ヘルメスの休息












「馬が欲しい」
 帰路に着く船の舳先にじっと佇んでいると思ったら、何の前触れもなくアメティストスがそう言い放った。
「……馬、ですか?」
 隣で方位を確かめていたシリウスは、また大将閣下は何を言い出したんだ、と振り返る。周りでは元奴隷たちが陽気に櫂を漕ぎ、順調に終わった今回の襲撃の喜びで湧いていた。
 出会ってから約一年。
 彼らは今、奴隷船を片っ端から解放して積荷を奪う事で暮らしている。お陰でそれぞれの国から目を付けられていたが、海神の加護を受けたかのように素早く海流に乗ってしまう彼らの船団に追いつける者はいなかった。
 すっかり海賊めいてきた集団だが、アメティストスはそれだけで終わるつもりはないらしい。何を成そうとしているのか計り知れないが、こうして唐突に持ち出してくる話題にシリウスは時折きょとんとさせられる事がある。
 ……馬?
「そうだ、馬だ。いくら今は海戦だけでやっていけるからと言って、陸で戦えなければ後々困る事になるだろう。もし俺たちが警戒されて海路が封鎖された場合、陸で移動しなければならないしな」
 なら、馬が欲しい。
「シリウス。お前、ちょっと仕入れて来い」
「……頭数と予算は?」
「任せる」
 はあ、と軽く返事をしながら頭を掻き、また急な事を言う人だな、と横目で見た。浅く焼け始めた肌を潮風に当たらせ、アメティストスは涼しい顔で海を眺めている。確かに騎馬隊を作る事は有意義だろうが、現在の戦略を変えてどう部隊を編成するのか、どのくらいの規模にするのか……そのような具体的な計画は全く語られなかった。
 とは言え、ぐだぐだと説明を迫る気はない。つまりそれは俺の役目なんだろうな――とシリウスは勝手に納得しているし、そういう役割を果たす為に彼に従っていた。過去どころか本名すら明かさない大将だが、この一年の付き合いで人柄も僅かばかり分かってきている。惚れた弱みもあった。 
「……良いかも知れませんね、馬」
 むしろ頭の中で算段を巡らせていると商人魂をくすぐられ、行動の幅が広がって便利だぞ、と次第に乗る気になってくる。こうして何かを作り上げていく事が嬉しくてならない。
 顎に手を当てて明るく呟いたシリウスに、主も「だろう?」と薄く口の端を上げた。




* * * * * * 



 奴隷部隊――とは当時呼ばれていなかったが、過酷な戦地と追っ手の目を逃れて彼らが本拠地としたのは、ギリシア東部のテッサリアである。
 マケドニアとの境に神々の住むと言うオリンポス山を抱き、古くから小麦の産地として豊かな平原を備えていた。その沿岸、商船さえ行き過ぎてしまう小さな港から更に奥へ進み、人目の付かない入り江に入ると彼らの第二の故郷がある。
「あ!お帰りシリウス!」
 帰港して荷を降ろしていると、山羊の世話をしていた子供が一人駆け寄ってきた。
 以前シリウスが働いていた屋敷から共に解放されたマルコスと言う奴隷少年で、今ではシリウスの両親に育てられている。年の離れた弟が出来たようなものだ。
「おう、ただいまマルコス。変わりはなかったか?」
「うん、全然平和。おじさんもおばさんも元気だし、山羊も子供を産んだし。そっちも上手くいったんだね?」
「まあな」
 笑顔で迎えてくれる人がいる幸福感と言ったらない。少年の髪をうりうりと掻き回してやりながら、改めてシリウスは現在の境遇に感謝する。彼は手首に残る手枷の痕を軽く擦り、この海辺の小さな村を感嘆の面持ちで眺めやった。
 解放した奴隷たち全てがアメティストスの軍に入った訳ではない。戦えない女子供もいれば、負傷して剣を握れない者もいた。救い出した彼らを故郷に送り届ける事も行っていたが、戦火に村を焼き払われ、農作物が育たないよう畑に塩を撒かれた土地の者は生活していく事も難しい。
「ならばいっそ、自分たちの村を作ってしまえばいい」
 そう提案したのは無論アメティストスだった。人目に付かない土地に家を立て、少ない家畜を飼い、小麦を育てればいいと。
「金も貯まった。贅沢をしなければ何とか養えるだろう。ちょうど作物も育つ季節だしな」
 無謀に思える発言にぎょっとしながらも、それは面白いと具体的な場所を探して資金繰りをしたのも、やはりシリウスであった。奴隷時代から貿易の交渉人として顔が広い彼の事、幸いな事に難民を受け入れてくれる寒村があると聞き、古くなった廃墟を譲ってもらって土地を開拓しながら住み着き始めた。最初こそ不安が耐えなかったが、案外とんとん拍子で実現した事に今でも驚く。
 ――本当に何とかなるもんだな。
 何隻かの奴隷船を解放するにつれ、村にも様々な人種が集まっていた。自然、些細な揉め事も起こる。特にマケドニア人とトラキア人は互いに争っていた国の者同士で確執もあったが、アメティストスが私刑や決闘などの争い事を厳しく禁じて処罰した為、表立ってぶつかり合う事もなく平和に治められていた。
 夢のようだと――そう一言で語るには勿体ない。隣では他の船員たちも家族に迎えられ、港特有の楽しげな声がささやかな幸福に満ちて耳に届く。
 最後に船から下りたのはアメティストスだった。ロープを伝って地面に飛び降りる彼を、村人たちは近寄るでもなく羨望の眼差しで迎え入れる。さわさわと熱い囁きが広がり、マルコスも声を上げた。
「わあ、アメティストス様だ!」
 恩人の異国人に対し、元奴隷たちは信仰に近い形で彼を崇めている。実際は意外と危なっかしい青年だとシリウスは知っているが、彼が人々を惹きつける強い何かを宿している事だけは確かだった。直接は言葉が通じないせいもあるのだろうが、何より彼の特徴的な髪や眼や、剣を振るう常人離れした迫力を目撃した者ばかりが集う村である。人々は英雄と言うより守護神に祈るような面持ちで、帰還した彼の立ち振る舞いを眺め、やがて感謝と共に食事を持っていく。
 アメティストスもその扱いに不満はないらしかった。元から人にどう思われようが構わない節がある青年は、口元を緩めて軽く笑むと食事を受け取って、寝床にしている簡素な小屋へと入っていく。感情を示す仕草は素っ気ないが、それがかえって彼の神性を上げているように見えた。
「ねえねえ、今度もアメティストス様は強かったの?」
 マルコスが瞳を輝かせて尋ねてきた。片腕のシリウスから色々な話を聞き出しては、凄いだろうと友人に自慢しているらしい。可愛い弟分の懇願に真面目に答えてやりながら、嗚呼それにな、とシリウスは声を潜めた。
「今度は馬が欲しいと言っていたぞ。騎馬隊を作りたいらしい。今度どこからか買い付けてこなきゃな」
「それ本当?」
 すごいすごい、と飛び跳ねる。
「いいな、馬かぁ!格好いいんだろうね、僕も隊に入れて貰いたい!」
 颯爽と行軍する英雄軍を脳裏に思い浮かべたのか、マルコスは少年らしい興奮で山羊を追い立てる杖をぶんぶんと振った。




* * * * * * 




 そんな訳で馬、である。
「……もしかして大将……乗った事ないんですか?」
「無いな」
 物怖じせずに答えてはいるが、落馬しかけて手綱にしがみ付いている青年の姿は珍しく滑稽だった。マルコスが見たらがっかりするかな、と弟分の顔を思い出しながらシリウスは苦笑する。二人だけで来て正解だったかもしれない。
 まずは試験的に導入してみようと、知り合いの馬飼いに連絡を取って下見に来た所である。どれを買うかと悩む前に厩舎から何頭か馬場に出してもらって、実際に早駆けさせてみようと言う事になったのだが。
(やっぱり大将も万能じゃないんだな)
 シリウスはむしろ微笑ましい気持ちで主が苦戦している様を眺めていた。運動の邪魔にならないよう高い位置で一つに括った長髪が、あちこち走るたびに馬の尻尾と一緒にぶんぶんと勢いよく揺れるものだから、密かに笑みを噛み殺す事にも忙しい。
 この時代の乗馬には鐙や鞍はなく、両足でしっかりと馬の胴を締めて御さなければならない。乗りこなすのは難しかった。元々ギリシアでは乗馬が盛んではない。一般市民が乗る機会も滅多になく、船と徒歩で旅をしてきたアメティストスが慣れないのも無理はなかった。
 ちなみにシリウス自身は奴隷時代に必要に迫られて会得している。嫌な事ばかりの生活だったが、役立つ技能を取得できた事は感謝すべきかもしれないと最近は前向きに思えるようになったから不思議だ。
「あのですねー!筋は悪くないと思うんですが、その青毛、どうも気が荒すぎるんですよー!他の馬に乗ってみたらどうですー?」
 先程から爆走しては急停止したりと慌しく繰り返しているアメティストスを見かねて忠告すれば、嫌だ、と怒鳴る声が返ってくる。
「こいつがいい!構うな!」
 意地になっているのかと思ったが、彼にしては珍しく声音が明るい。興奮で気を高ぶらせているのか、目が鋭く澄んで口元がしなっている。子供が遊びに夢中になっているようで、それが更にシリウスの微笑を誘った。のんびり騎乗しながら見守ってやる。
 青毛は黒い巨体を存分に奮い立たせ、強情に手綱に逆らい続けていた。余程人に慣れない性格なのか単に気性が荒いだけなのか、鼻息荒く頭を振ってアメティストスを振り落とそうとしている。やがて勢い良く疾走したかと思うと急に進路を変え、どさりと白い方が地面に転がり落とされてしまった。
「――だ、大丈夫ですか!?」
 さすがに和んでいられない。シリウスが泡を食って駆け寄ると、器用に受身を取った青年は寝転がって笑い出していた。
「ああ、これは面白いな。もっと早く手に入れていれば良かった」
 運動神経が良いだけあって怪我一つしていないが、派手に落馬しておいて気楽なものである。思わず胸を撫で下ろした。
「……はぁ、こちらは肝が冷えましたよ……。面白いって、暴れ馬が?」
「違う違う。確かに思い通りにならん奴を従わせるのも面白味はあるだろうが、ほら」
 彼はむくりと起き上がり、逃げた青毛の代わりにシリウスの乗っている栗毛の首を叩く。
「視界が高い。どんどん地面が流れていくだろう。船に乗っている気分にも近いが、それよりも断然荒くて面白い」
 逞しい筋肉が熱く火照っているのを掌で確かめながら、惚れ惚れと続ける。
「何よりこの力強さと気高さはどうだ。こいつらなら戦いでも敵に怯む事はないだろうよ。乗りこなしたら剣で戦うにも便利なんだろうな――」
 欲しい、と改めて言う。
「騎馬隊を作るぞ、シリウス」
 シリウスは釣られて頷きながら、また主の新しい一面を知ったように思った。村を作った時は他人の人生を左右する問題だった為か終始真面目な顔をしていたが、こうして企むように笑む彼は珍しく無邪気に見える。

 アメティストスは有言実行の男であった。商談をまとめて馬を買い取ると、すぐさま騎兵を育てる事に専念し始める。馬の数にも限りがある為、まず素質のありそうな者を選んだ。元から乗れる者があればそれを教官とし、きちんと計画を立てて男たちに訓練させ、彼自身もすぐに技術を会得した。
 例の青毛だけは最後まで人に懐こうとしなかったが、アメティストスが自ら世話をして散々乗りこなそうと連日走らされたせいか、遂に陥落する事となる。誇り高く気性の荒かったぶん、手懐ければ速さだけでなく果敢さでも他の追従を許さない名馬となった。
「どうだ。一旦気を許すと可愛いものだぞ」
 鼻面を寄せてくる愛馬の頬を撫でながら、得意げにする彼はやはり子供のようだとシリウスは微笑した。
「すっかり懐きましたね。名は何て付けたんです?」
「雄だからな。ヘルメスだ」
「そりゃあ……また大そうな名前ですね」
 英雄の魂を冥界に導く青年神の名である。確かに彼の戦友には相応しいかもしれないが、出来すぎのような気もしないでもない。シリウスの苦笑も気にかけず、アメティストスは身軽に愛馬にまたがると熱心に他の指導に当たり始めた。最近ではバルバロイの言葉も覚えてきたらしい。
 ――無謀に見えて、何でも望みを叶えてしてしまう人だ。
 俺も働いた甲斐があったな、とシリウスは今回の出費をパピルスに書き込みながら、そうして満足げに次の算段を巡らすのだった。
 今では夕方になると波打ち際をなぞるようにして、最後の走り込みに白黒二本の尻尾がさっと駆けて行くのを見る事が出来る。その様子からアメティストスはここで「月毛」と言う呼び名も得たが、それは記録に残されないまま現地の人々の間でのみ愛される事となった。






END.
(2008.11.18)

オルフ参戦の前に馬の調達。こういう秘密の基地のような場所って憧れます。


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