07










 時はそれから少しばかり進む。太陽が海に没していく様子を自室で眺めていたデミトリウスは、急な異変に気付いて身を硬くしていた。
(――くそっ、何だ?)
 ざわりと産毛が逆立ち、耳鳴りが聞こえる。政務が終わって夕飯までゆっくりくつろぐつもりだったのに、唐突に始まった空気の震えに身を休める暇もない。
 デミトリウスはこめかみを押さえ、油断なく背後を振り返った。すぐさま壁に立てかけてある雷槍の様子がおかしいと気付く。
 雷槍は代々王位継承者に受け継がれてきた神器である。人の身で神の力を扱う以上、こうした媒介物がないと力が暴走してしまう可能性が高い。ブロンディス直系の力を安全に体から引き出す為、デミトリウスにも馴染みのものとなっていた。
 その雷槍が、今、僅かに光を放っていた。風が吹けば霞んでしまうほど弱い光であるが、人の鼓動のように明暗を繰り返している。恐々とデミトリウスは槍を手に取り、慎重に様子を確かめた。
 柄にも穂先にも大きな傷はついていない。軽く構えれば、未知の力が槍の中で脈打っているのが分かった。戦場で、王位争いで、自分は幾度この恩恵を受けただろう。
 だが今夜、その力がやけに不安定に感じられた。掌に心臓がもう一つあると錯覚するほど鼓動を打ったかと思えば、ふっと止んでしまう。かと思えば再び爆発的な光を放つ。それはあたかも何かを警告しているようだった。デミトリウスは精神を集中させて雷槍の告げる物を読み取ろうとしたが、それは霧を掴むように一瞬で立ち消えてしまい、青白い光も徐々に薄れていった。
「……何だったんだ」
 呟いた所で返事が返ってくる訳もない。思い悩んだ彼は雷槍を持ち、神域へと足を運ぶ事にした。
 本当ならば雷神殿に行くべきだろうが、属領になったばかりのアカイアには雷神を祭る神殿が建てられていない。いまだ建設に向けて人員が集められている段階だ。その為、神託を受けるにも他の神々を祭る神殿を間借りする形となる。デミトリウスがその夜訪れたのは、小高い丘の上にある太陽神の神殿で、振り返れば夜に沈んだ黒い海と街が睥睨できる場所に建てられていた。
 神殿に詰める僧達も大半がアカイア人だったが、本国からやってきたアルカディア人の神官が彼らをまとめる任に就いている。デミトリウスが赴くと大神官は「王が一人でいらっしゃるとは珍しい」と大仰に眺めやり、意味深に笑った。
 デミトリウスは神殿の人間が好きではない。神の権威をさも己の力のように見せ、悪戯に事を大きくするばかりか、傲慢な振る舞いをしても許されると高を括った連中が多いからだった。巫女として招き入れた若い娘に手を出すような、好色な輩もいると聞いている。いずれ神託と称して、自分達に都合の良い御託を何食わぬ顔で告げてくる事もあるのではないかと、デミトリウスは前々から疑っていた。
 しかし、ここでは王権も通用しない。王族もまた神々の前では教えを乞うべき死せる種族に違いないのだ。デミトリウスは嫌悪感を押し殺し、大人しく神託所へと進んだ。
 大神官に先導されて花崗岩の床を進むと、天井のない部屋に出た。中央に一人の若い巫女が椅子に座っている。部屋の四方には香草が焚かれており、娘は既に瞑想状態になっているようだった。夜空に向かって紫紺の煙がたなびいていく。デミトリウスは巫女の真向かいに跪き、雷槍の異変について尋ねた。
 娘は虚ろな目でこちらの声を聞いていたが、突如立ち上がると、天に吼えるような口調で叫んだ。
『――全ての暗い予兆が始まろうとしている』
 デミトリウスは目を細める。娘の口調はひび割れた鐘のように幾重にも喉の奥で反響し、人ではない何かが入り込んだ事を示していた。しかし、聞き慣れたブロンディスの声ではない。
(一体どの神が入り込んだ?それとも神官に何か吹き込まれた娘の狂言か?)
 警戒しながら、注意深く巫女を見つめた。元は美しい女のようだが、ゆらゆらと左右に体を揺する姿は冥府に巣食う不吉な幽鬼のようにも見える。
『この地から、神の楔が抜けようとしている。守りは消え、幾千の太陽と月が巡るうち、雷は途切れ、直系の血族は失われるだろう』
 デミトリウスはぞくりとした。この巫女は今、アルカディアの滅亡を告げようとしているのだ。
『王の子は残らず呪われる。一人は父の力を奪い、一人は欺き、一人は自らが――』
 これ以上、言わせてはならない。
 全ては咄嗟の行動だった。神託が全て下りきる前にデミトリウスは槍を手に取り、巫女の喉を槍先で薙ぐと、迸る血と共に忌まわしい神の言葉を遮ったのである。
「何をなさる!」
 大神官が悲鳴を上げたが、構わなかった。この神託を外に出す訳にはいかない。ここで全て痕跡を消してしまわなければと、続いて神官に穂先を向けた。神域で殺人を犯してはならないと言う規約があったが、だからと言って国が滅ぶ不吉な予言を、おめおめと持ち帰る気はない。知りもしない未来の我が子の事まで告げられたとなれば、尚更に受け入れられなかった。皺だらけの醜い顔が歪み、大神官の首がごろりと転がって床に奇妙な絵を描くのを確認すると、彼は反射的に天を仰ぐ。
 じっとりと額が汗ばんでいた。もし自分に罰が下るなら、まさに今だろう。神託を遮り、神域を血で汚したのだ。幼い頃から飽きるほど聞いた伝説の王のように、神の怒りを買って四肢が弾け飛んでもおかしくない。叫び出したい程の恐怖が彼を襲った。
 しかし待てども雷が落ちる気配はなく、夜空はどこまでも深く晴れ渡っている。デミトリウスはしばらく佇んでいたが、はっ、と乾いた笑いを零して顔を歪めた。
(見逃されたのか?)
 思い当たる事は一つしかない。途切れた神託ではデミトリウスの子について長々と語り始めていた。それが真実なら、予言の子供達が生まれるまで自分が死ぬ事はないはずだ。
 安堵する以上に、屈辱的だった。これは神の慈悲ではなく、後の悲劇の為の布石だとしたら。
 ――俺は運命の駒にされたのだ。
「これは何事です、陛下!」
 託宣所の異変を感じ取ったのだろう。背後で悲鳴が上がった。振り返ってみると、一人の老いた神官が唖然とした顔で佇んでいる。記憶によれば、鼻持ちならない神官連中の中では唯一まともな男だったはずだ。以前も思慮深い助言をしてくれた事がある。
「ブロンディスの裁きだよ、ご老体」
 槍を振って血飛沫を払うと、点々と床に新たな模様が描かれた。デミトリウスはすさんだ笑みで口元を飾る。衝撃で胸が揺らぐ今ならば、平静を装う為にどんな突飛な台詞でも手当たりしだいに言えそうだった。
「何の事はない。今日は神ではなく、悪魔が巫女に乗り移ったのだ。故に、下らぬ戯言よと切り捨てたまでの事」
「まさか……神託を……なかった事にするおつもりで?」
 やはり賢い男だ。周囲の状況と王の言葉を総合して真実を悟ったのだろう。デミトリウスは彼を見込み、半ば自棄になりながら語りかけた。それは自分を励ます意味合いも持っている。
「聞く者がいないのなら、言葉は最初から告げられなかったと同じ。さすがに俺も自分の首を跳ねはしないがな……。全ての言葉が下りきった訳ではない。正式な予言ではない以上、実現はさせない」
「それほど不吉な御告げだったと?」
「聞けば、お前も殺さなくてはならなくなるぞ」
 そう脅され、老人も疑問を引っ込めざるを得なかったようだ。死んだ大神官に代わって神殿を治めるように命じると、デミトリウスは額の汗をゆっくりと拭う。
 咄嗟に不吉な神託を遮るとは、思った以上に自分はアルカディアを愛しているらしい。あるいは子供が目を塞いで知らぬふりをしているようなもので、単純に怯えているだけかもしれないが。
「……神域を汚した罪は、いずれ我が身で贖う日がくるだろう。しかし、まだ先の事だ。どうやら子を授かるまで俺は生かされるようだから」
 それ以上は言葉が尽き、喉がつかえたようになった。デミトリウスは老人を一瞥して雷槍を握りなおすと、逃げるように神殿を後にした。







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