09









 イサドラは足早に回廊を進みながら、震える喉を必死に押し隠していた。一度でも泣き出すか走り出すかしてしまったら、後ろを付いてくるデルフェナを更に心配させてしまう事になるし、己の甘さを認めるようで苦しかったからである。
 あんな事を聞いて、自分は何を期待していたのだろう。すまなかったとデミトリウスに謝罪して欲しかったのだろうか。あの豪胆王に?
(馬鹿な真似を。そんな事、有り得ないのに。あの人達は戦争だから戦っただけ。それだけなんだわ)
 良い妻はよく待つ事、問わない事、そして男のもたらした悲しみに打ち勝つ事。軍人に嫁いだ時から覚悟していたはずなのに、いざ夫が死んでしまうと気丈に振舞えない自分の弱さが恥ずかしかった。同時に、そんなふうにさせるデミトリウスの情のない態度にも傷ついていた。墓参りを許されたからと言って、形ばかりの慰めを求めるべき相手ではない。彼はアルカディア王であり、侵略者であり、神の眷属なのである。普通の人間らしい対応を期待する方が間違っていたのだ。
「イサドラ様」
 デルフィナを追い越し、ポリュデウケスが声をかける。イサドラは立ち止まりかけたが、足を緩める前に追いつかれた。
「陛下は先程あのように言いましたが、決して我々は――」
「申し訳ありません……今はそっとしておいてください。お願い」
 イサドラが遮るとポリュデウケスは言葉を詰め、ややあって頷いた。今日は外出したのだから早く休む方が良いと一言だけ静かに添えると、形式的に礼を取る。彼の気遣いが胸に痛かった。ポリュデウケスに見送られて自室に戻ると、デルフィナがそっと背中を擦ってくる。
「姫様、もう殿方はいませんから、我慢しなくていいんですよ」
 泣いていいのだと促されたが、巻き起こる気持ちをイサドラは胸の底に押し込んだ。こんな時はかえって優しくされた方が辛い。
(いつまでこうしているんだろう)
 不意に、己の立場が心許なく感じられた。夫の面影にすがり、次はどの男に花嫁として宛がわれるだろうかと覚悟を決め、王の言動に振り回されながら――いつまで縮こまっていなければならないのだろう。
 無意識に窓を見上げた。夜空にはまっさらな月が出ていたが、当然ながら何の答えも返してはくれない。イサドラは恐々と息を吐き、静かな諦観に身を沈めた。



* * * * * * *



 王が大神官と巫女を葬ったと言う話は隠される事なく広まった。しかし、それはあくまでデミトリウス自身が騙った内容――すなわち「神ではなく悪魔が降りてきたので已む無く始末した」との理由で押し切られる事となる。元より人望の薄い大神官であったらしく、神に耳を傾ける修行を怠った末の事なのだろうと誰もが納得した。その呆気なさにデミトリウスはかえって拍子抜けしたほどである。
 しかしそれから数日後、不愉快な知らせが耳に届いた。
 元は有力な将校であったアカイアの残党達が、アルカディアに報復せんと動き始めたと言う。西の湾岸に置いた駐屯地が襲撃されたのだ。からくも撃退に成功したらしいが、それだけで済むとは思わない。残党は襲撃に失敗したと悟ると素早く撤退し、いずこかに姿を消したと言う。
「……臭いな」
 知らせを聞いたデミトリウスは玉座に片肘をつきながら、疑わしげに西の使者に問うた。
「残党狩りが徹底していなかった事は確かだ。こんな事も起こるとは思っていた。しかし、隠れ場所が未だに分からないと言うのはおかしい」
 詳しく聞けば、残党達は嫌に手際よく駐屯地に進入したと言う。アルカディア側で手引きしている者がいるのではないかと彼は勘繰った。
「どうでしょう。どの程度の情報が流れているか分かりませんし、断言はできませんね」
 ポリュデウケスが渋く言い添える。先日の出来事があってから若干デミトリウスに対して冷ややかな面があるが、公私を混同する男ではない為、政務がやり難くなると言う事はない。
「となると、イサドラも危ないな。何せアカイアの真珠だ。反乱の象徴にするには都合のいい存在だろう。近いうちに残党どもの迎えがくるかもしれん」
 無造作にそう言うと、隣でポリュデウケスが苦悶の呻きを漏らした。
「イサドラ様の身柄――私が引き取らせてもらってはいけないでしょうか」
 苦い口調のまま、彼はそう提案した。
「近いうちに貴方にもお伺いを立てるつもりでした。このような事情なら尚の事、私が責任を持って彼女を預かります」
「……あの女に惚れたか、ポリュデウケス?」
 問いながらも、つくづく間の悪い男だなとデミトリウスは思った。例えばこの申し出が数日でも早かったならば、自分は何の躊躇いもなく彼らの婚姻を認め、祝福の一つや二つ述べたかもしれない。イサドラを嫁にどうかと考えた後だっただけに、デミトリウスは出鼻を挫かれた気持ちだった。
「そうは言っておりません。私はただ彼女を安全な場所に――」
「惚れていないのならば、そう突っかかるな。お前も分かっているだろう。今は現状が現状だ。そう簡単に処遇を決める事はできん。このまま王宮に置いた方が監視には向いている」
 意地悪で言っている訳ではないが、監視と言う物騒な言葉にポリュデウケスが更に口元を強張らせるのを見ると、デミトリウスは微かに残酷な喜びを味わった。常に冷静な男が僅かながらも取り乱している様子は一興である。
 しかし、それを面白がる気持ちはすぐに霧散した。それどころか自分一人で抱え込むと決めた神託の件を彼に打ち明けたいと言う気持ちが、ぐんと膨らんだほどである。この情の厚い男に、胸の不安を吐露したいと。デミトリウスはその誘惑に耐えながら、二十年来の付き合いである臣下を無言で見下ろした。
「二人とも、アルカディア側の情報が漏れていると決まった訳ではありませんぞ。イサドラ様の件は尚早ではありませんか」
 同席していたゼノビオスが助け舟を出す。彼は王と息子を等分に見つめたが、後者を見つめる視線はやや痛ましげだった。父親からの提言をポリュデウケスも無視できない。しかし、尚も言い募るだけの男気はあった。
「しかし……イサドラ様を今のまま宮中に置くのも良策とは思えません。既に月日が経っています。いまだに処遇が決まらないのかと我らの動向を怪しんでいる者もいるでしょう。その上、アカイア人が不穏な動きをしていると皆が知るようになれば、彼女の立場も一層悪くなります」
 低い声で畳み掛けるポリュデウケスの声音は、デミトリウスも普段から快く思っている。だが、今回ばかりはその美声も厄介だ。王は気だるく彼を見上げ、ただ首を横に振った。






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