その海で芽吹いた












 あれ、と思った瞬間には主人の右手が振り上げられていた。
「この駄犬がッ!」
 どうやら手持ちの杖で殴りつけられたらしい。左頬に炸裂した衝撃に吹き飛ばされぬよう、シリウスは足元に力を込めた。
「あれだけの人数をこれぽっちの値段で売ってくるなんざ、お前も役立たずに育ったもんだ!全く、こっちはとんだ大損だぞ!」
「……申し訳ありません」
 表向きは恭しく謝罪しながら、シリウスは内心で苦笑する。ただでさえ気が重い奴隷市場での交渉役をこなしたと思ったら、すぐにこれだ。自らの両腕を繋ぐ鎖がじゃらりと音を立て、まあ人生そんなもんさ、と笑っている。
 ――それにしても割に合わねぇな。
 主人は『あれだけの人数』と言うが、実際にシリウスが預かった奴隷の大半はか弱い女子供ばかりで、しかも長旅で衰弱していた。どう考えても力仕事には向かないし、値段交渉するにも時間がないときている。次の出港までに間に合うよう急いで来いと脅されて、自分の良心を押し殺しながら現地の商人達に引き渡し、元の奴隷船に戻ってきてみたら真っ先に殴られるとは。
「お前だって同じ奴隷なんだ。仕事の役に立たないようなら次の港で一緒に売りさばいてもいいんだぞ!」
 真っ赤になって憤慨する主人を宥めるには、ひたすら頭を下げるしかない。シリウスは殴られた頬を庇う事も出来ないまま、申し訳ありませんと再び言葉を繰り返す。今度は横腹を杖で殴られたが、中年に差し掛かった小太りの主人の力では大した威力はない。力仕事で鍛えた成果だ。
「次に失敗したら許さんぞ!分かったなら奴らに餌を持っていけ!」
 ひとしきり喚き散らして満足したのか、主人はタール臭い甲板の上をよたよたと去っていく。シリウスは彼の姿が見えなくなったのを確認すると、一度あの尻を蹴り飛ばせたら胸がすっきりするだろうな、と紺碧のエーゲ海を眺めた。
 子供の頃にあの杖で酷く顔面を殴られ、彼は左目の視力が極端に悪い。何とか失明は免れたものの、代わりに酷使される右目の疲労が大きかった。ちかちかと太陽を反射する海が自分を非難していると思えるほど眩しく、痛い。
 各港で人を売りさばきながら海を渡っていく奴隷船の中。アナトリアへの出港の準備が整い、後は風を待つだけだ。無造作に束ねたシリウスの黒髪を更に痛めつけるように、強い日差しと乾いた潮風が吹き抜けていく。
「……おい、食事だぞ」
 気遣いながら声をかけて薄暗い船倉に下りると、十人ほどの男達が悄然と顔を上げた。言葉が分からなかったらしい。慌ててシリウスは頭を切り替え、マケドニア語で訂正した。
 随分前からマケドニアとトラキアが小競り合いを始めていたが、最近では大規模な戦闘になり、捕虜になった異民族が続々と輸出されてくる。彼らもその一部だった。
「次の港で最後だ。長旅で疲れただろうが、とりあえず食って元気出せよ」
 我ながら白々しい台詞だと思ったが、無言のまま食料を配るのは居たたまれない。この時点で若い男ばかりが残されているのは次の港で建築現場での働き手が求められていたからだった。生気のない目で味の薄いスープをすする彼らは、故郷を離れて家畜のように働かされる運命を前に早くも疲れきっているように見えた。
 シリウスは彼らの世話も任されている。最初は自分達を捕らえた人間だと思われて散々罵られたが、シリウスも同じマケドニア人奴隷だと分かると捕虜達はどこに恨みを向ければいいのか完全に見失っていたようだった。一つの港に着くたびに何人かを市場に売り渡し、徐々に減っていく船倉の中で自然と人々は黙りがちである。
「メテールを売ってきたのか……?」
 出来るだけ高い値段で売れるよう怪我の処置をしてやっていると、青年が悲痛な声で尋ねてくる。
 女性名だった。途端に苦い唾が湧く。
「ああ、悪い……さっきの市場で引き渡してきた」
「そうか……。あいつも逃げ遅れた時に足を悪くしていたんだ。ちゃんと治してやりたかったのに」
 親族だったらしい。家族と引き離されて涙ぐむ青年に何と声をかければいいのか分からぬまま、シリウスは手当てを終えて船倉を出た。出港した船は白波の間を縫うようにして、ゆっくりと次の目的地へと進んでいる。
「……ったく、嫌な役回りだな」
 いくら晴れ渡った空を見ても気分は晴れない。今頃になって殴られた頬がじくじくと痛み、シリウスは一度船倉を振り返って顔をしかめた。
 一言に奴隷と言っても色々ある。彼らのように戦争捕虜として異国から売られてきた者。負債を返済できずに自ら志願した者。納税のため家長に売られた家族や、略取された女性。金を貯めれば自分の身分を買い戻せる自由奴隷もいる。
 シリウスの場合、生まれた時から奴隷の子だった。
 彼の仕える商人の屋敷には奴隷専用の大部屋の他、工房と呼ばれる狭い寝室がある。寝台しか置いていないそこに男女を住まわせて、金を払わずに奴隷を自家生産しようという魂胆だ。シリウスはその部屋で生を得、やがて走り回れるくらいに成長すると広いオリーブ畑であくせく働き始めた。
 父も母もマケドニアから売られてきた戦争捕虜だったが、面識はなかったらしい。それでも同郷の懐かしみもあってか仲が良く、自分達のぶんを削ってまで息子に食事を回してやったりと優しかった。失明しそうな左目を抱え、いつ主人から役立たずだと処分されるか怯えてはいたが、いつしか両手を繋なぐ鎖の重さや日々の折檻にも慣れきって、シリウスは静かに成長を重ねた。
 屋敷には様々な国の人間が働き、何種類もの言語が飛び交っている。それを子守唄がわりに育った彼は、特に意識する事なく幾つもの言葉を覚えた。両親の祖国のマケドニア語、柔らかい癖のあるトラキア語、はきはきと威勢の良いフェニキア語、大国のペルシア語……そして一番役立つギリシャ語。
 物覚えの良さに感心した主人がシリウスを取り立て、貿易の通訳兼交渉役として役立てようと様々な教育を施した。おかげで単なる肉体労働から開放され、こうして船であちこちを渡る事が出来るようになったし、ついでに航海術も覚えられた。根っからの奴隷生まれにしては上々だろう。
 それでも今回のような仕事となると、さすがに同胞を売るようで心苦しい。怯えた人々が鎖をじゃらじゃら鳴らしながら船倉に詰め込まれているのを見ていると、彼らを救えない無力感でひどく後ろめたい気になった。市場に引き渡してきた人々にも、せめて優しい買い手が付くようにと祈ってやる事しか出来ない。
 ――どうせ海を渡るならカルタゴの象牙とか、アラビアの香料とか、そういう綺麗な商売なら楽しくやれただろうに。
 商人として魅力的な品々を思い浮かべ、しかし実際の売り物は人間じゃあな、と虚しさに捕らわれる。夢物語に想像を膨らませても、屋敷に両親を残してきている彼は逃亡も許されない。
 奴隷としての生き方しか知らない彼は、既に体の一部のように思える鎖を甲板の手すりに預け、遠い海の彼方に思いを馳せた。

 異変が起こったのは、船が沖合いに出て海流を掴む、ちょうどその頃だった。
 大きな鳥が降り立つように甲板へ影が落ちる。船の隅で床を磨いていたシリウスは、いつか蹴りたいと願っていた主人の首が胴から離れ、血飛沫を上げるのを見た。
「……へ?」
 息を殺して獲物に飛び掛る、敏捷な殺意。そこにだけ別の方向から陽が差していると錯覚するほど、鮮やかな身のこなしで行われる殺戮――見覚えのない青年が剣を持ち、主人の首を刈り取っている。
 たん、と彼の足が床に着いた瞬間、周りで悲鳴が上がった。賊が出たと慌てふためく奴隷商人ばかりを的確に狙い、再び剣が振るわれ血が舞い踊る。
 襲撃者に躊躇いはなかった。剣の振り方に独特の癖があるが、その荒々しさが気迫に満ちて目を奪う。長い銀髪は背で踊るたび惜しみなく光を反射して、何の材質で出来ているのか、握られた剣の漆黒が際立った。
 海賊かと思ったが、接舷している船もなければ仲間が乗り込んでくる気配もない。今まで隠れてでもいたのだろうか、完全に一匹狼だった。
 シリウスは唖然として、これまで自分に鞭を振るってきた男達が次々と倒れてくるのを見守る。海の魔物が気紛れに現れて、船員達を引きずり込もうとしているのではと思った。それほど現実味がない。
 ――返り血を滴らせた横顔が、はっとするほど神々しかった。
「お前は奴隷か?」
 気がつくと、甲板の上にはシリウス一人しか残っていない。首だけをこちらに向けて尋ねる青年の声が意外に低く、言葉は語尾の掠れたギリシャ語で、ああ、次は自分が殺される番かと正気に戻った。
「そう、だが……」
 命乞いするのも忘れて答えると、相手は剣を軽く振って血を払いながら近づいてくる。両手をついて甲板を磨く姿勢のまま硬直しているシリウスの目の前で立ち止まり、剣を振り上げ地に突き立てた。
 がしぃん、と鈍い音が鳴る。
「……?」
 未だ息をしている事に驚いて手元を見ると、黒剣は長年シリウスを繋ぎとめていた鎖を完全に断ち切っていた。
「これで自由だ。好きに生きろ」
 そう言い放って青年は床から剣を抜くと、踵を返して船倉に向かう。皮サンダルの白い踵が目の端から消えた時、ようやくシリウスは顔を上げた。
 ――何だって?
 頭が追いつかない。ただ血錆の浮いた鎖が手の下に力なく垂れ下がっているのを見て、頭の奥から真っ白にせり上がる衝撃があった。
 ――今、何が。
 考える間もなく後を追っていた。青年は紫の肩布を揺らしながら船室の扉に手を掛けていて、開いた先にマケドニアの奴隷達がいる。
 足がもつれ転びそうになりながら、引きつったようにシリウスは笑んだ。両腕が軽すぎて体のバランスが取れない。走る途中で元主人の転がった首を蹴り飛ばし、これで屋敷に住んでいる両親を罰する人間もいなくなった、と安堵する。
 あいつは一体何者だろう。俺の鎖を切ったのなら、船倉に閉じ込められている奴隷たちの手枷にも同じように断罪を与えてくれるのだろうか。
 ――好きに生きろと。
 青年が言った一字一句を、母国の言葉に訳して彼らに伝えてやりたいと思った。そこから始まる光景を、見たいと思った。

 元来は陽気な男たちだったらしい。マケドニアの奴隷たちは唐突に現れた救い主に、ほとんど抱き付かんばかりに感謝した。青年が驚いて飛び退くと、今度は言葉を伝えたシリウスの方に飛び付いて歓声を上げた。
「こいつらは何と言っているんだ?」
「まあ、いろんなバリエーションで喜んでいるだけで」
 バルバロイの熱烈な歓迎で呆気に取られている青年の顔が、思った以上に若い。シリウスより年下だと言う事は一目瞭然だが、ようやく二十歳に手が届く頃だろうか。ともすれば力が抜けて幼くなる口元が先程の台詞を言ったのだと思うと、よく彼を創ってくれたと神様か何かに感謝したい気分になった。
「で、このままどうする予定で?」
 一通り男たちと喜び合ってから操舵輪の前に来る。航海術を心得ているシリウスが自然と舵を取る事になったが、隣に立つ青年の方は微かに目を細めて水平線を眺めただけだった。
「お前達は故郷に帰るんだろう。とりあえず私の事は、人目に付かない場所で降ろしてくれればいい」
 特に目的地がある訳でもないらしい。不意にシリウスは怪訝に思った。逃亡奴隷をかくまうだけで罪になる御時世に、奴隷船ごと解放するなんて大それた事をする理由が分からない。何か裏でもあるのだろうか。
「そう言えば、どうして助けてくれたんです?こんな見るからに奴隷船なんて襲っても金目の物なんざ積んでませんよ。俺らを売りさばくなら話は別ですけど」
「馬鹿を言え。金目当てなものか」
「……では何故?」
 問えば、光の加減によって赤味が増す瞳が鋭さを増した。異国で取れる水晶の色をしている。
「単に好かなかったからだ。人を売り買いするなど、虫唾が走る」
「……それだけの理由で?」
「悪いか」
 彼は顔色一つ変えない。吐き捨てた言葉の辛辣さとは裏腹に、意外すぎるほど単純な回答だった。
「奴隷船を解放するのは二度目だ。もうお前達も押し付けられた運命に従う必要はない。抗いたいなら、抗えばいい」
 あるいは単なる復讐かもな、と苦々しげになる横顔を見ながら、シリウスは呆れるよりも先に感心してしまった。
 なんて向こう見ずな事を言う人だろう。奴隷を哀れに思う人はいても、間違っているなど誰も言わない。奴隷制の発達により自由市民は肉体労働から開放され、その余力を公共生活や文化活動に振り分ける事が出来た。働く奴隷がいなくなったら都市だって機能しなくなる。王族は勿論、高名な学者や哲学者たちでさえ奴隷は生活に不可欠な物だと捕らえていたと言うのに。
 ――凄いな。
 それほど深くまで国に根付いた当たり前の制度を、まるで子供のように嫌だと言ってのける人間がいる事が衝撃的だった。仕方ない事だと心を飼い殺され、奴隷を売り払う手伝いをのうのうと続けていた自分が汚らわしく感じる。
「……俺も連れて行ってくれませんか?」
 こみあげる熱を言葉に押し込んで、シリウスは言った。
「俺、ここらへんの貿易路には詳しいんです。バルバロイだろうがヘレネスだろうが大概の言葉なら話せますし、航海にも慣れてますし、それなりに体も鍛えてますし、連れて行ったら必ず役に立ちますから……!」
 これほど熱心に自分を売り込む事になったのは初めてだった。少しでも負担の軽い生活をと交渉役なんていう技術を得たものの、本気の相手を前に上手い言葉なんてすっかり抜け落ちてしまう。
 青年は一瞬何を言われているのか分からないと言う風に眉を上げ、それから寄せた。
「本気か?」
「冗談でこんな事言いませんよ!」
 勢い込んだシリウスの剣幕に押されたのだろう。船の手すりに片腕を預け、少しおかしそうに口の端を上げる。試すような色合いを帯びる彼の瞳が、太陽を背にしたせいか今度は微かに青みを増した。
「やめておけ。どうせ追われる事になるぞ。ただ一度手助けをしただけの人間に、お前は何を賭けたいんだ?」
「……夢、ですよ」
 ようやく様になりそうな言葉が浮かぶ。
「あんたが何者で、何の為に奴隷解放なんて酔狂な事をするのかなんて知りません。でも、生まれた頃から奴隷として汚い仕事ばかりしてきた俺に、あんたは今、俺にでも少しはマシな生き方が出来るんじゃないかと夢を見せたんです。やっと、誇りが持てる仕事が出来るんじゃないかと思えたんですよ」
 ――そうだ、夢だ。
 もし自分が自由に商売を出来たなら、目を見張るほど美しい品々を取り扱ってみたいと思っていた。カルタゴの象牙、アラビアの香料、バルト海の琥珀――しかしそれに勝るとも劣らない紫水晶が今、目の前にあるではないか。
「俺はあんたの手助けをしたいんです。連れて行ってくれませんか?」
 その紫がシリウスを見定めるような沈黙が走る。宝石のような眼は急に沈んだかと思うと、背後を透かし見て薄く細められた。暫くは死にそうにないな、と呟いた声が安堵の響きを持っている。
「……そこまで言うなら、好きにしろ」
 何を思ったのか分からない。青年は苦笑にも近い目さばきでシリウスを流し見ると、どうなっても知らんぞ、と顎で水平線を示した。
「なら、とりあえず安全な陸地に到着するまでお前が舵を取れ。出来るか?」
「ッ、勿論!」
 胸が痛いほどの歓喜だった。心が躍るとはこの事だろう。シリウスは力強く頷き、ようやく自らの足場を得た感覚に任せるまま、中途半端に絡んで千切れかけていた手錠を無理やり引き抜いた。
 ――初めて自由に、自分の生き方を選べた。
 手首の傷に構わず舵を握る。視力の弱い左目が潤むほど、それは清々しい痛みだった。




* * * * * * 




 その後、故郷に送り届けようとしたマケドニア人たちに事情を話すと、彼らも仲間を置き去りにしたまま祖国に帰る事は出来ないと剣を取る。そして港に取って返し、奴隷市場の襲撃に成功。シリウスは自分が引き渡したメテールという少女が片足を引き摺りながらも泣いて喜んでいる光景を目にし、自分の罪がひとつ償われた事を知った。
 その後も彼らは奴隷船を中心に海戦で襲撃を繰り返し、同胞と物資を得て力を増していく事となる。やがて数年後には統率の取れた集団となり、ギリシャ諸国を巻き込んだ大戦での一大勢力となった。不思議な事に選び抜かれた彼らの部隊長たちは負け知らずで、決して権力に屈しない不死の軍団と恐れられていく。
 バルバロイを中心に結成された奴隷部隊を率いたのはむろん紫眼の狼であり、彼を慕って次第に仲間が増えていく中、その片腕となって実務を取り計らったのがシリウスであった。出会いこそ神懸り的なものを感じて付いてきた彼だったが、向こう見ずな将軍に対して徐々に人間的な親しみを覚え、その苛烈な生き方を傍らで支えたとされる。
 そして以前の名を捨てた無名の青年に、瞳の色にちなんで最初にアメティストスと呼びかけたのも、また彼であった。





END.
(2008.11.16)

エーゲ海と言ったら海戦だろう、という奴隷軍誕生のエピソードでした。まさかその後、本当に公式でエレフの海賊設定が出てくるとは。


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