それでも光を口にする










 青空が青空に見えない。太陽を太陽だと感じない。
 石が指に噛み付く。土が爪に食い込む。荷物の重みが骨を軋ませ、吸い込んだ土埃が空っぽの胃を溶かしにかかる――世界の全てが自分を追い立てるような、そんな生活が続いていた。
 エレフは豆が潰れた指の付け根をかばいながら、船から石材を荷車に積む。
 ずきずきと鈍痛を訴える掌がいくら熱を持っても、作業を止める事は出来なかった。上手く監視の眼を盗まればいいが、役人に見つかるとすかさず鞭が飛んでくる。
「畜生……ッ」
 彼は小さく悪態を吐き、空腹で萎える足を奮い立たせた。
 連日の労働で幼い体はすっかり疲れ切っていたが、ここで音を上げる訳にはいかない。今でも近くから遠くから、叱咤する役人たちの濁声が聞こえている。
(……どうしてこんな事になったんだろう)
 本来ならこの季節、恵み豊かなアルカディアの山麓で、彼は妹と共に山葡萄の収穫を楽しんでいたはずだ。あるいは父に狩りの手ほどきを受け、矢筒を背負って兎を追っていたかもしれない。母の待つ家へ帰り、賑やかな秋の食卓を囲む――そう当たり前に思い描いていた未来が、どうしてこれほど簡単に覆ってしまったのだろう。
 エレフは故郷から奴隷船に詰め込まれ、売り飛ばされた市場から更に海を渡ってきた少年だった。船から下りると気候はすっかり変わり、手枷をつけられて行き着いた地は、この乾いたアナトリアの平原。
 肉体労働の毎日で自分の心まで磨り減っていくのを感じたが、ろくな休息もないままでは満足に物を考える事も出来ない。父母の無事も分からず、ミーシャはどうしているだろうかと、離れ離れになった肉親の安否だけが気にかかる。
(なんでこんな事に……!)
 エレフは小さな唇を噛み締め、潤んだ視線を上げた。
 眼前には肥沃なトロイ平原が見え、西にはダーダネルス海峡の浅瀬がひたひたと広がっている。そうしてイダ山から流れるスカマンデル川を背に振り向けば、奴隷達が列を連なって向かう風の都――イリオンが聳え立っていた。
 なだらかな丘の裾野を、見上げるほどの幕壁がぐるりと囲んでいる。壁の厚さは時に十メートルにも及び、その要所には幾つかの鐘楼が建てられ、内部に抱え込んだ町を守っていた。
 その堅牢な城壁は未だ刃が欠けたように未完成であったが、奴隷たちの手によって遥か川向こうの石切り場から石材が港に運ばれてくると、あたかも地から壁が競りあがるように高さを増し、着々と積み上げられていくのだ。
(こんな砦、まるで化け物じゃないか)
 エレフがそう思うのも無理はない。イリオンは戦争や地震で崩壊するたび上に新しい街を築き、何層も複雑に重なり合う構造をしている。彼が積んだ石はやがて第七層の都市遺跡として遠い未来に発掘される事となるが、当時のエレフには終わりない苦役だとしか思えなかった。石積みの城壁は永遠に完成しないのではと錯覚するほど、巨大な要塞都市へ変貌し続けている。
「休んでないで働きやがれ!」
 ばしりと足元に鞭が走り、エレフは慌てて次の石を抱えに走った。運良く体に当たりはしなかったが、皮膚を裂く鞭の餌食になったが最後、豆が潰れたどころの騒ぎではない。
 理不尽な怒りを持て余しながら黙々と作業を進め、ようやく荷車が切り石で一杯になる。
 今度はこれを城壁の真下にまで運ばねばならない。体格の優れた男が前方の取っ手を引いてくれるので、エレフは後ろについて、他の奴隷たちと共に懸命に荷を押し始めた。
 イリオンへの道は上り坂となっている。横暴な役人の体罰を受けぬよう気をつけながら、一向は身を潜めるようにして道を急いだ。
「大丈夫か、坊主?」
 隣から掛けられた声に慰められ、エレフは僅かに視線を上げた。逆光になっている為よくは見えなかったが、同じように荷を押す中年の男が、こちらを見下ろしているのが分かる。
「……平気」
 ちょっと笑って答えると、男は「なら良かった」と口調を明るくさせた。
「俺も同じくらいのガキを故郷に残してきちまってるんで、ぶっ倒れないかとハラハラしてたんだよ。あまり見ない顔だが、最近こっちに来たのかい?」
「うん」
「そうか。食う物は食って、死なないように気ィつけなよ」
 エレフほどの少年が建築現場で働いているのが痛々しかったのだろう。気遣ってくれる事に心を打たれていると、頭上に、ふっと何かが通り過ぎる気配がある。
(鳥の影かな?)
 そう顔を上げ、ぎょっとした。話しかけてくれた男の真後ろに、密度の濃い、霧のような黒い影が不気味に纏わりついていたのだ。
「ん、どうしたんだ。俺の顔に何かついてるか?」
「……いや……おじさんも、気をつけて……」
 何と言えばいいのか分からず、エレフは曖昧に首を振った。
 どう告げればいいのだろう。きっと貴方は近いうちに死んでしまう、等と。
(どうしよう……)
 いつしか見えるようになった、不吉な黒い影の存在。その正体は分からぬものの、意味する事は一つ。
 死。
 何故自分がこんなものを見えるようになったのか、理由は定かではない。気付くと周りに溢れていた。奴隷達の背に付き纏うそれらが、確実に人の命を奪っていく。
(死神……なのか?)
 ミーシャと共に母の寝物語で、英雄の魂を導くヘルメスという神の名は聞いた事がある。恐ろしくて泣いてしまった為うろ覚えだが、他にも確か悪霊の話もあった。それは黒い翼や獰猛な爪と牙を持ち、戦場で屍骸の血を吸うという化け物じみた存在だったはず。
 こんな曖昧な影のような、ただ後ろに付き纏うだけの静かな存在は、知らない。
 エレフは我が身に芽生えた能力を半ば呪いながら、ぎゅうと目を瞑る。
 イリオンで倒れる者の数は知れない。使い捨てられる奴隷たちの悲痛な運命が、そこかしこで黒い影を落とし続けていた。




 * * * * * * * *




 奴隷たちの住む居住区は二つある。イリオン城壁の内側と外側に一つずつ造られており、エレフが割り当てられたのは内側の寝所、人がぎっしりと雑魚寝する大部屋だった。
 くたくたになって作業場から戻ると、次は食事の時間になる。出されるのはパンとオリーブに決まっていたが、腹に入るのならば何でもいい。先程の男がいつまで生きられるだろうかと思案しながら、エレフは配給場所へ歩き出した。
「待てよ!」
 が、道を塞がれる。立ちふさがったのは幾分年上の少年たち数人で、どれも険しい顔をしてエレフを睨みつけていた。何度か寝所や作業場で顔を見た事のある面子だが、特に親しく話した記憶もない。
「ティモスを密告したの、お前だろ!?」
 何が何だか分からないうちに詰問されて、エレフは目を白黒させた。ティモスという名にも、密告と言う単語にも覚えがない。困惑しながら眉を寄せる。
「……さあ、知らないけど」
「嘘吐け!じゃなきゃ誰が神官たちに告げ口するんだよ!それにお前、ティモスに気をつけろとか何とか言って、あいつを脅したそうじゃないか!」
「ああ……」
 それで何となく察しが付いた。数日前に同じ作業場で石積みをしていた少年が、神殿に運ぶ捧げ物から果物を盗んでいたのをエレフは目撃したのである。
 一緒になって食料を盗みたいのは山々だったが、その少年がやはり背後に黒い影を纏っていた為に怯んでしまい、多分悪い事が起こるから止めた方がいい、と忠告したのだ。
「違う、あれはただ……!」
「うるさい、卑怯者め!お前のせいでティモスは役人に連れて行かれちまったんだ。今頃どんな目にあってるか……!」
「ッ、僕は密告なんてしない!」
 エレフは怒鳴った。確かに仲間が大変な目にあって気が立っているのは分かるが、無関係の自分にまで言い掛かりを付けるのはお門違いだ。
「僕は何もしてない。そいつが勝手にヘマをして見つかっただけじゃないのか?」
「っ何だとテメェ!」
 反論されて少年たちも逆上したのか、胸倉をがしりと掴まれる。
 卑怯者呼ばわりされるのは我慢ならなかったが、疲労と空腹で力も出ないというのに、無謀な喧嘩を買ってしまった。しかも多勢に無勢、頭を下げない事には私刑と同じ状況である。
「おーいエレフ、何してんのー?」
 しかし緊迫した場に響いたのは、いかにも暢気な友人の声だった。
「早くしないと食事の時間が終わっちゃうぜー、食いっぱぐれるの嫌だろー?」
 緩い金の髪を稲穂のように揺らめかせ、ぱたぱたと配給所から少年が走ってくる。幼いながらに造作の整った顔立ちはアポロンの彫像を彷彿とさせるが、鼻の上に薄く浮かんだそばかすや、くるくると動く愛嬌のある表情が彼の人間味を色濃くしていた。
「ちっ……オリオンじゃねぇか」
 エレフより先に反応したのは、言い掛かりをつけてきた少年の方だ。出鼻を挫かれて不満げに舌打ちすると、こちらとオリオンの顔を見比べている。
「何だよ。こいつ、お前の知り合いか?」
「ん、ああ。ダチだけど何かあったの?」
 二人ともイリオンでの生活が長いせいか、面識があったようだ。胸倉を捕まれたまま呼吸が苦しいエレフが何も言えずにいると、安心しろと言うように、オリオンがひっそりと片目を瞑ってくれる。
「バッカだなー、元から神殿への荷物ってチェックが厳しいんだ。バレるのも仕方ないぜ。エレフは密告なんてする奴じゃないし、濡れ衣だと思うけど」
「だけど……!」
「まあまあ、騒ぎを起こすと見張りの奴がやって来ちまう。そうなるとお前らもヤバイだろ?こいつの事はオレが保証するからさ、とりあえず見逃してやってくれよー」
 話を聞くとオリオンは大袈裟に手を合わせて、なぁ?と頼み込んだ。本心から納得した訳ではないだろうが、相手方も自分たちが強引だと認めざるを得なかったのだろう。渋々引き下がっていった。
「悪い……ありがと、オリオン」
「お間抜けさん。なーに絡まれてんの?」
 半ば話に置いてきぼりのまま救われたエレフが礼を言うと、ふふん、とオリオンはからかうように顔を覗き込んでくる。労役の土埃で顔は薄汚れていたが、溌剌とした瞳は颯爽として、雰囲気だけ見れば好きなだけ遊びまわってきた子供のようだ。
 少し前から親しくなったが、オリオンは珍しい種類の少年である。奴隷の卑屈さがまるでない。人懐っこく、世渡りが上手かった。オリオンを見ると大人たちは故郷の弟を思い出し、同世代の子供たちは面倒見の良い兄貴分を見つけたような気持ちで彼を慕う。役人でさえ態度を軟化させているようだった。
 なかなか周りに馴染めずにいるエレフから見れば、随分と器用だなと感心してしまう。人里離れた故郷で同世代の子供と言えば双子の妹しかいなかったから、あれこれと世話を焼いてくれる彼は、エレフにとって初めての友人と言えた。
「そうでなくてもエレフは目立つんだから、気をつけて行動した方がいいぜ。お前の髪とか目とか珍しいしさ。気味が悪いって思う奴も多いみたいだし」
「ああ、そうか。自分じゃあまり気にしないから」
「で、何か誤解されるような事でもしたの?」
 まさか他人の死が見えるせいだとも言えず、エレフは言葉に詰まった。自分でも信じられぬ奇妙な能力の事を、誰かに話す勇気がない。
「……ま、いいや。さっさと食べに行こうぜ。食い終わったら寝場所も確保しなきゃなんないしさ。もうオレ、くたくたなんだ」
 エレフの迷いを察したのか、オリオンは軽やかに身を翻して歩いていく。
 この聡い少年に再び感謝の念が湧いたが、何と告げればいいのか分からず、エレフはただ彼の後を追い、ばしりと背を叩くに留めた。




 * * * * * * *




 この奴隷少年の生涯を描いた叙事詩『エレフセイア』では、彼を始めとする英雄達を高らかに謳い上げたもので、作者ミロスの視点は慈しむように、運命に翻弄される彼らの勇姿に向けられている。
 その為、時代考証に必要な詳しい年月は描写されていない。しかしイリオンでの奴隷生活は、おそらく二年から三年の間であったろうと学者達の間で推測されている。叙事詩に挟み込まれたアルカディア獅子王の東方遠征の挿話から、大よその月日を換算した結果である。
 その二年から三年の間、イリオンで労役を重ねていた際のエレフの生活は、無二の友オリオンがあれこれと口を出してくれるお陰で幾分楽になっていた。彼も後に悲劇の英雄の一人として数えられる事になるが、その明朗な人柄から多くの人々に親しまれ、後世の弓術大会では優勝者に『オリオンの花冠』と呼ばれる頭飾りが贈られる事になっている。

 オリオンは辛い石運びの仕事ばかりではなく、要領良く楽な現場に行けるよう、エレフに取り計らってくれた。ちょうど慌しく役人達があれこれ相談している場所に顔を出して、ちょっとしたお使いを頼まれるように仕組んだのである。彼らしい鮮やかな手腕であった。
「あいつらだって子供が力仕事に向いてるなんて思っちゃいないって。上手く立ち回ればさ、買出しや飯炊きの手伝いとか、そーゆー楽な仕事に回してくれるんだ」
 奴隷が逃亡しないように城門には見張りがついていたが、石積みの作業場から出ると比較的イリオンの町は自由に歩ける。手を戒める鎖は相変わらずだが、ぶらぶらとエレフとオリオンは買い込んだ荷物を抱えて市場を歩いた。
 あまり帰りが遅くなると仕置きが待っている。彼らは再び奴隷居住区に戻りながら、はあ、と溜息を吐いた。傍らでは同じ年頃の自由市民の子供達が、きゃっきゃと走り回って遊んでいる。
「イリオンの現場に売り飛ばされるなんて、オレらって運が悪いよなぁ。どちらもツラだけは綺麗なんだからさぁ、良家の下男とかに買われたっておかしくねーのに」
「バカ。自分で言うな」
 ぼやいたオリオンの言葉に、エレフは少し笑った。それにしても彼と出会ってから、どうにも言葉使いが崩れてきてしまっている。隣でオリオンは不服そうに唇を尖らせた。
「だってよー、アルカディアやボイオティアの奴隷なら給料だって貰えるし、運がよければ出世も出来るんだぜ。そんで哲学者になった奴とかいるとか聞くとさぁ、羨ましいじゃん」
「それでも奴隷は奴隷だろ。羨ましいも何も、どうせ人間扱いされないに決まってる」
「待遇がいいに越した事ないだろ?」
 オリオンは持っていた荷物の中から、ひっそり買ってきた果物を取り出した。
「それに誰かに使われてもさ、ある程度美味いもん食べれて自由にやらせて貰えんなら、それはもう奴隷じゃないと思うんだ。どうせ役人だって上の奴らにこき使われてるに過ぎないんだし。要は自分で生きてるって気概だよなぁ」
 そこまで言って、はたと笑顔になる。
「そっか。じゃあオレは、今だって奴隷じゃないじゃん」
 もしゃりと果物を噛む友人を横目に、エレフは呆れ返った。
「……バカもそこまで行けば大物かもな」
「そう、大物なのよ。オレ様」
 オリオンの持つ視線は随分とシンプルで、美しい形をしているのかもしれない。エレフはそう羨んだが、どうしても同じように考える事は出来なかった。楽な仕事ばかりがある訳ではないし、彼の持つ紫眼の能力が、常に死に満ちた世界の過酷さを伝えてならなかったからである。
 だがオリオンは自分の発言に至極満足していたようで、暫く経った後、時間を見つけて一人こそこそと小細工に勤しみ始めた。道端で拾った鋭い石を片手に、人気のない城壁の下で一心に作業している。
「何してるんだ?」
 怪訝に思ったエレフが背後から覗き込むと、オリオンは積み途中の石材に文字を刻み込んでいる最中だった。繋ぎ目の位置だから他の石を積んでしまえば見えなくなってしまうが、何をしたいのだろう。
「へえ。字なんて書けたんだな」
「ふふん、このオリオン様を見くびるなよ?」
 彼が刻んでいたのは、自らの名前だった。上手くいかないのか何度も石を持ち替えて、こつこつと下手な字を残そうと躍起になっている。名前が終わると、次は何事か短い文章を刻み始めた。
「今度は何?」
「鞭を振るしか能のない役人たちが死んでも、俺らが汗水たらして作った城壁はさ、何世紀も残り続けるんだ。よっぽど俺らの方が凄くないかと、そういう主張」
 胸を張り、オリオンは誇らしげに笑う。底抜けに明るい友人の発言にエレフは言葉も忘れ、少しの間、その笑顔を凝視した。
「……お前、心底バカだな」
「エレフと違って前向きなだけですよーっと」
「あ、勝手に僕の名前まで書くな!」
「気にしない気にしない。友情の証だって」
「しかも字が間違ってるだろ!」
「あれ、こうだっけ?」
「本当にバカだなお前は……!」
 それは少年のささやかな反撃だったのだろう。オリオンが書いたとされる碑文は、遺跡発掘の際に幸運ながら無傷で出土される事になる。
 実に二十世紀以上の年月に渡って幼少時の英雄の名を刻んだ切り石には、『たとえ身体は奴隷なるも、精神は自由なり。ここに残す我らの意志こそ、鎖に縛られぬ自由の名なり』と記されていた。





END.

エレフの口調が「僕→俺」に変わり始めている時期です。『たとえ身体は奴隷なるも、精神は自由なり』はソフォクレスという人の格言から拝借しました。


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