雨と羊












 羊を枕に昼寝をしている、という夢を見ていた。
 夢の中でも眠っているとは随分と暢気な話だが、実際シリウスはとても快適だった。羊は大人しく座ったまま動かずにいるし、陽光をたっぷり含んだ毛はふかふかと心地良く、ちっとも獣臭くない。のどかな牧草地は子供の描いた絵のように平和そのもので、空の色も心なしか眠たげに見えた。
 ――こりゃいい。
 ごろりと寝返りを打つ。そのまま目を瞑って眠っていると、すぐ側をパタパタと小さな足音が駆けていくのが聞こえ始めた。
 牧童だろうかと思ったが、それにしては音が軽いし歩幅も狭い。その上、一人ではなく複数のようだった。始めは気に留めなかったが無数の足音がパタパタパタ……と忙しくなく駆けているのに気付くと薄気味が悪くなってくる。
 ――おいおい、どんな奴らだよ。
 姿を確認したくとも眠くて瞼が上がらない。聞き耳を立てていると沢山の小人達がシリウスの周りで走り回り、草を蹴って遊んでいるようだった。羊は相変わらず大人しくしているが、いつの間にか足音は地面を叩きつけるような乱暴な物に変わっている。
 ――危ねぇなぁ。
 いつ羊が驚いて、シリウスの頭を放り投げて逃げるか分かったもんじゃない。うんうん唸りながら瞼を上げようと足掻いていると、ふと頭上にもう一匹、別の羊が近づいてくるのが分かった。
 気配は穏やか。近づくだけで害はない。だが、ふわふわとした毛先が額に当たるのがくすぐったくて堪らなかった。我慢できずに押しのけよう腕を伸ばすと、逆にがぶりと噛み付かれてしまう。
 唐突に訪れたその感覚の鋭さに、シリウスは驚いて目を開けた。
 そして最初に視界へ入ったのは、羊でも小人でもなく。
「……え、うん、大……将?」
「寝ぼけているとは言え、殴りかかるとは良い度胸だな」
 なあシリウス、と真正面の人は呆れたように微苦笑する。おそらく夢うつつのまま振り上げてしまったのだろう。手首をがっちりと掴まれていた。うなされているのを不思議に思って近づいてきたのか真上から覗き込まれるような体勢の為、アメティストスの長い髪がふわふわと鼻先にまで零れている。目をぱちくりさせながら、シリウスは二匹目の羊の正体に気付いた。
 あれ……なんで大将が羊で俺が小人で……いやいやいや!
「わっ、違いますっ、なんか俺、夢見ててですね!それで――」
「興味ないな」
 起き上がろうとするシリウスの額を片手でぐいと枕に押し付けて、アメティストスは傍らを離れていく。
 去っていく主人の背中を視線で追って首を動かすと、敷き布の柔らかい感触が肌に触れ、もう一匹の羊の正体を教えてくれた。フロカティである。
 フロカティは羊毛を紡いで織り上げたカーペットで、外気を遮断してくれるので季節を問わず重宝していた。確か村の女房達が余計に織ったから軍で使ってくれと、そうアメティストスに献上された物だ。それを何枚も重ねているお陰で、地面の硬さが嘘のように遠い。
 なんで俺がこんな上等な寝具を使ってるんだ――と考え、ごつごつとした岩肌の天井を見ならが身体を捻ると、ようやく自身の状況に思い至った。
 左の脇腹が驚くほど熱い。きっと服の下では酷い痣が浮かび上がっている、かもしれない。
「あー……俺、倒れたんでしたっけ?」
 夢の中では晴天だったというのに、周囲は薄暗く陰鬱だった。足音と間違えたのは岩縁から一定のリズムを刻んで激しく滴り落ちる、幾つもの雨だれの音だったらしい。ここ数日、珍しく大きな雨雲に遭遇して足止めを食らっていた事を思い出した。
 夏用の天幕では雨を防ぎきれない。幸いな事に海沿いの岩山にはあちこちに波が削った横穴があって、狐が身を潜ませる程度の小さな物もあれば、こうして野営するのに適した場所もあった。風雨を防ぐにも都合が良く、天候が回復するまで兵達は点在する数箇所の岩屋に分かれて寝泊りしていたのである。一番乾いて居心地が良い洞窟は無論アメティストスに宛がわれたが、それは同時に怪我人が養生するにも格好の場所だった。
 荒れた波に持ち船がさらわれぬよう、縄を持って甲板を走り回っていた最中。船を補強する為に運び込んでいた材木がぐらりと波で傾き、シリウスの横腹を強かに打ちつけていったのである。最初こそ息が止まるほどの衝撃があったが、まあ刺さった訳でもないし誰も見ていないようだし打撲で死にはしないだろうと高を括り、そのまま知らん顔して駆けずり回っていたのが敗因で。
「まさかお前が目を回すとは思わなかった」
「ははー……俺もです。時間差でやられました」
 外の雨をそのまま豪快に取ってきたのだろう。再びシリウスの傍らに腰を下ろしたアメティストスは、そう言って水の入った杯を差し出した。有り難く頂戴しながら苦笑いを返すと、まるで他人事だな、と低い声で嫌味を言われる。
「突然倒れるから訳が分からなかったぞ。確かに船乗りが甲板で死ぬなら本望だろうが、少しは恥じろ。内臓を痛めたらどうする」
「……そうですね」
「船から担ぎ上げるのに苦労した」
「……はい」
「自分の怪我の重さも分からずに兵を率いれるとでも?」
「うぅ……すんません……っ!」
 一言投げつけられるたび、情けなさでしゅるしゅると身体が萎んでいく気がした。戦闘での負傷ならば誇らしかっただろうに、まさか行きずりの雨の中、木材に通り魔的なボディーブローを食らってダウンする事になろうとは不覚中の不覚である。打ち所が悪くてポックリと死んでしまい、墓に『シリウス〜志半ばでレバノン杉と心中〜』とでも書かれでもしたらっ!情けなくて情けなくて眼も当てられないっ!
 一通り嫌味を並べてシリウスが徐々に肩を窄めていくのをアメティストスは不機嫌に眺めていたが、やがて飽きたのか、ぷいっと外方を向いて黙り込んでしまった。お許しの言葉が貰えない限りはシリウスも気が休まらない。寝転がっているとは言え説教を拝聴した体勢のまま、ふかふかのフロカティに身を委ねる事も出来ずに痛む脇腹を抱えていた。
(すっげー呆れられてるじゃん俺……!)
 あーもー!と内心で叫びながら大人しく言葉を待つ。相変わらず岩屋の外では雨滴が叩きつける音が絶え間なく続いていて、シリウスには先程の小人達が自分を笑いながら跳ね回っているように聞こえた。
 いつまで経っても隣の人は口を開ける気配がない。こう言う時、彼の長い髪は非常に邪魔だ。湿気を吸って膨らんだ月毛は表情を隠してしまう。
「あの……大将……?」
「眠いんだが」
 恐る恐る声を掛けても、斬り捨てられるように戻ってくるのは辛辣な答え。
 弱りきって口を噤む事、更に数分。ようやくアメティストスは気だるげに振り向いて、素っ気なくシリウスの髪を掻き回した。
「あまり手を掛けさせるな」
 熱病じゃなくて良かったな、と付け加えて彼は小さく欠伸をする。思いがけない言葉にシリウスは妙に畏まってしまった。心配してくれたのだろうかと想像を巡らせて、目覚めてすぐ隣に彼がいた贅沢な状況の意味に思い至り、頬がへにょりと緩む。
(もしかして看ていてくれたのかもなぁ……)
 そっかそっか、そう言えば夢でうなされてるのも起こしてくれたみたいだし結構面倒見いいのかも、と勝手に美談を捏造する。
「……何がおかしい?」
「いえ、ああ、元からの顔ですよ?」
「それがか。随分と締まらん地顔があったものだ」
「へへ、育ちが悪いもので」
 訝しげに眉を寄せるアメティストスにそう返し、シリウスはふにゃふにゃと緩んだ口元を掌で覆った。正直に感謝の言葉など言えば、かえって臍を曲げてしまいそうな気配である。慌てて表情を改めると、名誉挽回も兼ねて話題を変える事にした。
「そんで、俺はどれだけ寝てたんですか?」
「そろそろ一日……と言った所か。雨で分かりにくいが、もう日没だろう」
「まだ船を出せそうには?」
「しばらくは無理だな。こう海が荒れては敵わん」
 この季節にしては珍しい、とアメティストスは独り言つ。抱き込んだ二本の剣を支えにして座っている彼の横顔は、どこか散漫でぼうっとしていた。機嫌を損ねたのではなく、どうやら本当に眠かったらしい。シリウスは物珍しく眺めながら相槌を打った。
「ああ、凄い雨ですね。さっき俺、これ足音と間違えて――」
「……聞いていると眠くなるな」
「へ、そうですか?」
「子守唄のようなものだ」
「ふうん……大将、アルカディアかラコニアあたりの生まれで?」
 ふと思いついて尋ねた。幾らか発音に癖があるがアメティストスが使うのは流暢なギリシャ語である。ギリシャ語圏の夏は大地が干上がるほど乾燥し、こんな盛大な雨など滅多に降らない。唯一の例外は雷神と水神を祭るペルポネス半島の中央部で、どちらも神の守護があるせいか緑に恵まれていると聞いた。唸る夕立は美しく花を潤し、空を引き裂く稲光が豊穣の印なのだと。
 子守唄とまで言うからには、幼少時に慣れ親しんだ音なのだろう。シリウスにとって雨は冬に聞く、物珍しい音楽に過ぎなかった。草木を濡らす湿った風や匂い立つ生々しい土の匂いも、どこか急かされている気がして落ち着かない。穏やかな海の波音と似ているように思えても、時折ごうっと風に叩きつけられる不規則なリズムが眠りから意識を妨げる。
 だからこそ反対に、うるさい雨音や遠吠えのような風の唸りにうつらうつらとしている主人の様子が不思議に思えたのだった。
「……さあ」
 だが、気に入らない指摘だったのだろう。アメティストスは不機嫌さを隠さずに眉を寄せると、シリウスの毛布を乱暴に引き剥がした。
「うわっ」
 立て続けに敷き布を引かれて、ごろりと床に転がされる。唐突な行動に背中を丸め損ねて尻餅を打ち、脇腹に響いて涙目になった。
「いい加減、起きたんなら退け。眠いと言っただろうが」
「……えぇっ、ちょ、ひどっ」
「ここは私の寝床だ。退け」
 ずい、と顔を寄せてアメティストスは冷淡に告げた。先程までとは打って変わって子供じみた所業である。シリウスは慌てて起き上がった。
「病み上がりを放り出すなんてそんな殺生な!」
「安心しろ。お前はしばらく死なん」
 やけにきっぱりと言い切られる。健康に太鼓判を押されたのだから喜ぶべきなのだろうかと少し考えたものの、これ以上邪魔者扱いされては敵わないと大人しく脇に退いた。
 ――嗚呼さよなら、フロカティ。
「うぅ……あんたが俺の事、心配して看ていてくれてたと感動してた所だったのに……」
「何だそれは。お前の寝床が雨で駄目になったから、仕方なく場所を貸していただけだ」
「……うーわー、ときめいてた俺って健気ー……」
「主人を差し置いて、一番上等な寝床を使えたんだ。充分だろう」
 肌寒い空気にシリウスが身をすくめて訴えれば、けんもほろろに一蹴される。恨みがましい部下の視線をアメティストスは右から左に受け流し、自らの邪魔な髪を首元で軽くまとめると毛布の中にさっさと潜り込んでしまった。柔らかい敷き布に埋もれた彼の後ろ姿はいかにも温かそうである。
 釈然としないまま半時も過ぎた頃、ふと思い出したようにアメティストスが一枚、毛布の投げてくれる。シリウスはありがたく頂戴しながらも、ぽつりと文句を言った。
「大将……くれるならくれるで、もうちょっと早く渡してくれると助か――」
「知らん」
「…………」
 ケチ。






END.
(2009.06.24)

ツンツン気難しいアメティストスさんが好きです。


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