05










 突然の訪問者に驚いたのは勿論アカイアの真珠こと、イサドラである。
 なにせデルフィナも出払い、一人静かに本を読んでいたところ、二ヶ月前に一度見たばかりの王が現れたのだ。慌てて椅子から立ち上がったものの、驚きのあまり声の一つも出せない。
「少し邪魔をするぞ」
 イサドラの様子に構う事なく、デミトリウスは悠然と来客用の寝椅子に座った。疲れを逃がすように息を吐いて足を組み、佇んだままの幼い寡婦をちらりと見遣ると、薄く口の端を上げる。
「本当はゆっくり風呂でも入りたかったのだがな、成り行きでこうなったのだ。ゼノビオスに言った手前、しばらくは出られん。少し休ませろ」
 王らしい、不遜な物言いだった。しかし人に命じる事に慣れた口調は嫌味なく、ごく当然と言わんばかりに話しかけてくる。その存在感にイサドラは圧倒された。
 ポリュデウケスとの会談によってアルカディアに対する憎悪は薄まってきている。しかし屈強な王の姿を前に、故国が陥落した夜の心細さと、組み敷かれた体の怯えが再び湧き上がってくるのはどうしようもなかった。身を庇うように胸の前で手を握り、静かに瞳を翳らせる。
 本当のところ、デミトリウスとて彼女の事など今まですっかり忘れていたのだ。多忙のせいと言うより単に興味が薄れたからであり、こうした機会がなければ部下に処置を任せたまま忘却の彼方へ捨て去っていただろう。昼の光の中で見るイサドラは美しかったが、相変わらず顔を強張らせ、狩人に追い詰められた兎のように見えた。
「……このように突然いらっしゃっても、何のお持てなしも出来ませんが」
 ようやく何か口を開いたと思えば、暗に退室を促すような事を言う。しかし糸に引かれるように、ぴくりとデミトリウスは眉を上げた。
(やはり悪くない声だ)
 硬く答える少女の声は、華やかな外見とは裏腹に、暗く澄み切って悲壮ですらある。しかし、この柔らかな響きはどうだろう。彼は自らの記憶に間違いがなかった事を知ると再び興味を惹かれ、声を引き出そうと闇雲に尋ねた。
「お前、何か特技はあるか?」
「……特技、ですか?」
 唐突な質問に面食らい、イサドラは小さく眉を寄せる。
「そうだ。踊りとか機織りとか――歌とか、そう言うものだ。あるか?」
「……詩なら、以前少し……」
「そうか。それは好都合だな。さっそく聞かせろ」
 たちまちデミトリウスに笑みが零れる。人好きのする笑顔だった。以前見た不機嫌な表情とあまりに違うのでイサドラは虚を突かれたが、嵐の前触れに訪れる晴天のような物なのかもしれないと気を引き締め直す。何しろ相手は故国を滅ぼした王で、簡単に女を寝台に招ける立場なのだ。
「……貴方の言いなりには、なりませぬ」
「ほう」
 だが頑なな態度を愉快がり、かえってデミトリウスは嬉しそうな顔をする。
「そう警戒せずとも手は出さん。いつ舌を噛まれるか分からん女を相手に、うかうかと接吻も出来やしない」
 俺は暇なんだと彼は言った。
「どうやらお前は思い詰める女のようだ。本当なら一休みしたいところだが、こんな所で寝入って、故国の仇と寝首をかかれては堪らん。ならば芸の一つくらい見せて、俺を楽しませろ」
 どこまでも図々しい申し出だった。反感を覚えたイサドラは押し黙り、小さく唇を噛み締めた。
(どうしよう)
 歯向かったところで勝ち目がある訳でなく、王の不興を買うのも不味い。だがどうしても、この傲慢な男を楽しませる気にはなれなかった。
 黙り込んだイサドラはあれこれ思いを巡らせた結果、一つの案を思いついた。視線を上げ、恐る恐る願い出る。
「分かりました。歌いましょう。ですが……陛下に一つだけお願いがあるのです」
「何だと?」
「旦那様の弔いを、させて下さいませ」
 まさか条件を付けられるとは思っていなかったのだろう。デミトリウスはやや興が冷めたような顔をしたが、イサドラは懸命に後を紡ぎ、彼の反論を封じた。
「聞いて下さい、陛下。私とて捕囚の身ですから、やがて褒美としていずれかの殿方に娶わせられるものと知っております。ですが旦那様の亡骸に手も合わせずに他へ嫁ぐのは……」
「随分と貞淑だな」
 生真面目すぎる寡婦の態度に呆れたようだった。デミトリウスは溜息を吐き、子供に理を諭すように言う。
「いいか。敗戦国の女が戦利品として扱われるのは、ごく当然の慣習だろう。お前が他の男の妻になったからと言って、冥府の夫もそこまで目くじらを立てまい。それとも、そこまで不貞には厳しい男だったのか?」
 イサドラはびっくりして首を振った。なんて失礼な事を言うのだろう。
「いいえ、とんでもない!旦那様はお優しい方でしたわ」
「では何故そう拘る?」
 頬杖の中に首を沈め、心底不思議そうにデミトリウスは尋ねる。
「俺と直々に取引できるなんて、そう滅多にないぞ。金でも宝石でも、お前の為に宮殿を一つ用意する事も出来る。それをわざわざ死んだ男に侘びを入れる為に使うとは、機会を棒に振るようなものだ」
「これは私の、心持ちの問題ですので……」
「つくづく面倒な女だな」
 畳み掛ける言葉にイサドラが怯みながら答えると、デミトリウスは緩く首を傾け、厄介そうに目を眇めた。
「まあいい。夫の名は?」
「はい、あの、ブラシダス様です!」
「……ブラシダス、か。奴なら確か国葬されたはずだ。一応の弔いは済ませてあるが」
 デミトリウスは視線を遠くにやり、何事か思案するような様子を見せる。だが頭を軽く振ると、期待と不安でやきもきしているイサドラに言い捨てた。
「いいだろう。後で話を通しておく。亡夫を偲んで墓参りでもしてくるがいい」
「っ、ありがとうございます!」
 イサドラは声を弾ませた。駄目で元々と思っていた手前、願いを受け入れられた喜びが一層強く湧き上がってくる。他の男に嫁ぐのは仕方ないと諦めていたが、これで少しは胸も晴れるだろう。
「では約束だ。歌え」
「ええ、勿論です。何にしましょうか?」
 胸の前に置いていた手を握り直し、いそいそとイサドラは歌う姿勢を取る。その素直な変りようにデミトリウスは餌を貰おうと尻尾を振る犬の姿を思い出したが、皮肉を言うのも面倒になり、苦笑を漏らすだけに留めた。
「何でもいい。得意なものを」
「では……」
 すう、と息を吸い込む。しなやかに背筋を伸ばしたイサドラが握り締めた両手を静かに広げると、やがて唇から、艶やかな第一声が解き放たれた。
 それは海の神を讃える詩の一つだった。竪琴の伴奏もなしに歌うので最初こそ彼女は居心地が悪そうにしていたが、しばらくすると安定し、切々と声を響かせ始める。デミトリウスは目を瞑り、満足げに呟いた。
「――うん、いいな」
 声量自体は大した物ではない。だが鼻から抜ける母音が驚くほど美しく、豊かな響きを持っていた。そのせいか目を閉じていても、耳元で川が流れているような心地がする。疲れた頭にはちょうど良い声音だった。このまま寝入ってしまえば良い夢が見れそうだと、思わずうとうとしてしまう。
 イサドラが歌い終わると、デミトリウスは緩慢に瞬いて「ご苦労」と一言ねぎらった。
「いい声だな。眠くなった」
「……それは誉めて頂けているんでしょうか?」
 眠くなるほど退屈だったのだろうか。これで国王が歌を気に入らなければ、墓参りの約束を取り消しになってしまうかもしれない。しかしイサドラの不安も杞憂だったようで、国王は気だるく目尻を揉みながら「誉めている」と片手を振った。
「まあ、それだけ落ち着いたという事だ。悪くない」
「では?」
「ああ。お前の世話役はポリュデウケスだったな。あいつを護衛につけよう。好きな日に行って来ればいい」
 デミトリウスは欠伸をすると、のっそりと寝椅子から立ち上がった。ひとまず気は済んだのだろう。体の間接を伸ばしながら扉に向かい、イサドラの隣を呆気なく通り過ぎて行く。彼女は慌てて頭を下げ、国王の退室を見送った。
 こうして彼ら二度目の邂逅は、一曲ぶんの長さで終わったのである。









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