猫トラップ
ギリシャの街角には、何故か猫が多い。ふと屋根の上から視線を感じて振り返れば、そこにいるのは十中八九、猫である。
大衆食堂に行けば、テーブルに上って料理をくすねようと画策する猫あり。港に行けば、漁師から魚をねだろうと集団でスタンバイする猫あり。日向ぼっこする猫あれば喧嘩をする猫もあり……エトセトラ。
だから、この王宮で見かけたって別段おかしい事ではないのだ。いくら衛兵や猟犬がいると言っても、猫ならばどんな隙間も掻い潜ってやってくるだろうし、わざわざ追いかけ回して締め出す人間もいない。
しかしだからと言って、何もこのタイミングで現れなくても。
「……弱ったなぁ」
レオンは困っていた。いや、実際には困っていないのだが、困らなければならない場面だと思っていた。
今日はボイオティアの船で、知者と有名なアッピアノスと言う学者がやってくる日である。街の広場で演説をする予定らしく、レオンも後学の為に聞いておきたいと昨夜から楽しみにしていた。
公式の会見ではないが、アルカディオスたる者、それなりに見栄えのする格好で挑まなければと新しい装束も揃えておいたし、質問したい事もメモして枕元に置いておいた。
これで準備万端。朝が来れば、すぐに身支度をして街に行けるはずだったのである。
しかし、しかしだ。
まさか朝起きたら枕元の着替えとメモの上に、ころんと猫が寝転がっているだなんて、誰が予想できたろうか。
ど か せ な い !
カッと心の中で雷が鳴った。表情には出さなかったが、レオンの目は猫に釘付けである。
そういえば父上も、戦略を立てる時はアクシデントを予想して二重三重に構えなければいけないと言っていた。でもまさかこんな可愛らしいトラップがあるだなんて、猫を神の使いと称えるエジプト人なら拝んでいるところだぞ――と彼の胸中は嵐のように忙しない。
どこから入り込んだのだろう。白い子猫だった。ぺたんと前足を伸ばし、金の腕輪の上に可愛らしくあごをのせている。片足は手招きでもするように曲がっていた。畳んだ上衣と腰帯がちょうど柔らかく窪んでいるせいで、白い体はしんなりと内側に丸まっている。目は糸のように満足げに細められ、夢でも見ているのか、たまに鼻をひくひくと動かしているのが堪らなかった。
どかせる訳がない。
いや、どかそうと思えばどかせるが、着替えとメモを引き抜けば確実に起こしてしまう。
それは可哀想だ。だって、こんなに寝顔が可愛いのに。
「……弱ったぞ」
と言いつつも、口元が緩むのは仕方ない。レオンは思う存分に撫でくり回したい誘惑に耐え、いかに子猫の安眠を守りつつ自分の荷物を取り出せるのか、真剣に悩み始めた。
「予定が入ってなかったなら、しばらく眺めていたいところなんだが……」
早く身支度を済ませなければ、演説が聞けなくなってしまう。今日はスコルピオスを含めた王宮の重臣達も出席すると言うのだから、第一王子である自分が遅れる訳にはいかないのだ。それはもう断じて!
手始めに、そっと前足を持ち上げてみる。ふにゃんとした肉球の心地良い感触に、あぅ、と思わず妙な感嘆詞が口から漏れ出た。子猫は起きる様子もなく、すぴすぴと鼻を鳴らしている。
本当ならこのまま寝かせておきたい。だが、ここで折れる訳にはいかない!
レオンはぐっと歯を食いしばる。次いで、片手で子猫の頭を持ち上げ、慎重に金の腕輪を横から引き抜いた。積み木崩しのようで緊張したが、子猫は依然と幸せそうに眠っている。
ぐっすり寝こんでいるのか、余程警戒心がない子なのか。試しに耳をふにふにと擦って遊んでみても反応がなかった。この調子なら丸ごと抱きかかえて寝台に移しても大丈夫かもしれない。自分が帰るまでここで大人しく寝ていてくれないかなぁ、とレオンは少しばかり画策した。
しかし腕輪を両手に嵌め、よし、今度こそがっつり持ち上げてやるぞ、と彼が意気込んだその時。
子猫がころん、と白い腹を見せて寝返りを打ったのである。
考えてもみて欲しい。特に、猫が好きなのに家庭の事情でついぞ飼った事のない人は妄想を膨らませてみて欲しい。あの小さくて柔らかくて生意気でそのくせツンデレで天然で遠目に見ているだけでも面白い生き物が、自分の目の前ですべすべの腹を見せ、幸福そうに眠っているのである。
そりゃもう堪らんではないか。
「〜〜〜っ!」
そして元から動物好きのレオンである。遂に耐え切れず、絹のような子猫の腹に額を押し付け、身悶えてしまった。
あああああ、かわいいかわいいかわいい!
うりうりと頭を擦り付ける。獣臭い匂いも気にならない。レオンは存分に滑らかな胸元や、掴んだ前足の感触をうっとりと楽んだ。
「何の真似だ、それは」
が、すかさず突っ込まれた。びくりとして振り返ると、たまたま部屋の前を通りかかったのか、なんと兄がいる。
「え、あ、……ぅ、」
見られた! と言うか兄上が何故ここに?!
かーっと頬が熱くなった。暑いからと扉を全開にしてしまった昨夜の失敗が、まさかこんな時に現れるなんて。狼狽したレオンは慌てて着替えとメモを猫の下から引っ張り出した。ぷぎゃ!と鳴き声が上がったが構ってあげられない。
「す、すいません!遅れるところでした!控えの間で支度してきます!」
よほど恥ずかしかったのか、寝台の柱に頭をぶつけるのも何のその、レオンは脱兎のごとく部屋から飛び出した。やむ終えずに叩き起こしてしまった子猫が気になるものの、緩みきったところを目撃された羞恥の方が上回っていたのである。王子らしからぬ挙動で廊下へと転がり出た彼の背を、スコルピオスは訝しげに見送った。
「何だ、あいつは……」
彼もまた学者と会う準備を整えて広間に向かうところだったのである。まさか途中でこんな場面に遭遇するとは思ってもいなかったが、彼の気質上、弟の不振な行動に突っ込まずにはいられなかったのだ。
彼が視線を元に戻すと、開けっ放しの部屋の中では問題の子猫が二度寝しようと再び手足を伸ばしているのが見える。追い払おうと部屋に入り込んだスコルピオスは、ふと難しい顔で足を止め、周りを見渡した後、おもむろに手を伸ばし。
「………」
ふにふにと肉球を存分に触ってから、子猫を外に逃がしてやったのだった。
アルカディアの人々は例外なく動物好きである。
END.
(2010.06.27)
と言うかコレ、私が猫に触りたくて触りたくてたまらなかったので、文章にぶつけただけです。
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