山の民と海の民










 遠征が長引けば、食料を前線に運ぶ補給路も伸びる。そしてそれは伸びれば伸びるほど、不意に途切れる事もある。
 幸い、今回は敵の襲撃ではなく悪天候ゆえのものだった。だが輸送が遅れて早十日。やはり腹具合は兵の士気に関わる。古代と言うと何かと野蛮なイメージがあり、食事も丸ごとの果物や焼いた肉ばかりだと思われがちだが、実はこの頃から基本的な料理は作られていた。肉や魚などそれぞれの素材に合わせたソースも細かに作られ、鰯を塩漬けにしたペーストや、たくさんの乳製品は勿論、トリュフやエスカルゴなどの嗜好品も食べられている。
 そこまでの贅沢をしたいは言わない。だが元奴隷と言え、それなりのものを食べたいと願うのは人間として仕方のない事だろう。
「と言う訳で現地調達だ。野郎ども、竿を取れ!」
 妙に気合の入ったアメティストスの声に続き、おー!と野太い声が青空の下、綺麗に唱和した。
 即ち釣りである。
 腹ぺこの男達は海岸線に船を停め、思い思いの場所に散り始めた。船の上で竿を垂らす者、腰を落ち着けようと埠頭に上る者。屈強な海の男達が意気揚々と釣りに興じる光景は、微笑ましいのか異様なのか判断に迷うものがある。
 しかし、全員が楽しく時間を過ごしていた訳ではない。
(閣下には悪いが、正直、それどころではないな……)
 オルフは青ざめた顔で口元を覆い、ふらふらと浜辺を歩いていた。
 山育ちの彼は小川で魚を追いかけた事はあっても、海釣りの流儀には疎い。奴隷部隊に参入したばかりで海にも弱く、未だ船酔いに悩まされていた。そのせいもあって釣りにも身も入らず、焼けた砂の眩しさと潮風の強さに辟易しながら、当てもなく浜辺を散策していたのである。
 彼はこじんまりとした岩影を見つけ、しばらく休む事にした。ここなら日差しや風も遮られ、居心地も悪くなさそうだ。座り込んで目を閉じると、額に浮かんでいた汗がすっと引いていく。
 幸いな事に時間もある。少し眠ってしまおうか――。
 そう考えた矢先、どこからともなく奇妙な音が耳に入り込んできた。「びたん」とも「ばちん」とも言いがたい音。例えるなら水を一杯に入れた古い皮袋を、いや、それよりもっと柔らかい物を叩きつけるような音だ。
 それは寄りかかっている岩の反対側から聞こえてくる。気味の悪い音だったがこちらに近付く気配はなく、特に命の危険は感じない。しばらく耳を済ませて様子を探っていたオルフは、音楽家の直感で問題ないと判断して膝を抱き、さて眠ろうと瞼を下ろした。
 しかし、音は彼の都合などお構いなしに「びたん」や「ばちん」の他、「ぐちゃん」や「じゅるん」などバリエーションを増やして、どんどん奇妙さを増していく。
(……何だ。このグロテスクな音)
 気になって気になって仕方ない。
 安眠をぶち壊す異音に苛立ちを募らせ、オルフは渋々起き上がった。この状況で眠ったらとんでもない悪夢を見てしまいそうだ。彼は出所を探って岩の反対側を覗き込み、そこでかちんと固まる。
 岩一枚を隔てた波打ち際は小さな入り江のようになっていた。浅瀬に張り出た平たい岩場で、鼻歌まじりに立っていたのは同僚のシリウスである。逞しい外見に関わらず人懐っこい男で、部隊の誰からも慕われていた。今日も釣りと聞き、てきぱきと道具を揃えて船から下りた姿を見たが、まさかこんな近くにいたとは思わなかった。
 シリウスは脛まで海に入り込み、素手で何かを捕まえている。どうやら生き物のようだ。それを岩に叩き付け、拾い上げ、またぶつけ――と言う作業を繰り返していた。そこから「びたん」や「ばちん」や「ぐちゃん」や「じゅるん」などの音が生まれているのだ。
 意味が分からない。
(ス……ストレス解消?)
 オルフは顔を引き攣らせる。何だか嫌な場面を見てしまった。生きているのが楽しくて楽しくて仕方がないと顔にでかでかと書いているような男が、まさか魚を岩にぶつけて日頃の鬱憤を晴らしているとは。晴天の霹靂と言うか、好きな女の子が一人で遊んでいると思ったら楽しそうに蛇を捕まえて首に巻きつけていました、くらいの衝撃である。ちなみにエウリディケの話です。爬虫類もOKな子でした。
「シリウス……貴方、何やっているんですか……」
「ん?」
 呆然とするあまり、思わず声を掛けてしまった。振り返った男は普段通りの暢気な表情で、特に悪びれる様子もない。にやりと笑って「見〜た〜な〜?」などと脅す様子もない。それどころか額の汗を光らせ、同僚は誇らしげに笑ってみせた。
「何って、食料調達だよ。珍しいのが獲れたんだ」
 ほら、と岩棚に叩き付けた獲物を掴み、宙に掲げる。どんな魚かと目を細めたオルフは、次の瞬間ぞっと背筋を凍らせた。
「な……何ですか、その生き物!?」
 むしろ生き物と言う前提すら怪しい。濡れた表皮がぬらぬらと蠢いているからには生きてはいるのだろうが、部分部分がひっきりなしに脈動を続け、どこまでが頭でどこまでが胴体なのか判断が付かない。森の湿った場所に生える水気を帯びたキノコの群生にも似ているが、その十倍は不気味に感じられた。細長い足が何本もシリウスの腕に巻きつき、まるで重度の皮膚病にかかったように見える。
「ああ、そっか、お前は初めてか。蛸だよ、蛸」
「たこ?」
「美味いぞー。今日はこいつを野菜に混ぜてオリーブぶっかけて食べるからさ、楽しみにしとけよ」
「食べ……食べられるんですか、これ!?」
 思わず声が裏返る。とてもサラダの具材になるとは思えない。シリウスはこちらの狼狽を気に留めず、それを再び岩に叩き付けた。
「こうすると身が柔らかくなるんだ。ここらへんの漁師なら皆こうやるぞ。あまり叩きすぎると逆効果だけどな」
 頼みもしないのに親切に説明してくれる。ぐちゃーん!と言う派手な音の後、叩きつけられた蛸の吸盤が岩にへばり付き、赤い皮膚が破け、白い身が見え隠れしていた。蛸は尚も足を動かし続けているが、いかにも満身創痍といった様子でぐったりとしている。
 何これ。超ダイナミック。怖い。
「……すいません。正気を疑っていいですか?」
「いや……まあ、疑うのはお前の勝手だけどさ、うん、一応は正気よ、俺?」
 どん引きのオルフのテンションに、相手もたじろいだ様子だった。困ったように首を前のめりにさせ、子供の悩み事を聞くような顔になっている。
 同じギリシャ圏とは言え、異文化は異文化。山と海、どう歩み寄るべきか二人が沈黙のうちに探り合っていると。
「何してる、お前ら。さっさと働け。夕飯に間に合わん」
 運良くアメティストスが通りすがった。釣り場所を探していたようで、無造作に竿を肩に担いでいる。敬愛する将軍に見咎められてオルフは虚を突かれたが、彼の視線が自分を通り過ぎてシリウスの手元に至り、ああ蛸か凄いじゃないか、と手放しの賞賛が漏れ出たのを聞くと、更にぎょっとしてしまった。
「……閣下もこれ、召し上がるんですか?」
「まあな。腹が膨れれば何でもいい。ちょっと貸せ」
 アメティストスはだらりと垂れた蛸の足を小さくきちぎると、そのまま口に放り込んだ。さすが奴隷あがりの身の上。頓着しない。豪快さに目を見張っていると、彼はそれを噛みながら再び釣り場所を探し、さっさと去ってしまった。文句の付けようがない堂々とした摘み食いである。
「……ワイルドですね」
「そりゃ狼だからなぁ、あの人」
 残された二人のうち、オルフは呆然と、シリウスは愉快げにコメントした。
「閣下がお好きなのなら……私もいける気がします……蛸……」
「お、そいつは良かった。じゃあサラダの他に焼いた奴も作っとくわ」
 足を一本を切り取られても、しぶとくうごうごと動いている生き物を見ると気が滅入ったが、オルフが口をへの字に曲げたのも一瞬だ。結局こうして流されてしまう。
 かくして異文化交流は着々となされていくのだ。






END.
(2011.06.28)

ずっと出番のなかったオルフが、まさかのギャグでフライング参戦。蛸を叩きつけて柔らかくする方法はギリシャ料理では割と有名な話ですが、実際に見たら山育ちの人間はビビる。


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