未完成バレンタイン











 
 休み明けテストをしたのはつい最近のような気がするのに、もう期末テストの出題範囲を教科書にチェックするはめになんて、いっそ何かの詐欺じゃないかと思う。子供の頃、時間泥棒と言う男達が出てくる本を読んだ事があるが、そいつらが俺の貴重な学園生活までごっそり盗んでいるんじゃないだろうか――。
 オリオンはジャージに着替えながら、じっとりと恨めしげに参考書の入ったスポーツバックを見下ろした。普段はロッカーの中に入れっぱなしにしておくが、そろそろ暗記物を始めなきゃと渋々詰め込んだ代物である。実際に手を付けるか否かは別だが、とりあえず形から入る作戦だった。
 そうでなくとも二月は浮ついた季節だ。三年連中をぴりぴりさせていたセンター試験も終わり、一足先に彼らを学校から送り出す予餞会の出し物をこなしたせいもあって、心は既に春休みを夢見ている。とは言え、部活は休み中も続くし、実際に遊び回れる時間は多くないのだけれど。
「おりおーん」
 着替え終えて弓道場へ向かおうとすると、階段の踊り場で呼び止められた。
「っと、ミーシャか。ご機嫌うるわしゅう?」
 ぱっと上を向くと幼馴染の少女の顔があった。防寒対策なのか制服の下にジャージを履いており、せっかくのミニスカート姿を台無しにしている。オリオンはがっかりしたが、彼女が「まずまずよ」と答えた後、とんとんと跳ねるように階段を下りてきたので気を取り直した。
「オリオンはこれから部活なの?」
「そ。今日も打ちっぱなし」
「それはゴルフ。正解は……こうでしょ?」
 オリオンが空中でスイングの素振りをすると、ミーシャはくすくすと笑って矢を射る仕草をした。幼稚園からの付き合いだと、こういう時も心得て笑ってくれるのが嬉しい。オリオンは心が浮き立つのを感じ、大袈裟に肩をすくめて見せた。
「似たようなもんだよ。しばらく大会もないし、ひたすら自主練で撃つだけなんだもん。しかも弓道場って半分は屋外なんだぜ。クソ寒いし、雪の時なんか前が白くて的が見えなくなるし、結構きつくってさー」
「うそうそ。男子部員は部室にストーブ持ち込んでサボってるって聞いたわよ」
 ひらひらと手を振りながらミーシャが隣に並ぶ。どうやら彼女も一階に行くようなので、オリオンも同行する事にした。いつもならここでエレフがひょっこり顔を出すパターンも予想できたが、エレフはエレフで剣道部の活動があるはずである。
 ――おっし、邪魔者なっし!
 周囲を確認したオリオンは、こっそり片手でガッツポーズを決めた。と言うのも、彼が本当に射止めたいのはクソ寒い弓道場の的ではなくミーシャの方だったので。
 しかしガキんちょの頃に芽生えた恋心も、花咲くまでが遠い道――。幼馴染と言えば王道も王道、初恋の代名詞と言っても過言ではないくらい近い存在だが、やたらガードの固い兄貴達を持つミーシャとの仲は未だに「いい雰囲気」の域を出ていないのだった。オリオンもちょこちょこアプローチはしているし、ミーシャも少しは意識してくれているとは思うのだが、なにせ友達付き合いが長いせいか決定打がない。
 クラスが別とは言え、せっかく同じ高校に通っているのだ。せめてこうした放課後イベントはがっちり掴んでおきたい。
「で、どしたの。ミーシャも部活?」
「ううん。あのね……」
 ミーシャがそっと横髪を耳に掛ける。踊り場の高い窓から差し込んだ光が、歩くリズムに合わせて彼女の長い髪の上を滑り落ちていった。青春ドラマのワンシーンのような光景にオリオンは見惚れ、「抜け駆けを許せ親友、お前の妹は今日も可愛いぞ!」と今頃は竹刀を振るっているであろうエレフに心の中で呼びかけた。
 それにしても女の子達の「あのね」ほど厄介な言葉はない。続く言葉の九割はどうでもいい世間話や、悩むまでもない心配事、あるいは夢見がちなお願い事だったりするのに、世界の秘密をこっそり打ち明けるように愛らしく小首を傾げる彼女達を振り払える男なんて滅多にいないのだ。
 そして実際、オリオンはミーシャの「あのね」を聞くのが嫌いではなかった。子供の頃から彼女の持ちかける相談事は罪のない部類で、やれ飼う犬の種類でエレフと喧嘩しただの、やれ新しく出来たカフェに行きたいけれど一人で入る勇気がないだの、平和だなぁと思う内容がほとんどだったからである。多分ミーシャに恋をしていなかったとしても、彼女の話を聞くのは好きな事柄のままだろう。元からオリオンは話好きな男なのだった。
 なので、今回も彼は愛想よく「何?」と先を促す。ミーシャはちらっと周囲に目配せした後、また「あのね」と繰り返した。
「明後日ね、エレフが一人で帰るように仕向けたいの」
「……仕向けるって」
 なかなか物騒な言い方だ。しかし明後日の日付を頭の中の換算したオリオンは、ああと納得する。
「ははぁ、成る程。バレンタインだからね?」
「当たり。エレフったら去年の放課後、私を理由に女の子から逃げ回ったのよ。妹と家に帰らなきゃいけないからって……おかげで何人に恨まれたか」
 ほうっと彼女は溜息を吐いた。彼ら双子の睦まじさは学校名物の一つで、部活が長引かない限りは一緒に下校するのが常なのだが、二月十四日に限ってはミーシャの悩みの種へ変貌するらしい。
 ここ数年は女の子同士でチョコを交換する友チョコが流行っているので、相手を射殺さんばかりにぎらぎらと殺気立った中学の頃と比べると、バレンタインは比較的なごやかな行事になっている。だがミーシャによると、意中の彼にチョコを渡したい正統派は脈々と生き残っている、とか。
「そりゃ、エレフがああいう行事が苦手なのは分かるし、仕向ける……って言うのはちょっと悪い気がするけど……でもでも、年に一度のバレンタインなのよ。実際に受け取るか受け取らないかはエレフの自由なんだから、けちけちしないでチョコを渡すチャンスくらい、女の子達にも作ってあげたっていいじゃない?」
 彼女は後ろめたそうに眉を下げ、どこか落ち着かない様子で打ち明けた。オリオンとしては逃げ出すエレフの気持ちも分からないでもなかったが、ここは反論しない事にする。何よりミーシャの口からバレンタインの事が出てきたので緊張していたのだ。
 俺にはくれんのかなぁ、チョコ。
「へえ、エレフがねぇ……」
「学校で捕まらなかったって、家まで押しかけて来た子もいたんだから。それも全然面識がない子よ。運悪く私が扉を開けたら、思い詰めた顔の女の子が立ってて、びっくりするやら気まずいやらで……」
「ひえぇ、家までかぁ。そりゃミーシャも迷惑だわな」
 オリオンが同情を示すと、彼女は勢い付いてこくこくと頷いた。
「でしょでしょ?それにね、エレフったら自分で断るのは嫌だからって、呼び鈴を聴いたらまずレオン兄様を行かせるのよ。酷いと思わない?」
「でもそりゃ、女の子にとっても一石二鳥じゃねえの。生徒会長にまで会えるんだから」
「もう、そう言う問題じゃないの!逃げても結局は受け取らなきゃいけないんだから、エレフもちゃんと相手してあげるべき、って事!」
 ミーシャは急に声を大きくした。どうやら彼女も乙女の一員として、チョコを渡すチャンスすら出し渋る兄の態度に難有りと考えているらしい。その剣幕にオリオンは「おおこわっ」と思わず芸人のようなリアクションを取ってしまったが、彼女は構わずにまくし立てた。
「だからオリオンにも協力して欲しいの。とにかく十四日、私とエレフは別々に帰るようにするから」
「で、俺はそのサポートに回れって訳?」
「そう。私が先に帰るから、オリオンは何か理由を付けてエレフを学校に引き止めておいてくれない?」
「うーん」
「だめ?」
 バレンタインの話題と言っても、どうも期待していた方向とは違うようだ。しかもエレフを引き止める役をするとなると、必然的に自分もミーシャと離れる事になる。いくら親友とは言え、何が悲しくてバレンタインに好きな子の兄貴の面倒を見なきゃならないんだ。
 しかし、ここで断っても話が進まないだろう。いっそ状況を逆手にとって布石でも打っておくかと、オリオンは半ば戦略的に彼女のお願いを引き受ける事にした。
「いいよ、オーケー。何とかする」
「ありがとう!次に駅前の鯛焼き、おごるわね!」
 跳ねるようにミーシャが両手を叩いて喜ぶ。すかさず彼女の顔を覗き込んだ。
「って言うか、そこはチョコでお礼すべきじゃない?」
 とりあえず一手。ミーシャは一瞬きょとんとしたが、急に焦った様子で顎を引いた。痛い所を突かれたようで、見る見るうちに困った顔になる。
「で……でもオリオン、あそこの鯛焼き好物だったじゃないの」
「そうだけど、あんこよりカカオが食べたい日もあるのー。特に十四日は」
 どうよ。これ、結構なアピールだよな?
「ミーシャ、ここ数年は家で兄貴達にチョコ作ってたじゃん。俺にもお裾分けしてよ。なんか去年はくれなかったし、俺、地味にショックだったんだから」
 オリオンが冗談半分本音半分で口を尖らせると、ミーシャは更に眉を寄せた。白い頬が少しずつ色を増していく。
「……だ、だって、あの時はチョコケーキで失敗しちゃって……。メレンゲが足りなくてぺちゃんこになっちゃったから、オリオンにあげれるような物じゃなかったのよ。今年は家族にも市販の物をあげようと思ってるし……」
「ふうん?」
 口ごもるミーシャへ先を促すよう相槌を打つと、彼女はおどおどと目を泳がせた。
「ええと、それにほら、うちってレオン兄様は甘党なんだけど、他は違うじゃない。手間がかかるの。本当は同じ物を一気に作りたいんだけど、ビターも用意しなくちゃいけないし……だから今年は買って済ませようかなぁ、って」
 だから手作りなんて期待されても困る、と言いたいらしい。しどろもどろになるミーシャは見ていて可愛かったけれど、いまいちオリオンには彼女の言う失敗や苦労が分からなかった。確かあそこの家庭は当番制の夕飯になっていて、たまにエレフが教室で似合わないレシピ本を読んでいるのを見た事があったから、ミーシャだって料理はそれなりに出来るはずなのだ。
 という事はつまり、これはもしかして自分を諦めさせる為の言い訳なのだろうか。ちょっと悲しい。
「でもさ、板チョコ溶かして固めるくらいしてくれてもいいじゃん。それもだめ?」
 オリオンが食い下がると、ミーシャは先程とは微妙に違う角度でぴくりと眉を寄せた。
「板チョコって……そんなの手作りって言わないわ」
「ええと、じゃあ何だろ、ブラウニーとかトリュフとか……?あんま知らないけど、とにかく何でもいいよ。どれかは作れるだろ?」
 オリオンとしては何とかして約束を取り付けたかっただけなのだが、どうも言い方が悪かったのか、ミーシャはむっと黙り込んでしまった。彼女は声に出さず口の中で一言二言もごもごと呟いたかと思うと、階段を最後まで下りきってオリオンへ向き直り、きっと顔を上げた。長い髪が扇のように広がって、その一房がこちらの胸元にもぶつかる。
「……やっぱりオリオンにはあげない」
「えっ」
「手作りを食べてもらうなら、女友達の方が絶対いいわ。大変さを知ってるから有り難がってくれるもの」
「うぇええ?」
「それに、お菓子なんてお店で買った方が絶対に美味しいし綺麗なんだから。どうしたって家のオーブンじゃ上手く膨らまなかったり、あげく焦げたりするんだもん。その苦労を分かってくれる人じゃないと、気持ち良くプレゼントできないわ」
 待て待て、これは嫌な流れだ。なんだかよく分からないが、ミーシャが臍を曲げてしまった。
「えっ、その、ごめん。ミーシャ怒った?」
「……怒ってないわよ」
「嘘だ。目付きがエレフみたいになってるじゃん」
「双子だもの。そりゃ似てるわ」
 もしかしたら何でもいいからくれと言った事でミーシャの自尊心を傷つけてしまったのかもしれない、とオリオンは焦った。普段はおっとりしているけれど、不機嫌になった彼女は実に強情なのだ。
「なあ、ごめんってば。機嫌直してくれよ」
「やだ、だめ。絶対あげない」
「……ミーシャの薄情者ぉ……」
「だーめ」
「うぅっ、別に失敗作でもいいのにさー…食べたかったなぁ、手作り」
 オリオンは哀れっぽく嘆願した。つくづく自分がお調子者キャラで良かったと思う。こういう時、情けなく駄々を捏ねても許されるから。
 そんな様子をミーシャはしばらく冷ややかに見つめていたけれど、やがて尖らせた唇で「じゃあ、チョコレートフォンデュ」と言い放った。
「え、フォンデュ?」
「そう。溶かしたチョコに苺とかマシュマロとか付けるだけ。簡単だし、美味しいわ」
 澄ました顔で言う。これ以上お姫様の機嫌を損ねたくなかったので、オリオンはそろそろと突っ込んだ。
「……なぁ、それって手作りって言うにはさ、素材の味を活かしすぎじゃない?」
「だって何でもいいんでしょ」
「んん、確かにそう言ったけど……!」
 念を押すような口調に釣られ、渋々オリオンは頷く。遅ればせながら「ミーシャが作ったものなら何でも嬉しい、とか言えば良かった!」と気付いて後悔したが、今更そんな事を言う雰囲気でもなかったので喉の奥にしまい込んでしまった。
 畜生、バレンタインが恋の味方だって誰が言った!



 * * * * * * *



「ねぇエレフ。チョコとパイナップルって合うと思う?」
「……は?」
「だーかーら、チョコとパイナップル」
 その夜。夕食を終えて家族が思い思いにくつろいでいるリビングでは、ミーシャの奇妙な問いかけが徐々に波紋を呼んでいた。冷蔵庫から牛乳を持ってきたエレフは片眉を上げ、膝を丸めてソファで携帯を弄っている妹を怪訝に見下ろす。
「微妙そうな気がするけど、なんで?」
「……次の夕飯当番の時、デザートにどうかなぁって。チョコフォンデュ」
 もごもごとミーシャは提案した。勢いでオリオンにはああ言ったものの、あれって外食で頼むもので実際に自分でやるとなるとよく分からないじゃない、と気付いたのである。携帯画面で『簡単☆自宅で楽しいチョコレートフォンデュ』のページをスクロールしながら、むむ、と彼女は唸っていた。
 検索してみると自宅用の調理キットが売っているのを発見し、もしかしたら思ったよりも手間が掛かるのかもしれない、と不安になってくる。組み合わせる果物やお菓子もふんだんに紹介されてあって、どれを選べばいいのか分からなくなってきた。果たしてオリオンはどれが好物だったろう。
「……フォンデュ?」
「へえ、面白そうだね。家でやるとなると鍋みたいになるのかな」
「そうなの。レオン兄様はどれが合うと思う?」
 甘い物がそれほど得意ではないエレフは苦い顔をしたが、先程から器用に雑誌とテレビを交互に見ていたレオンが会話に入り込んでミーシャに賛成したので、劣勢だと思ったのか反論もせずに押し黙ってしまった。同じように辛党である一番上の兄が入浴中なので、彼には味方がいなかったのである。ちなみに父は自治体の会合(と言う名目の飲み会)に行っており、母は長電話中、と言う状況だった。
「とりあえずバナナと苺とマシュマロは決定なんだけど。家にも買い置きがあるし」
「ふーん……ブランデーを入れてもいいって書いてあるけど?」
「だめよ、それじゃ母様が酔っちゃうじゃないの」
「葡萄……はどうなんだろうね。あまり想像がつかないなぁ。後はクッキーが無難かもしれないね」
 三人で携帯画面を覗き込みながら話し合う。男二人の意見をここでリサーチできるので、ひとまず見通しはついたとミーシャは胸を撫で下ろした。しかし安心した途端、学校での会話を思い出してむかむかしてくる。
 ――まったく、オリオンが何でもいいなんて言うから。
 女の子がどんな思いで失敗したお菓子をオーブンから取り出すのか、どんな深い葛藤で好きな人にプレゼントするのか、まるで分かってないのだ。ましてやラッピングしたものの、ぺしゃんこに潰れたチョコケーキなんか渡せないとバレンタイン当日に挫けてしまった去年の私の気持ちなんて、ちっとも知らないんだわ。
 本当は綺麗な市販のチョコで済ませるつもりだったのだけれど、ここは乙女のプライドに賭けて、そこそこ美味しい、しかしきっちり手を抜いたバレンタインを用意してやろうと彼女は決心していた。自分でも強情な性格だと思うが、オリオンに下手な物を渡して気を使われるよりは、笑いに持っていった方がいいと考えたのである。
 それにミーシャは知っていた。オリオンだってエレフと同じくらい女の子に人気がある。きっと明後日は二人して大変な事になるに違いない。けれどオリオンはあの性格だし、義理にしろ本命にしろ女の子達にきちんと対応してチョコを受け取るのだろう。その中には勿論手作りチョコだって入っているはずだ。幼馴染だと言うリーチがあるぶん、まだ自分は焦らなくていいと思うけれど、他の子より見劣りする物なんてあげられない。
 ――いいわ。別に今年だけがバレンタインじゃないもの。
 失敗なんてしたくない。自分が満足いくような完璧なチョコケーキ、あるいはブラウニーやトリュフが作れるようになるまで、持久戦にする覚悟はできている。幼馴染への淡い気持ちを押し込めて、いつか訪れる完璧なバレンタインの為に彼女は再び兄達との協議に戻っていった。







END.
(2010.02.14)

初の学パロは念願のオリミシャでした。さりげなく両想いなのですが、完全主義者のミーシャはそう簡単に手作りチョコを渡してくれないのです。オリオンが自分の事を好きだと察しているので焦らない彼女ですが、やっぱりこういうところ、女の子は確信犯だなぁ。




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