あにうえといっしょ











 自分が一、二歳の事など、記憶の遠い彼方に追いやって覚えていない。だからこそ先程から自室の床をうろちょろと歩き回っている物体がスコルピオスには理解不能であった。
 走った、と思えば転ぶ。
 登った、と思えば落ちる。
 跳ねた、と思えば潰れる。
 どれだけ無様に転んでも泣き声ひとつ上げずにいるのは幼児ながらに気丈なのかもしれないが、或いは単に鈍いだけなのかもしれない。幼いレオンティウスは怪我の痛みもどこ吹く風。あっけらかんとしていた。
 ようやく第一王子の歯が生え揃い、二つ以上の言葉を続けて喋るようになった、とは噂で聞いていた。熱を出して寝込む事も多いらしいが、それもアルカディオスの成長の証。問題ないとも。
 が、しかし。
「……何故こいつのお守りを俺が……」
 殺されても文句は言えんぞ、とスコルピオスは独り言う。ちょこまかと先程からレオンティウスは一人遊びを続けているが、頭が大きくバランスの悪い幼児は少し背中を押しただけで殺人事件に発展しそうなほど丸っこく危なっかしい。それこそ完璧な密室トリックでも思いつかない限り、こんな容疑者が自分しかいない状況で安易に手を下したりはしないが、何の因果で立場上対立する異母兄弟を預かるはめになったのか理解しがたいものがあった。
「くそ、ポリュデウケスとカストルが帰って来さえすれば……!」
 外出中の家臣に体よく押し付ける算段を巡らせ、スコルピオスは書物を机に放る。気が散って読書など出来たものではない。仕方なしに子守りに専念しようとするが、その顔つきは切り取って辞書の『監視』の項目に載せておきたいほど愛想がなかった。
「何の遊びだ、それは」
 手始めに話しかけてみる。兄の呼びかけに気付いたのか、柱に片手を付けて意味なく同じ場所をぐるぐる回っていたレオンティウスは足を止めた。得意げに笑むと、
「うまぁ!」
 とだけ言う。意味が分からない。
 どこが馬だ、どちらかと言えば尻尾を追いかける犬に近いだろうが、と真面目に突っ込みかけたが、どうせ通じるはずがない。スコルピオスは早々に子守りを諦めて傍観に徹する事に決めた。今度は『見限る』の項目に似合いそうな目付きである。半ば本気で密室トリックについて考え始めた兄の視線に気付かず、幼い王子は謎の「うま」遊びに夢中になり、結局はその熱心さが仇となってくるくると目を回していた。平和な光景である。
 そうこうしているうちに半時ほど経った頃。小腹が空いたのだろう。きゅうぅ、と小さな音が鳴り、レオンティウスは自分の臍のあたりを押さえて眉を寄せた。いつもなら母かカストルがおやつを貰える時間だと気付いたのである。
 人懐っこい割にあまり喋りたがらない幼少時のレオンティウスは、そこで少し困った。うるうると空腹を視線で兄に訴えてみるが、脳内の事件も佳境になり崖に追い詰められトリックがばれるかどうかの瀬戸際にいる彼は明後日の方向を眺めており、まるで気付いて貰えそうにない。仕方なく椅子によじ登ってテーブルの上に顎を乗せると、彼は目に付いた果物の籠へ手を伸ばした。
 最初は林檎を選んだレオンティウスだが、噛み付いても皮がつるつると滑るだけで少しも美味しくない。硬い果物には歯型しか残らず、結局は涎だらけになってしまう。悪戦苦闘している間にも腹は切なげに鳴き続けていて、あうあうと唸りながら、彼は手当たり次第に獲物を漁り始めた。
 一方、現場の痕跡でトリックを見破られたスコルピオスは「やはり替え玉かアリバイ工作が必要か……」とシュミレーションを終えた所で、ようやく弟の所業に気付いて仰天した。放り投げられた果物でテーブルの周りがとんでもなく散らかっているのである。思わず舌打ちをした。
「おい。食い散らかすな」
 鋭く声を掛ければ、もごもごと葡萄を頬張っていたレオンティウスが顔を上げる。そして何を勘違いしたのか、にぱりと舌足らずに言った。
「あにうえ。ごちそーまいたっ」
「……ご馳走様でした、だろうが」
 苦い顔で指摘しても意味が分からないのか、レオンティウスはほえほえと締まりのない顔で笑っている。これで第一王子と言うのだから笑わせるものだ、とスコルピオスは鼻白んだ。やはり事前に完璧な密室の一つや二つ考えておくべきだった。
 とは言え、さすがに二歳児を邪険にするのも大人気ない。鉄壁の理性を総動員して苛立ちを沈めた彼は溜息を吐き、邪魔な果物を足で蹴って部屋の隅に追いやった。後で女官にでも片付けさせればいい。
 しかし問題は葡萄の汁と涎でべとべとになったレオンティウスの口やら首元やら掌やら――とにかく見苦しい。世の中を舐めているとしか思えない。
 放って置けばいいのだが、見れば見るほど半分とは言え同じ血が流れているとは思いたくない有様である。アルカディア王族としてもう少しどうにか出来んのか、と舅のような小言を零しながら渋々汚れた手を布で拭いてやると、赤ん坊と言っても差し支えないほど小さな掌が妙に丸くもっちりとしていて驚いた。よく考えれば自分より年下の者は王宮内でこの弟くらいである。スコルピオスは小さな手をふにふにと拭いてやり、物珍しさ故に、
 ……獅子だから肉球か……。
 と、一瞬でも下らぬ事を考えた己を恥じた。物凄く恥じた。
 しかし内心で冥府の底まで届くような落ち込み方をしていた彼だが、傍目には単に硬直していたに過ぎない。だからこそ突然けたたましく扉を開いて押し入り、
「レオンティウス殿下はいらっしゃいますか!?」
 と血相を変えてカストルが登場した際、弟の世話を焼いている姿など死んでも見せたくなかった彼は、顔を赤らめながらも電撃のごとく動く事が出来たのである。猫の子のようにむんずとレオンティウスの首根っこを掴むと、カストルの胸元へ押し潰さんばかりに差し出したのだった。
「うわあああ、予想通りとは言えそんな扱いをなさるなんて!!」
「……やかましい、早く引き取れッ」
「折れる折れる!首は座ったとは言え幼児になんて真似を!」
「やかましいと言っている!!」
 叫びながらカストルは半ば引っ手繰るように王子を掻き抱く。当のレオンティウスは宙に放り出されるようにされても変わらずに笑顔であった。肝が据わっていると言うべきか、ぽややんと動かざること山のごとし、である。遅れて部屋に入ってきたポリュデウケスは、弟と教え子がぎゃんぎゃん喚いているのを半ば微笑ましく見守った。
「ほう、どうやら大事なかったようですな。仲睦まじいようで」
「あ、あぁ兄上ぇ!殿下の、殿下の首がぁ……!」
 あわあわと王子を撫で回しながら涙目になっているカストルの狼狽ぶりに、スコルピオスは胡乱な目付きで後退りする。腕に抱かれているレオンティウスが無邪気にカストルの髭を引っ張って遊び始めたので、更に歪んだ顔が見苦しい事この上ない。
「……ポリュデウケス、お前の弟はどうなっている。気味が悪いぞ」
 慣れているのかポリュデウケスは悪びれず、けろっと答えた。
「ははは、申し訳ない。親から何から我が家もアクの強い家系なもので、必然的に末弟のカストルが貧乏くじを引かされるせいか、どうも心配性を絵に描いたような男になりましてな。あしからず」
「あしからずも何も、髭面男の泣き顔など見苦しいだろうが!止めさせろ!」
「うぅ……まさか我らが留守の間に王子お二人が一緒だとは思わないじゃないですかぁ……!何事か起こりでもしたら、私は、私はぁ……っ」
「早まるなカストル。心配せずともスコルピオス殿下の事。それこそ完璧な偽装工作でも仕掛けない以上、そう簡単に自分一人が疑われる状況で物騒な事は起こさないだろう。女官や門番の目撃証言も出るし、逃げようとしても離宮を囲む花畑には痕跡が残るからな。足が付く」
「……探偵役はお前だったか」
 そんな年長者三人の声高な談義もレオンティウスには吹き抜ける風のようなものなのか、やがて眠そうに眼を擦り始めた。頭をぷるぷると振って三人が話し終わるのを待とうとしたようなのだが、そこはカストルの出番、素早く王子の様子に気付き「そろそろお暇します」と言った。
 だが彼は退室する前にハッと足を止め、お世話になった人には感謝の挨拶ですよ、と言い出した。これもレオンティウスの教育だと思い至ったらしい。
「殿下、スコルピオス兄上にお別れのご挨拶は?」
「んー…?」
「ほら、この前お父上から教えて頂いたでしょう。ばいばーい、ですよ」
「ばいばい?」
「ええ、ええ」
 髭面男の猫なで声や涎をたらしかけた幼児の挨拶などスコルピオスは聴きたくもなかったが、耳に入ってくるのだから仕方ない。レオンティウスは既に夢うつつのような表情で手をにぎにぎと動かすと、
「きゅこるひにょすあにうえ、ばいばいー」
 と言った。








「…………ほとんど原型がないではないかッ!」
 あまりの事に暫し呆然としたスコルピオスは、昼寝に向かった二人の姿が部屋から消えてから額に青筋を浮かべて一気に怒鳴った。扉の向こうで「お上手ですぞ殿下!」とか何とかほざく男の頭をかち割らんばかりの剣幕である。
「父上か、父上の嫌がらせがこんな些末にまで及ぶのか、ポリュデウケス!?」
「……は? いや、陛下は真面目に挨拶を教えていた……ようですよ?」
「疑問系で答えるな馬鹿者!何だ、あの風に吹かれて飛ばされそうな情けない発音は!」
「いやはや、可愛らしい事ですな。何せ年端もいかぬ子供ですから大目に見てやって下さい。そう言う殿下こそ、昔は私を『もにゅでうけしゅ〜』なんて呼んでたんですぞ。『ポリュ』の発音が出来ずに――」
「言、わ、ん!」
 珍しく賑やかなアルカディアの離宮であった。




END.
(2009.06.24)

平和そうな王家組も書いてみたかったのですが、何だこれ。


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