01










 かつてぺルポネソス半島北部には、アカイアと呼ばれる地があった。テッサリアから南下した人々と、海から流れ着いた移民が住み着いた新興地であり、他の伝統的なギリシャの王国と違って国家神を持たぬ共和制の国である。海に面した港町を懐に持ち、数々の船が立ち寄って国を栄えさせた。
 僅か十五歳だった当時のイサドラは、父ほどに年の離れたアカイアの領主ブラシダスと婚儀を挙げた。貴族同士の政略結婚であったが、既に二人の妻を持つ彼は堂々とした人格者であり、人々の尊敬に値する人物であったとされる。最初は年の離れた婚姻を不安に思っていたイサドラも、彼の聡明な人柄に安らぎを得て穏やかな生活を送っていた。
「しかしイサドラ様を愛妾にとは、ご領主様も罪なお方です。他の奥方が二人もいらっしゃるのに、アカイアの真珠と呼ばれる姫様を娶るだなんて、贅沢が過ぎますわ」
「ふふ。口が悪いわよ、デルフィナ」
 ぷりぷりと待遇を嘆きながら髪を結い上げてくれる侍女を、幼い花嫁はやんわりたしなめる。デルフィナもまたアカイア人であり、イサドラの侍女として側に仕え、姉妹のように睦まじく彼女の世話を焼いてくれていた。
「旦那様にとって、私は娘のようなものなんだわ。恋とは別物なのかもしれないけれど、彼に嫁げて良かったと思っているの」
 実際にイサドラの生活は満ち足りていた。後の息子であるレオンティウスにも受け継がれた美徳だが、ほがらかで素直な気質の彼女が周りに不満を持つ事は滅多になく、いっそ潔いと思えるほど従順で、常に世界への感謝を忘れなかった。年の割りに大人びた落ち着きが彼女の美しさを更に際立たせ、えも言われぬ立ち姿は、さながらオリンポスから降り立ったムーアの女神のようだと叙情詩に歌われている。
 しかしこの後、古代の粘土板や碑文にアカイアの名が書かれる事はない。一年後に隣国アルカディアとの戦争に敗れ、属州とされたからである。
 ようやく玉座を物にした若きアルカディア国王デミトリウスは、これまでの軍事態勢を一括して改め、軍備の増強を図っている最中であった。古代のギリシャでは馬が貴重であり、かつ高価であることから、騎馬戦力が軍隊の中で重要な役割を果たす事はない。しかしデミトリウスは王宮の宝物を惜しげもなく売り飛ばし、半人半馬の怪獣ケンタウルスが住むとされる豊かな平野のテッサリアから馬を買い取って、城の一角に大厩舎を建てた上、機動力の優れた軽装騎馬隊を作り上げた。こうした彼の戦術を機に、ギリシャでは騎兵の需要が高まる事になるが、それはこの場で特筆すべき事ではない。
 実質の戦闘は四日間だが、アカイア側が受けた被害は甚大だった。アルカディアの騎馬隊による俊敏な展開が見事に功をなし、イサドラの夫であった領主も戦場で首を切り落とされ、あえなく冥府の住人へと相成ったのである。
 悲しむ間もなく、女達は戦利品としてアルカディアの所有物となった。特にアカイアの真珠と呼ばれたイサドラの美しさは大臣達の目に留まり、これは王もお気に召すだろう、と当然のようにデミトリウスの寝室へ送られる事になる。せめて喪が明けるまではお許しをと、共に捕まったデルフィナが散々慈悲を乞うたが、抵抗むなしく彼女は異国の王室に放り込まれた。
(旦那様の仇に抱かれろというの?)
 一人きりの寝室で肩を抱きながら、イサドラは寡婦となった我が身の不幸を信じられぬ思いで眺めていた。まだアカイアの城が陥落してから一日と経っていないと言うのに、何と言う変わりようだろう。
 呆然としているうちに、寝室にデミトリウスが現れた。彼はイサドラの存在に気付かぬまま胴鎧を脱ぎ、ふうと息を吐いて戦闘の緊張を解いている。その日アカイアを征服したアルカディア王は、当時二十三歳。若き美丈夫であったが、イサドラの目には恐ろしいものにしか映らなかった。
 一方、デミトリウスの方も久々にゆっくり床につこうと思った矢先、寝台に見知らぬ女がいるを見つけて顔を険しくさせた。宵闇の中、豊かな金髪が忘れ去られた陽の光のように広がっている。彼は目を眇め、不機嫌に腕を組んだ。
「何だ、お前は?」
 またどこぞの大臣がいらぬ気を回し、早く世継ぎを作れと勝手に寝室に送り込んできたのだろう。豪胆な反面、女性関係について冷淡なデミトリウスは、こうした余計な世話をされるとたちまち臍を曲げた。血筋を残す為と動物のように女を宛がわれるのは不快である。王位を巡る親族闘争の記憶が生々しい彼は、最低限の跡取りだけ得られたら充分だと強情に言い張って、未だ一人の妃も娶っていなかった。
 そして彼は捕虜となったイサドラの事を、アルカディア直系の子種を孕んで地位を得たいが為、進んで抱かれに来たものだと勘違いしたのである。虫も殺せぬような顔をして打算的な女だと、半ば軽蔑の眼差しでいた。
 しかしイサドラが物も言わずに怯えているので、部屋から出て行けと怒鳴る事も躊躇われる。どれ、と呟くと彼女の顎に手を掛けて、品定めするように顔を覗き込んだ。イサドラは泣きたくなるような気持ちを戒めて、これも生き延びる為だときつく目を閉じた。
「アカイア人か。確かに美しいな。だが子は成さんし、俺の愛人にもせんぞ」
 デミトリウスは釘を刺し、無造作に抱こうとする。目を閉じたまま抵抗もせずに膝を割られたイサドラは、服の合わせから夜気と共に熱い男の手が肌をまさぐるのを感じて、弱々しく身を奮わせた。
 年が離れていたせいか、亡き夫との男女の営みも数える程度しか経験していない。しかも相手が憎き仇となれば嫌悪はひとしおで、荒い愛撫に耐え切れず、咄嗟に自らの舌を噛もうとした。
「馬鹿、何をしている!」
 慌てたのはデミトリウスの方だ。イサドラの口に手を差し込み、自害を阻止する。少しの間二人は揉み合いになったが、顎を両側からがっちりと掴まれて諦めたのか、くたりと少女は力を抜いて呟いた。
「貴方に抱かれたら……いずれ冥府で、どのように旦那様に会えと」
 寡婦だったのかと、デミトリウスは虚を突かれて彼女を見下ろした。勘違いした自分も悪かったが、無理に寝台に送られたのなら何か言えばいいものをと、歯型のついた手を軽く振る。
「あのな、死ぬほど嫌なら抵抗くらいしろ」
 元から執着はない。彼はイサドラの上から退くと、大儀そうに片眉を上げた。今の愛撫も自分が抱いてやった方が箔が付き、女の為になるかと思ったまでの事だ。
「寝台の上で死なれては俺も寝覚めが悪い。城攻めが終わった後に面倒事を起こすのは下らんし、嫌がる女を無理に抱くほど飢えてはおらん。本気で嫌なら部屋から逃げていれば良かったろうに」
「……そう、ですね」
 至極面倒そうに語る王の言い草は辛辣なもので、ふっとイサドラは悲痛に微笑んだ。
「逃げてしまえば、良かった……」
 伏せた瞳からほろほろと涙が零れ、声も上げずに顔を覆う。デミトリウスは扱いに困ったように彼女の横顔を眺めると、ならば帰れと、外の侍女を呼びに部屋を出て行った。









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