それを知って落胆する反面、何故か、密かな安堵が込み上げた。異母兄スコルピオスを殺さねばならなかったアルカディア王にとって、兄弟という言葉は一種の呪縛に似ている。血縁の情に頼れないと知った今、他の言葉を探す方が余程健全な手段に思えた。
「そうだな、すまない……不用意な事を言ってしまった。ただ、私はお前の話を聴きたかったのだ」
「………」
「どう生きてきた、アメティストス。祖国を恨み、剣を取って、何をしようとした?」
 彼に謝らねばならない。それは分かるのに、許されようと言葉を選ぶ事の、何と言う軽薄さだろう。だがそんな心の声に構わず口は止まらなかった。
「知りたい、お前を」
 熱っぽく語った頬を夜気が撫でていく。アメティストスは長らく無言だった。硬質な紫水晶の瞳の中、焚き火の明かりがちらちらと燃えている。やがて青年は目を逸らし、細く唸った。
「……貴様は、憎悪すら奪おうと言うのか」
 ふざけるなと低く言い放ち、苛立たしげに眠りにつく。歩みようがないのだと忠告するように焚き火の枝が大きく爆ぜ、レオンティウスは目を伏せた。
 だが、ここには二人しかいないのだ。朝になれば、光は慈愛に満ちて森に降り注ぐ。太陽によって辺りの景色が一変すると、二人を隔てた焚き火は単なる灰に変わった。
 道を歩けど、終わりは見えない。鳥の囀りが耳に優しい中、負傷した青年を背負い、レオンティウスは自身の過去をひたすら語りながら歩いた。
「いい加減にしろ。やかましい」
「気にするな。独り言だ」
 不機嫌な背中の声を軽く受け流し、レオンティウスは話を続ける。少なくとも声を出せば耳に届くだろう。相槌など一切なくとも、アメティストスがこちらの独白を聞き取ってくれると信じるしかなかった。
 許して欲しいなど、白々しい言葉は口に出せない。歩み寄る為に必要な手段がないのなら、無様だろうが何だろうが、思ったままを語るしかなかった。
おそらくこれも自分の傲慢なのだろう。しかし無遠慮に語り掛ける愚かさよりも、罪悪感に負けて努力を怠る事の方がレオンティウスには罪深く思えたのである。だからこそ一方的でも話し続けた。
 雷神の力と共に得たもの、あるいは失ったもの。出来の良い異母兄に対する劣等感と、死んだと聞かされた双子の弟妹。初陣で人を斬った時のざわめく恐怖と高揚感。東方遠征での目まぐるしい日々。父王が死に、王位継承戦争が始まった際の途方もない覚悟――。
「私は王子として生まれ、戦場で生き、やがて王として死ぬだろう。父や祖父がそうして誇り高く国の礎を築いたように。だが、同じ血を分けながらお前は全く別の運命を歩んだ。それが何か、不思議な心地がする」
 レオンティウスは自らの半生を振り返り、小さく自嘲した。思い返せば幾つも選択肢はあったのに、辿り着いたのは悲劇ばかりではないか。
「反吐が出るな……同情か?」
 背後からの侮蔑に、緩く首を振る。
「違う。ただ、弟妹が生まれて私は本当に嬉しかったのだ。そのせいだろうか。お前の人生は、どうしてか私の人生であるように思えて息苦しい。運命に流されるまま抗うことなく進んできた自身の過ちを、まざまざと見せ付けられている気になる。これが自分の責務だと思い込み、単に楽な道を選び続けてきただけではないかと」
 無責任だと知りながら、告げずにはいられない。
「守れなくてすまなかった。出来るならお前と共に、生きてみたかったな」
「……欺瞞だ」
 背中の声は尚も険しい。どういう表情をしているのか気になったが、それを確かめるのは怖かった。
「貴様のような軟弱な王を持つとは、アルカディアも不幸だ。仮に我らが共に育っていたとして――」
 そこでアメティストスは不自然に言葉を切った。いくら待てども続きを語る様子はない。口にしかけて飲み込んだその仮定の人生が、何かしら彼にとって重要な意味を持っているのかもしれなかった。
(もし、共に育っていたら)
 レオンティウスも思いを馳せる。現実味のない夢物語だからこそ、それは痛みと共に胸に沁みた。


 ぽつりぽつりと会話が増え始めた。
 とは言え、肉に火が通っていないとか、ぬかるんだ道は嫌だとか、その程度である。
 しかし今まで無視を決め込んでいた青年が、何かの拍子に思いがけず返答を寄せる瞬間、レオンティウスの胸は静かな喜びに震えた。憎しみのくすぶる鋭利な声音に、自分が許された訳ではないと分かってはいたが、少なくとも言葉を交わす気はあるのだと。
 思えば、レオンティウスの半生は運命との共生にあった。紡がれた糸を引き受け、それに相応しい自分を作り上げる事に心血を注がねば、彼はアルカディア王として毅然と叙事詩に歌われる事はなかっただろう。しかし現在こうして敵将と道中を共にしていると、もつれ合った糸が静かに解け、新たな物語を穏やかに紡いでいる気がしてならなかった。
「……どこまで続くんだ。この谷は」
 岩場に座っていたアメティストスが呟く。彼の掠れた声は周りの水音に吸い込まれ聞き取りづらい。渓流に住み着く沢蟹を取っていたレオンティウスは、水に浸した足で石を退かし、真摯に顔を上げた。
「どうなのだろう。このような谷がアナトリアの地形図にあったか私も疑問だな。時折、もう用なしだとギリシャの地から投げ出されたのではないかと思う。どうする、私達は遂に神から見放されたのかもしれないぞ」
「結構な事だ」
 うっすらとアメティストスは口の端を上げる。どこか別の事を考えるような眼差しで顔を背ける瞬間、その颯爽とした仕草に彼の人間味が垣間見られた。彼が兵に慕われるのが分かる。レオンティウスはその姿に、やはりどこか眩しいような気持ちになるのだった。もしも彼が味方であったならば、どれだけの戦力になるだろう。
 そうして果てがない道を進む事も苦ではなくなり、むしろ自分たちに必要な時間なのではと思われた六日目の朝、事態は急変した。
 無理な移動が祟ったのだろう。アメティストスの容態が悪化し、朝になっても目を覚まさなかったのである。レオンティウスは慌てて看病に当たった。
「生きているか?」
 傷に薬草を貼り、布を巻き変える。水で冷やした布を火照る額に当てると一度だけ瞼を震わせたが、それきり反応はない。死人のようだと不吉な連想をし、レオンティウスは首を振った。
(死なせるものか)
 ろくに理解も出来ぬまま、掌から零れ落ちていくものを看取るのは、もう。






TopMainMoira



「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -