日常の始まり












 絶壁のような湾岸を歩いて行くと、すとんと足場が抜け落ちるようにして、唐突に白い浜辺が現れる。
 投錨地にするには程遠い小さな入り江だ。
「うおっ!ちょっとこれ、どこの船っすか!?」
 普段なら人気もない浜に、熱っぽい声が響く。
「少しは落ち着け。座礁してるんだ。逃げはしないだろう」
 走り出すシリウスの後ろから、荒い斜面を軽々と駆け下りる声が続いた。アメティストスである。
 だが主人のたしなめる声も耳に届かず、普段の落ち着いた態度も捨て去って、シリウスは興奮を隠し切れずにいた。
「帆船って事は商船ですよねー……アテネ?シチリア?まさかバルト海から?」
 心当たりのある地名を並べ立て、入り江を仰ぐ。野営の準備をしていた最中、薪を探しに足を踏み入れた浜辺で、二人は無人の難破船を見つけたのだった。他の男達には幕舎を建てるように指示を出してきたが、馬鹿でかいシリウスの声は背後の茂みを越え、彼らの耳にまで届いているのかもしれない。
 入り江に浮かぶのは、当時よく見られた十五メートル程の帆船だった。嵐にでも遭ったのか不恰好に傾いていたが、晴天の下で破れた帆をはためかせている様子は貧乏な船乗りの心をくすぐらずにいられない。ギリシャ本土の沿岸部は浅瀬が多く、いくら海上貿易が盛んな地域とは言え座礁する船も出るのだが、こんなタイミング良く難破船を見つけるとは運が良かった。
 なんたって金欠なのである。アメティストスを中心に隊を結成して早一ヶ月。兵を養う食料は尽きかけていた所だったし、そろそろ剣や弓もきちんとした物を支給してやりたかった。故郷に帰りたいと希望する奴隷達を送り届けるには船だって必要になる。具体的な運営を取り仕切っていたシリウスにとって、隊の財政難は頭が痛い問題だった。
 そんな折、降って湧いたような幸運!
 死んだ(あるいは乗り捨てて逃げた)乗組員には悪いが、シリウスにとっては宝船だ。抱きついて船板にキスしてもいい。
「大将大将!あの、積み荷、見てきて良いですか?」
「いちいち聞かんでいいと言ったろう。好きにしろ」
「ああ、すんません。癖で」
 注意してはいるのだが、何をするにも主人の許可が必要だった奴隷時代の習慣はおいそれと抜けてくれないらしい。アメティストスは鬱陶しいのか、お伺いを立てられる度に呆れた顔をする。
「そう言うのはお前の方が詳しいだろう。売り払えるような物があるか、好きに見て来い」
 彼は手振りで行くように示すと、ざぶざぶと膝まで浸かりながら浅瀬を歩き、穴の開いた船倉を調べ始めた。金目の物を漁るより、船の状態の方が気になるらしい。無頓着な様子にシリウスはふと心配になった。
(俺が猫ババするとか、そうは思わないのかね)
 アメティストスの隣に立つようになってシリウスが第一に驚かされたのは、あれほど激しい戦い方をするのに、普段はまるで物静かな青年だという事だった。冷淡と言ってもいい。狩りの途中で耳を澄ませる獣に似た、どこか掴み所のない静けさだった。表情に出てこない水面下で、自分一人だけのルールに従い、目まぐるしく何かを考えているような。
 出会った時の印象が鮮烈だった為に、その温度差は時折シリウスを戸惑わせる。かと思えば剥き出しのナイフのように激情的に変わる時もあり、早い話、何をするにも極端な青年なのだった。むっつりと黙り込んだと思えば饒舌になったり、唐突に無茶な提案を出したりと、アメティストスの言動は読みにくい。
 しかし今日、偶然見つけた難破船を前にアメティストスも浮き足立っているように見えた。どうやら修復して自分達の物に出来るないかと、そう期待しているようである。人数も増えたし、もう少し船を増やせば移動も楽になるんだがなと、焚き火の前で零した彼の声を思い出した。
(悪くない御主人様だ)
 放し飼いにされた犬さながらにシリウスは腕まくりをすると、足場を見つけ、ひょいと船によじ登る。とりあえず信用されているようだから、任せられた仕事をしなければならない。切れたロープを手がかりに傾いた板の上を歩き、真っ直ぐに船倉へと身を滑り込ませる。
 予想していたよりも中はがらんとしていた。残念ながら積み荷のほとんどは穴から流れ出してしまったらしい。シリウスは破れた板に引っ掛かっている箱を目聡く見つけ、意気揚々と外に運び出した。砂浜にあぐらをかいて座り、手を合わせて神妙に拝む。
「では遠慮なく査定させて頂きマス」
 箱は五つあった。中を開けて獲物を物色すると、どうやら象牙を扱う船だったらしい。加工されていない塊がごろりと詰められていた。
「象牙……って事はカルタゴかな。ご苦労なこって」
 地中海に面した北アフリカの都市である。シリウスは呟くと、淡い黄白色の象牙を一つ一つチェックしていった。比較的小さな船だから輸送費のかかる穀物や資材ではないと踏んではいたが、なかなか嬉しい物を積んでくれている。
 最後の一つはぎっしりと本が詰まっていた。水を被って破れかかっている物も多いが、難を逃れた品が奥から顔を覗かせる。
 書籍商の中には、質が高く、値段も高い古書を扱う商人もいたはずだ。ここらへんは専門外だから詳しくは分からないが、もしかしたらそれなりに値が張るかも、とシリウスは見当をつけた。
 砂の上に乾いた板を敷く。そこに開いた本を置き、魚でも干すように太陽に当てた。湿った紙を乾かせば元に戻るかも――。
 と、気がつけば真後ろにアメティストスが立っていた。
「うわっ、驚いた。声くらい掛けて下さいよ!」
 足音を消す猫のようだ。長い髪が風に翻る気配の方が余程強い。驚くシリウスを尻目に青年は無言で肩をすくめると、隣に座って膝の上に頬杖を付き、じっとシリウスの作業を眺め始めた。
「えっと、何か?」
「特に用はない」
 監視されているのかと思ったが、視線から威圧的な物は感じない。単に暇なのだろうか。気を取り直してシリウスは再び湿った本の頁を剥がし、丁寧に板の上に並べ始めた。
 隣の人はじっとしたまま動かない。手元に視線を感じる。
「……もしかして小さい頃、蟻の巣とか厨房とか眺めるの、好きだったりしました?」
「さあな」
 ふと思いついた事を尋ねても、おざなりな返事しか聞こえなかった。その態度にシリウスは「多分好きだったんだろう」と勝手に結論を出す。
 気になった事が一つあれば、それだけで時間を潰せる人。そういうイメージが一つ増える。
「……そういうお前は昔から」
「へ?」
「こういう物が好きだったのか」
 くいっと顎を上げ、アメティストスは足元の箱を示した。自分の事を聞かれるとは思わなかったので、シリウスは主人と箱を見比べる。空を突く槍のように象牙が半分飛び出ていた。
「……あー、品物を見るのは好きですね。奴隷が金を貯めれる訳じゃないですし、自分の物になる訳でもなかったですけど」
「まあ、そうだろうな」
「普通の商人になりたかったんです、俺」
 シリウスは本の皺を伸ばしながら言った。身の上話など大抵は辛気臭いか、自慢ばかりで鼻持ちならない物だと相場が決まっている。
 しかしアメティストスの相槌を打つタイミングが意外に上手かったせいだろう。まあ軽い暇潰しに、とシリウスは話し出した。
「前は護衛役も兼ねてたんで、結構危ない目にもあったんですよ。剣も持たせて貰えないんで、素手で豚みたいな親父のお守りしなくちゃならなくて」
「ほう」
「そんなもんで嫌々働いてましたけど、土産を買うくらいは出来ましたし、あちこち行けるのは面白かったですかね。珍しい物も見れたし、ちょっとした緊張感もあって。大将も船に慣れてますけど、あんたも海に?」
「多少な。一番南で……カルタゴだったか」
「へえ、俺も行ったなぁ。多分この船もそこからのですよ」
 アメティストスは意外そうに顔を上げ、傾いだ船を見つめた。
「わざわざこんな所で座礁するとは、運のない船だ」
「俺達にとっては幸運ですけどね。そう言えば穴、塞げそうでしたか?」
「恐らく」
「じゃあ後で人手を呼んで、いっちょ直しましょう」
「そうだな」
 カルタゴまで行った事があると言う主人の過去が少し気になったものの、共通の話題が出たのは嬉しい事だ。日差しで薄く汗ばんだ額を拭う。
「あそこらへんの港は上手いように世界中の荷が集まるようになってて、面白いですよね。明らかにファラオの墓から盗掘しただろっていう骨董品とか、訳の分かんない動物の肉とか並んでて」
「ああ」
 シリウスの顔に一瞬、冗談めかした自嘲が混じった。両手をひらひらさせる。
「でもって俺が取り扱わなきゃなんない商品は、大概は人間でした。もしタイミングが悪ければ俺はあんたに斬られていたかもしれない。奴隷商人として」
「……成る程」
「真っ当な商人に憧れるのも道理でしょ?」
 汗に集まる蠅の羽音が耳元で蘇った気がする。カルタゴなら、市場に出回るのは肌の黒い原住民が多かっただろうか。
「そう思えるお前は充分に真っ当だろうよ、シリウス」
 そんな感傷を笑うように、アメティストスは投げ槍に言う。彼はサンダルの紐を結び直した。
「斬られなくて良かったな」
「へ……?ああ、まあ、お陰様で」
 会話はそこで途切れる。シリウスは爪の間に刺さった木屑に気を取られ、一旦作業する手を止めた。アメティストスも視線を船に戻し、暑そうに前髪を掻きあげている。夏になるとめっきり雨が降らなくなる土地の上、海から吹き付ける風も乾いていた。
(今、誉められた、のか?)
 シリウスは今ひとつ判別しがたい主人の横顔を盗み見る。既に興味は他に移ったのだろう。どう船の修復をしようかと、紫の瞳は算段しているように見えた。鳥が通ったのか、白い服に影が落ちて滑っていく。
 この人と、どこまで行く事になるんだろうか。
 シリウスも釣られたように船を眺めた。二人がいるエーゲ海は地中海の東海域の事を指している。小アジアを目指して海峡を渡り黒海に出る事も出来れば、点在する島を南に辿ってアフリカ、東はオリエントまで行く事も出来た。
 ――多分、どこにでも行ける。この人は未開の蛮族も恐れない。
 だが同時に、そうはならないだろうと言う漠然とした予感はあった。どこか遠くに行くつもりなら、こんな大仰に物資は集めない。船も一つあれば充分だ。
 結局のところ彼が奴隷を集めてどうしたいのか、シリウスはまだ知りもしない。単に解放したいだけの善意だとしたら、剣を奮うアメティストスの瞳はあまりに苛烈すぎた。
「……そうだ。これ、あんたが首に掛けといて下さい」
 何気ない風を装い、シリウスは首飾りを取り出す。象牙の他、加工した装飾品も見つけて脇に置いていた。何を突然、とアメティストスは怪訝そうな顔をする。
「一つくらい値の張る物を身につけといた方がいいかと。いつでも金に換えられるような奴を持っとけば、何かあった時に便利じゃないですか」
「ああ、成る程」
「アメジスト。あんたにちょうどいい」
 彼は受け取った後、その重さに眉をひそめた。
「……邪魔そうだな」
「売らんで下さいね。他にも後々役に立つかもしれませんから」
「何に?」
「迷信かもしれませんけど、毒に反応するとか。なんでも使う水の側に置いておけば石の色が変わるらしいですよ」
「毒か」
 青年は皮肉った。
「随分と気の早い備えだな。どいつもこいつも戦好きの奴ばかりで、毒を盛るような温和な客は残念ながら思いつかないが」
「だから後々の為にですってば。大将、ここで何か派手にやらかすつもりなんでしょ?」
 瞬間、アメティストスは黙り込む。動かない表情の下にひっそりと流れる彼の感情がどのように変化したのか、シリウスには分からなかった。
 だが文句も言わずに首飾りを通した彼の行動が、より明確な答えとなる。思わず溜息が漏れた。
「はー…やっぱり」
「今更だろう」
「そうかもしれませんけど……まあ、あんま無茶しないで下さいね。ついでに何か計画があるなら後で教えてくれると助かります。死なれると困るんで」
「それこそ今更だ」
 淡々と会話を交わしながら、アメティストスは鎖が絡まないよう後ろ髪を両手で掻き上げた。外套を着れば隠れてしまうだろうが、首元に揺れる紫水晶が彼を守ってくれるだろう――多少は。
「商品なんです、あんた」
 シリウスは言った。
「英雄って言う商品。俺はあんたを売り込みたい。それこそ硬貨の絵柄になるくらい有名に」
「……意外に夢見がちな男だな、お前は」
「あんたが見せた夢だ。死なれると路頭に迷っちまうんです。頑張って尽くしますからね?」
「精々励め」
 物扱いして怒られるかと思いきや、アメティストスはすげなく答えるだけである。違和感があるのか鎖の位置を何度か直し、早く終わらせろ、と作業を急かした。はいはいと返事をしながらシリウスはこめかみの汗を拭う。
 正直、受け取らないで欲しい気持ちも大きかった。毒殺まで用心しなきゃならないなんて、そりゃあんた、幾らなんでも物騒だ。船の上でどんちゃん騒ぎするだけで充分だろ、と。
 だが迷いなく水晶を掴み取るアメティストスを誇らしく思ったのも、また事実。犬の方が御主人様に首輪を付けちまったな、と内心で笑う。
「さて、ひとまず帰りましょうか。大将も箱、一つくらい持って下さいよ」
 象牙の入った箱を肩に担ぎ、シリウスは言った。物が物なので随分と重い。アメティストスは気だるげに首を傾げる。
「私に尽くすと言ったのはお前だろう」
「……一人で持って来いって?」
「ああ」
「うわー、きっつー……」
 あと幾つ持てるかなと本気で思案したシリウスに、彼は「冗談だ」と白々しく笑んだ。
「どうせ船も直す事になるんだ。置いておけ」
「あ、そうか。了解」
 箱を置き、砂にめり込む足を速め、引かれるように彼の後を付いていく。明日は総出で船を直す事になるのだろう。多分その時も、この人は偉そうに指示を出しながら、何食わぬ顔で俺達をこき使うに違いない。
 ――上等だ。
 彼を構築する静けさを憎悪だと、その正体を知りもしなかった頃。ただ追いかけるだけの毎日が、楽しかった。






END.
(2009.06.04)

まだ相手のイメージが掴み切れていないなりのシリウスさんの尽くし方。


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