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 ギリシャ同盟軍と異民族との大戦は、風の都を舞台に、大将同士の一騎打ちによって終結を迎えるかに思われた。
 紫眼の狼と獅子王との、踊るがごとき鮮やかな剣舞。歌うがごとき猛き雄叫び。飛び出したアルカディア王妃が両者を止めなければ、二匹の獣は互いの命が絶えるまで獰猛な牙を収めなかっただろう。
 絡み合うように三者が対峙し合い、叙事詩が悲劇で幕を降ろそうとした刹那――彼らを襲ったのは、太陽が落ちてきたと錯覚するほどの眩い閃光。
 決戦の野を包み込んで広がる光は予知できぬ天災であり、戦いを見守っていた両軍の兵達は、突然の変事に唖然とするしかなかったと言う。
 白い光が晴れた後、救出されたのはアルカディア王妃のみ。そして何者に連れ去られたように、二人の英雄は忽然と姿を消していたのだった。

 * * *   

 目覚めると峡谷の底に倒れていた。
 冥府へと続く道程か、あるいは大地の割れ目に突き落とされたか。そう疑わずにはいられぬ程、荒く険しい断崖が左右に聳えている。しかし谷底には穏やかな渓流が走り、頭上では緑の梢が囁くように響いていた。
(……何故こんな所に?)
 体の節々が軋んでいる。レオンティウスは細長い空を見上げ、何が起こったのかと自問した。
 イーリオンの城砦を前に、蛮族に加担した奴隷部隊と雌雄を決した記憶は、ある。紫眼の狼と剣を交え、母を庇って槍を掲げた――それから先は?
 時間はそう経っていないだろう。だが見知らぬ場所に自分が倒れている説明がつかず、レオンティウスは困惑を隠せぬまま眉を寄せた。まるで一瞬にして別の場所に飛ばされたようだ。
 かつて神々の加護を得た者は、その慈悲により死地から連れ出され、命を救われたのだと寝物語で聞いた事がある。まさか同じ奇跡が起こったのだろうか。
(ブロンディス……それとも他の神が?)
 首を傾げざるを得なかったが、ともかく現状を把握しなければならない。脇腹が酷く痛んだが、幸い身体は無事だった。骨も折れていない。どこで落としてしまったのか雷槍はなくなっていた。己を証明する武具をなくした事は大きな衝撃だったが、諦めて予備の短刀を腰に差しなおす。次にレオンティウスは周囲を見渡し、僅かに顔を強張らせた。
「……アメティストス」
 少し離れた渓流の傍、浅瀬の茂みに半ば埋もれ、倒れている青年の姿がある。打ち捨てられた彫像のように、長い銀髪の中程までが水に浸って揺らいでいた。木漏れ日と共に茂みの葉が数枚落ちて、生気のない顔を緑で彩っている。
 命に別状はないが傷は浅くないようだ。屈み込んで様子を見ると、肩口から血が滲んでいる事が分かる。傷は深く、片足が腫れ上がっているのは骨が折れたせいだろう。黒い双剣も持っていない。
 彼は敵将だ。無抵抗とは言え、今後も立ちふさがる獣の息を止めなければならない。長年戦場に身を置いた習慣でレオンティウスは短刀を構え、青白い喉元に刃先を押し当てた。
 しかし刃を構えたまま、動けない。母が口走った台詞が耳の奥で幾度も反復された。
(弟――)
 しばらくの間、言葉にならない葛藤があった。異母兄を殺して玉座についた身だと言うのに、今になって肉親を手に掛けるのが怖いかと、苦い自嘲さえ湧く。
(殺せるはずだ、私なら)
 だが不用意に動けば、見えない糸に引きずり込まれるのではないかという妄想じみた恐怖と共に、胸中でせめぎ合ったのは、一度だけ目にした赤ん坊の姿。新しい弟妹だと母が教えてくれた、幼い日の幸福な憧憬。
 とうに死んだと聞かされた、あの赤子が生きていたのだ。今、ここに。
 微かに眩暈がする。鼓動がうるさい。掌に滲んだ汗が短刀の柄を汚す。
「……駄目だ」
 呟いた声が自分でも驚くほど掠れていた。一度息が漏れると力が入らなくなる。レオンティウスは短刀を腰に戻し、疲れたように息を吐いた。

 * * *   

 我が身に流れるブロンディスの力を具現化させる雷槍があれば、稲妻を放って合図を送ることも出来る。しかしそれを失くした今、彼は一介の人間に過ぎなかった。自力で何とかせねばならない。そのうち部下達が探し当ててくれるかもしれないが、考慮した結果、レオンティウスは外への道を探し出す事に決めた。
 野生の獣がいるかもしれない。意識のないアメティストスを置いていく事は躊躇われた。仕方なしに自らの外衣を破り取って即席の手当てを施すと、ぐったりとした体を背に担ぎ上げ、峡谷の中を歩き出す。
 森は朝靄の中にあった。白み始めた明るさが空から星を奪っても、陽はまだ谷底まで届かない。本来なら肌寒いはずの空気に、発熱するアメティストスが伝える背中ばかりが熱かった。
(まさか、このまま死ぬのではないか)
 不安に駆られて先を急ぐ。狭い道筋は渓流と共に奥へと続いていた。どこに出るのか分からないが、岸壁を登るよりはましだろう。落葉樹と常緑樹が織り成す林の中を、レオンティウスはひたすら進んでいった。
 歩くにつれて踏みしめる草から清々しい匂いが立ち上り、やがて光が木々を照らし始める。アナトリアに来てからというもの焼けた大地の匂いしか感じなかったが、この峡谷は恵み豊かなアルカディアの山野を思い起こさせた。
 目まぐるしく明け暮れた戦乱に慣れきっていた為か、こうして突如静寂に投げ出されてしまうと途方に暮れる。無心に足を動かし、ずり落ちる青年の体を何度か背負いなおして、レオンティウスは目の前に展開される自然の美しい表情に見入っていた。
 幼い頃、こうして山を彷徨った事がある。父の命で鹿を狩りに行った時だ。その時はまだ成人もしていない頃で、山中を駆ける心細さよりも一人きりになれた事を安堵していたように思う。
「……っ止ま、れ」
 どのくらい時間が経っただろう。耳元で唸るような恫喝が響き、背が揺れた。
「何故、貴様が……何がどうなっている?」
 どさりと鈍い音が鳴る。目覚めた狼が乱暴に腕を薙ぎ払ったのだ。レオンティウスは突き飛ばされ、衰弱している上に片足が折れているアメティストスも、続けて腐葉土の上に崩れ落ちた。
「落ち着け、私にも状況が分からないのだ。とにかく人のいる場所まで出ようとしている」
 手早く説明しても聞いているのかいないのか、据わった紫水晶は険しくこちらを見定めているばかりだった。歯を食いしばって立ち上がろうとしても、ぎこちない動作は彼の負傷を物語って苦しげである。這いつくばるように低めた姿勢はぐらぐらと頼りない。
「あまり動くな。傷に障るぞ」
「触るな!」
 見かねて手を差し伸べれば、叩き斬るように振り払われた。仕草に覇気はないが、瞳だけが煌々と底光りしている。憎悪に染まる彼の顔立ちは確かに若き父王の姿絵と似ているが、血の繋がっている実感は湧いてこない。そのまま彼はレオンティウスに掴み掛かかり、勢いのまま頬を殴って地面に押し倒してきた。
「ぐ……!」
 髪を引きずり上げられ、次いで顔を地面に叩きつけられる。衝撃でレオンティウスは軽く呻いたが、思ったほどの痛みはない。手当てしたはずの相手の肩口から、再び血が滲み出しているのが見えた。
「情けなどいらん、目障りだ。貴様に助けられるくらいなら、いっそ朽ちてしまった方が……!」
 苦渋に満ちた声が吐き捨てる。しかし血を流しすぎたのか、ぐらりと相手は気を失ってしまった。
 同じ武人だ。私怨ある敵の手に落ちた屈辱は理解できる。頬を拭って体の下から這い出ると、どう扱うべきか図りかねてレオンティウスは目を伏せた。
 手負いの獣を前に込み上げてきたのは、身を切るような物悲しさでしかない。アメティストスは幾度か失神と覚醒を繰り返し、その度に勝算もなく暴れかかった。それを辛抱強く宥めすかし、時には手荒に押さえ込んで、どうにか連れて行く事しか出来ない。次第に打撲の痕が増えていく。
(こうまでして何故、捨て置けないのだろう)
 レオンティウスは自分でも不思議に思った。本当は殺してしまうべきなのだ。相手の尊厳を重んじる上でも、それが一番正しい道なのだろう。
(また私に兄弟を殺せと、そう言うのか)
 だが決意するたび苦い感傷が湧き上がる。王として他の選択肢を斬り捨てながら、ここまで来た。神託に導かれるようにして乗り越えた業の壁を、もう一度登れる気はしない。殺す決断も出来ず、どこにも立ち行かなくなる未熟な感情が歯がゆかった。
(ああ……本当に、私は甘い)
 だが今更、捨て置けない。生きあがく命の熱い重みが背にあって、うなされるアメティストスの苦しい吐息や髪の感触が、何故かひどく眩しかった。生まれたばかりの双子を見た幼い日の喜びが、今になって懐かしいだけなのかもしれない。
 そうして幾らも進まないうちに日が暮れていく。
 野営の準備をしなければならなかった。狩りの腕には自信があるが、自ら煮炊きをするには知識が足りない。しかし運良く山菜を見つけられ、更に太ったヤマウズラを狩る事も出来た。こうも都合よく食事にありつけるとは、やはり神が味方してくれているのかもしれない。レオンティウスは獲物を捧げて祈った後、皮を剥いで火に炙った。
「食欲はあるか?」
 かろうじて意識はあるのか、ぐったりと横たわって浅い息をしているアメティストスに尋ねる。
 反応を返さないのは予想通りだが、明らかに最初よりも弱っていた。喋る気力もないのかもしれない。熱いのか寒いのか、青白い相貌の中で目尻だけが病的に赤かった。目線もはっきりしない。
 水を取らせなければ。
 レオンティウスは躊躇った末、布を渓流に浸し、それを相手の口に含ませた。しかしアメティストスは朦朧としながらも、施しを受けるのも不快とばかりに首を振って吐き出してしまう。
「まさか、そのまま飢えて死ぬつもりか?」
 やはり返事はない。レオンティウスは遣り切れぬ思いで青年を見つめる。もうここは戦場ではないと言うのに、殺し合いを望む紫眼が薄く笑ったように見えた。その頑なさに、苛立ちに似たもどかしさが募る。
(そうまでして憎み合わなければならないのか)
 懲りず、もう一度布に水を含ませ、アメティストスの歯に指を差し入れた。無理に口をこじ開けさせる。弱々しい抵抗を適当にあしらいながら、顎を押さえ込んで布を押し当てると、絞れるほどの水が零れ落ちた。
「ぐ……!」
 びくりと指の先を震わせて、相手はそれを吐き出そうとする。レオンティウスは相手の鼻と口を掌で覆った。呼吸が出来ず、飲み干す事を余儀なくされたアメティストスの瞳が、再び強く燃え上がるのが見える。
「食料があるのに飢えるなど馬鹿げている。そのような惨めな死を与えるほど、私は恥知らずではない」
 飲み込むのを見届け、レオンティウスは言い放った。
「死を願うならばイーリオンに戻ってからにしろ。もう一度勝負をやりなおす事になるまでは、武人の誇りにかけて、お前を死なせはしない」
「……貴様……!」
 呪うような悪態を綺麗に無視し、レオンティウスは再び布を相手の口に押し込んだ。尚も抵抗はあったが、意地になって揉みあえば勝利は容易い。乾いて荒れた相手の唇はひどく鈍かったのだ。
「くそ」
 むせて汚れた口元を拭い、アメティストスは顔を背けて唇を噛んだ。その暗い横顔に、敵の慈悲に生かされるしかない彼の屈辱と絶望が見えた。


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