火の歳月は放たれた












「この舟、どこまで行くんだ?」
 子供にしては険のある、無愛想な顔つきの少年が尋ねた。
 エーゲ海は多島海とも呼ばれ、大小合わせて2500にもなる島が散りばめられている。ギリシャはあいにく農牧に適さない土地柄だが、この美しい海の上を櫂で漕ぎ、多くの島々や遠い東大陸と貿易をする事で発展を遂げてきた。今日も港には舟が集まり、紺碧の葡萄酒のような水面を賑わせている。
 桟橋で呼び止められた商人は少年の切羽詰った声に釣られ、アルカディアのオリーブオイルが詰まった壷を数える作業を止めた。舟に荷運びをしている奴隷達の足音が少し遠のく。
「海岸沿いに北にのぼって、ひとまずボイオティアに行くんだが……坊主、乗りたいのかい?」
 少年は無言で頷いた。そろそろ十代の半ばに差し掛かるくらいの年齢だろうか。高く伸びようとする成長途中の背丈とは逆に、むき出しになった腕や肩には子供っぽい線が残っている。一人でこの辺を歩いているとなると奴隷ではなさそうだが、潮の匂いの染み付いたくたびれた服は明らかに貧しかった。
 どういう訳か海水をしたたらせているので不思議に思うと、しとしとと零れる服の裾には幾つかの巻貝を入れている。星の光のように四方に突き出る、白い貝の突起が見えた。
「なんだい、素潜りでもしてたのか?」
「舟を見つける間の暇つぶしだよ。それより、北に行くなら俺も乗せて欲しいんだ」
 少年はどうでも良さそうに眉を寄せ、よくも話の腰を折ったなとばかりに貝を憎らしげに一瞥する。編み込まれた一房の髪が水を含んだまま、右肩の上で煩わしそうに揺れた。
 紫染料の原料となる巻き貝は、子供達が小遣い稼ぎに海に潜って採っているのをよく見かける。貝が吐き出す液を白絹に塗りつけて光にさらすと、徐々に黄色から緑に変化して、やがて紫紅色に染まるのだ。
 ただし貝紫は一つにつき僅かしか取れない。少年が持っている量では大した金にならないだろう。むしろ彼の瞳の方が余程珍しい紫色をしていると気付き、商人は思わず目を止めた。
 白い睫毛の下で瑠璃色に瞬く瞳は、照りつける夏の力で今は赤味が強い。だが日陰で覗き込めば、恐らく東大陸から運ばれる紫水晶によく似ているだろう。綺麗な透明度だ。そういえば神々が着る衣も紫だという伝承もある。
 しかし、だからと言って人情を出して定員を増やす訳もない。まして戦力にはなりそうにもない痩せた子供なのだ。元から積荷の他、せいぜい片手に収まる程の人数しか乗せない予定である。商人は首を振った。
「悪いな。漕ぎ手も揃ってるし、乗せてやる場所もないんだよ。他を当たってくれ」
「そう……」
 彼は名残惜しそうに船上で働く奴隷たちを見つめた。どこを目指しているのか知らないが、エーゲ海を行き交う船はまだ無数にある。次を探そうとした少年の目線が一度泳いだと思うと、しかし急に、ぎくりと凍ったまま動かなくなった。
「……おじさん、出航はいつ?」
「明後日だが、それがどうかしたかね?」
「いや……」
 硬い声で呟く彼の視線の先には、一人の奴隷が甲板の下の貨物置場に壷を運び込んでいる。全部で400個ほど運び込まねばならないので慌しく動いているが、疲れているのか、酔ったように足元が定まらない。それを見て、少年は奇妙に歪んだ微苦笑を浮かべた。
「……たぶん、明後日なら俺の場所も出来てると思う」
 だからまた来る、と言い捨てて身を翻した。商人が理由を聴き返す間もなく、その姿は逃げるように港の雑踏の中に紛れ込んでしまう。
「おいおい、坊主!一個落としてったぞ!」
 足元には衝撃で割れた貝殻が、紫の雫を吐き出し始めていた。




* * * * * *




 他人の境遇を哀れむほど、自分に余裕はないはずだ。なのに。
「……面倒くさい」
 貝を小銭に換え、適当に買ったレンズ豆のスープを喉に流し込みながら、エレフは思わず呟く。こうして立ったまま店の壁に背をつけて市場を眺めていても、またちらちらと黒い影が視界を過ぎる気がして、胸がざわついた。
 ――あいつも近いうちに死ぬんだろうな。
 そう考えると苛々する。今更になって特に何か思う訳ではないけれど、舟で働いていた奴隷には確かに黒い死の影が付きまとっていた。どうすればいいのか分からずに逃げてきたが、見間違いではない。
 お師匠と二人で旅をしていた時はあまり気にならずに済んだけれど(何しろ老人の話は長くて長くて、エレフに他の事を考えさせなかったのだ)、こうして一人になるとイリオンでの事を頻繁に思い出した。鞭打たれ、蔑まれ、泥をすすった奴隷としての生活は、常に死の影がつきものだったから。
 ――やっぱ、他の舟を探そうかな。死人の後釜なんて縁起でもない。
 なぜ自分がこんなものを見るようになったのか、エレフは理由を知らない。自然の恵みが貧しい他の土地と比べて、彼が育ったアルカディア故郷はのどかで美しかった。あの場所にいた時には何一つ不吉なものなど感じなかったと言うのに、まるで何かに取り憑かれたのようだと思う。
 だが生き別れになった妹を探し始め、既に長い時間が経っていた。首元で切りそろえていた髪も既に肩を超し始めている。自分の髪は少し癖があるのか、妹のようにまっすぐには伸びない。
 その目に見える変化が更に彼を焦らせ、時間を惜しませた。選り好みしている場合ではないのだと。
「……くそ」
 木さじでスープの底をがりがりと擦り、最後の一滴まで舐め取るとエレフは市場を出た。白っぽい猥雑な都市はからりと晴天で、その青空に浮かぶように切り立った神殿の丘が見えている。
 見下ろされているようで面白くない――目を細めて神殿を仰ぎ見た。
 あのドーリア式の柱の一本一本も、イリオンと同じように誰かの屍の上に建てられたのだろうか。神々が支配するこの世界で、神殿の数だけ、同じように建てられたとしたら――そう思いエレフは唇を噛んだ。
 ただでさえこの都市の人口の三分の一は、奴隷だと言うのに。




* * * * * *




 その日、例の黒い影をまとっていた奴隷が死んだ。過労からか夜中に甲板で足を滑らせ、海に落ちたらしい。泳ごうとしても手首の枷が邪魔をして助からず、無抵抗のまま海神の元に沈んでいったと言う。
 約束どおり商人の所に行くと気味が悪そうな顔をされたものの、エレフは無事に舟の漕ぎ手として採用される事になった。他の奴隷達と一緒に櫂を漕ぐのである。
「結構な重労働だが、大丈夫かい?」
「別に。慣れてるよ」
 エレフは甲板に座ると冷めた口調で答えた。舟腹に何本も突き出た櫂の一本を握り、浅く息を吐く。死んだ男の体温が柄に残っているような気がして落ち着かなかった。
 ――もし俺があの奴隷に何か忠告してやれば、助かったんだろうか。
 分からなかった。忠告してやったところで死期が遠ざかるとも思えない。気紛れな神々の中で、死だけは常に平等に人々の背に降り注ぐものだから。
「……ッ……」
 海面に自分の姿を映しても、まだ黒い影は自分の背後にはいない。だが、きっと、いつかやってくる。ひたひたと足音も立てず、もう逃げてもいいのだと甘く囁いて――。
 でも暫くは静かにしていてくれ。せめてミーシャと出会えるまでは、どうか。
(その頃は失う事の怖さに、慣れたくもなかったのだ)









END.
(2008.09.22)

ウォーミングアップ作品。なぜかMoiraで文章を書こうとすると、少年エレフのエーゲ海クルージングの旅・貧乏ツアーばかり思い浮かぶ。


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