全ての名残は対岸の












「そろそろ殿下にも相棒が必要だと思いまして」
 そう言ってカストルが連れて来た短毛の子犬が、狩りをするようになった王子への最初の贈り物だった。
「まだ小さいですが、今から躾けて殿下に懐いてくれれば、きっと良い猟犬になってくれますよ」
「本当か?」
 従者の腕の中で鼻をくんくんと鳴らし、警戒心なく尻尾を振る小さな生き物にレオンは顔を輝かせた。下の弟妹が死んだと聞かされてから塞ぎ込む事も多くなった彼だが、相棒と言う胸躍る言葉の響きと、何よりつぶらな瞳の愛らしさに心を惹かれのだろう。
 大型犬らしいが、今はまだレオンの両手で抱けるほど。毛色は黒味を帯びた焦げ茶色で、手渡された瞬間にはこちらの頬を舐めてきた。
「はは、猟犬のはずが随分と可愛らしいな。逞しく育ってくれないと困るぞ」
 ぺたぺたとした垂れ耳の感触が珍しく、レオンは飽きもせずに触っては面白がった。さっそくパリスと名前を付けて世話をすると、元から人懐っこい性格なのかすぐに懐いてくれる。子犬は狩猟犬にしては勝気で好奇心が強く、ころころと転がるように駆けてきては常に主人の後を付いてこようとするので、王宮内ではちょっとした見世物となった。
「どうも可愛すぎるのがいけない。なかなか本気で怒れぬのだ」
 困ったようにレオンが言い訳する場面も増えた。授業を受ける間などは部屋から追い出さなくてはならないが、扉の隙間から無理やり入ってこようとするパリスの姿に絆され、宥めているうちに約束の時間を過ぎてしまう。躾けはしてあるのだが、とにかく主人から離れない事が一番の忠義だと子犬は信じ込んでいるようで、待たされた家庭教師も微笑ましい主従に苦笑するばかりだった。
 こうして王子の日課に愛犬との散歩と言う項目が加わったのである。訓練も兼ねているので首輪を外してやると、逃げる素振りもなくレオンの周りをぐるぐると回って可愛らしい。
「行くぞ、パリス!」
 足取りも軽く庭園を駆ける。丘の上には休憩できるよう、栗の木で出来たあずまやが建っていた。子犬も毎日立ち寄る事を覚えているのか、偵察するように先に立って走っていく。周囲に植え込まれた花が咲き乱れ、昼を過ぎるとアルカディアの美しい山野を堪能できるレオン気に入りの場所だった。
 と、そこで珍しく人の姿を見つけて立ち止まる。
 あずまやに座っているのは側室のシャウラ――スコルピオスの母だった。
 息子と同じ真紅の髪を背に流し、じっと庭園の向こうを眺めている。距離をおいて侍女が二人控えていた。
 普段から離宮に閉じこもっている彼女と話した機会は多くない。だが、自分たち正室を恨んでいる事は充分に知っている。レオンは表情を曇らせた。
 引き返そうかとも思ったが、先を行ったパリスが警戒の唸り声を上げたので、こちらの存在を知られてしまったらしい。女達の視線が集まるのを感じ、レオンは気を引き締めて背筋を伸ばすと、緊張した面持ちで丘を登った。
「ご休憩のところを邪魔して申し訳ありません。お久しぶりです、シャウラ様」
「ああ……貴方ですか」
 声をかけると、胡乱げに第二王妃は顔を向ける。しばらく見ないうちに落ち窪んだ彼女の眼窩から病んだ気配を感じ、レオンは内心でたじろいだ。神経質な細い眉や顎の輪郭、大理石を思わせる青白い肌。体調を崩しているとは聞いていたが、以前よりも随分と老いて見える。
「こんな場所で会うとは互いに運のないこと……顔を合わせた所で実りもないでしょうに……」
 棘のある視線がゆっくりと体の上を這う。何と答えればいいのか分からずに眉をひそめると、同じ空気を吸うのも不快とばかりにシャウラは席を立った。
 だが、やはり病み上がりなのだろう。杖を使っても足元がふらつく彼女に同情し、育ちの良い王子は近寄って彼女の腕を取ろうとした。
「大丈夫ですか。手を……」
「ッ、必要ありません。お止しなさい!」
 途端に顔を険しくさせたの手が振り上げられ、シャウラの長い爪がレオンの腕を掻いた。悲鳴じみた掠れ声が上がる。
「嫌だ、汚らわしいッ……退きなさい、退きなさいったら……!」
 強すぎる拒絶にレオンも呆気に取られた。目を見開いて髪を振り乱した彼女は、悪霊でも相手にしているように必死に距離を取ろうとする。裂けた皮膚が小さく痛んだが、急に殺気立った王妃の様子こそ背筋が寒くなった。
 ――まるで何かに憑かれたようだ。
 病んでいるのは体だけではないのかもしれない。いつもの事なのか侍女たちも特別慌てるような事はなく、落ち着いて下さいませと彼女を左右から支えたが、耳に届いているのかさえ分からない。
「貴方が、貴方がいつも邪魔をする。お前の母も、父も、お前も、私を汚してばかり……!馬鹿にして……!」
 肌が赤くなるほど触れた部分を擦り、シャウラは目を潤ませて怨嗟を吐き散らした。取り乱した彼女を見てパリスも異変を感じたのか、主人を守ろうと姿勢を低くして唸り始める。
「何です、この犬は……嫌だ、汚い、汚い、汚い……ッ!」
「パリス、止めろ。シャウラ様は敵ではないぞ」
 元から動物は好きではないのだろう。威嚇する子犬を宥めてレオンが場を収めようとしたが、それを待たずにシャウラは持っていた杖を振り上げた。
 きゃん、と上がった悲鳴に血の気が引く。子犬は前足を打たれたのか後ろに飛びのいて、先程とは違う細い声音で喉を鳴らしたが、シャウラは構わず再度殴りつけようと腕を振りかざした。
「――止めてください!」
 堪らずにレオンが飛び出る。肌がぴりぴりと電位を帯びているのが分かった。感情に任せて雷神の力を呼び寄せてしまうのは危険だと知ってはいたが、幼い彼には制御する事が出来ない。子犬を守る事だけで頭が一杯だった。琥珀の瞳孔が引き絞られる。
 近づく杖を見据えて黄金の光が小さく肌の上で火花を散らし、雷が顕現する直前――出し抜けにレオンの横っ面を強く叩く者があった。
 がくん、と視界が横にずれる。
「何をしている、馬鹿者が」
 兄、だった。
「母上を殺すつもりか?」
 いつの間に駆けつけたのだろう。少年から既に青年の域にまで成長している大人びた面立ちの中、冷然とこちらを見下ろす赤い瞳がある。
「あ……」
 殴られた衝撃でよろめいたレオンはぽかんとして兄を見上げ、そしてようやく自分が雷神の力を使う所だったのだと気付くと、冷水を浴びたように顔を青ざめさせた。無意識の事とは言え、か弱い女性に向かって何て事を――。
「嗚呼スコルピオス!よく母の所に来てくれました……!」
 シャウラの方は愛息を見ると杖を放り出し、ころりと満面の笑みを浮かべた。両者の間に入ったスコルピオスの頬を両手で掴むと、恋人でも迎えるように陶然と囁いている。
「やはり外は嫌だわ……こんな不快な事ばかり……だがお前がいれば私は……」
「……母上の体にも障ります。ご無理をする事はない。もう屋敷にお帰りなさっては?」
「ええ、勿論そうしましょうね。ですが、お前は一緒に来てはくれぬのですか?」
「弟に忠言してから参ります」
 言葉を交わす母子の姿を視界に収めてはいたが、打ちのめされたレオンは棒立ちになったまま放心していた。前足を引きずって子犬が擦り寄ってきたのも気付かない。最初の非は暴れ出したシャウラにあるとしても、それを上回る罪を自分は犯すところだったのだ。頭の中で雷で倒れる彼女の姿が浮かんでは消えていく。
「おい」
 びくりとする。かけられた声を辿って見上げると、立ちはだかる兄の姿が逆光で大きく感じた。
 ――また嫌われてしまった。
 叱責を覚悟してレオンは顔を歪める。力を制御できなかった自己嫌悪とも相まって、相手の顔を直視できなかった。泳がせた視線をどこに持っていくべきか迷い、無意識に首筋を押さえる。殴られた頬よりも痛むような気がした。
「兄上……」
 それを見てスコルピオスがどう思ったのか分からない。動揺している弟を無言で見下ろしたまま目を細め、その視線を更に地面へと落とした。
「今になって子守犬か?」
 小さく毛を逆立てるパリスを見て言う。レオンは少し面食らった。話の矛先が先にこちらに向くとは思わなかった為、いつ詰られるのかと体を強張らせたまま子犬を抱き上げ、恐々と応じる。
「いえ、あの、猟犬として育てようと飼い始めたばかりで」
「猟犬か。庇った所で、前足に怪我をしたなら使い物にならんだろうが」
 レオンはぎょっとして腕の中のパリスを見た。打たれた前足から血は出ていないが、打撃の傷は骨や肉を痛ませるものだ。軽く足を引きずっているのは分かったが、どれほど酷い怪我なのか素人目では判断できない。
「……いいえ。このくらいの怪我、どうと言う事はありません。治してやります」
 唇を噛んでレオンが応えると、ほう、と異母兄は薄く口の端を上げた。
「手間のかかる事を。走るのが仕事の奴らにとって致命的だと思うがな」
「……猟犬と言っても様々です。匂いを辿り、獲物の場所を知らせてくれるだけでもいいのです」
「随分と甘い事を言う」
 スコルピオスがレオンの腕の中を覗き込む素振りを見せると、ウーッ、とパリスは牙を剥いて威嚇した。剣呑な雰囲気と主人の緊張を感じての事だろう。伸ばしかけた手を引き、兄は鼻で笑った。
「見上げたものだ。少なくとも、主人の敵を嗅ぎつける事は出来るようだな」
 ――兄上は私の敵なのですか?
 そう、声が喉元まで出かかった。だが答えを聞く覚悟が出来ずレオンは言葉を飲み、ぐっと奥歯を噛むと視線を上げる。これ以上、無様に打ちひしがれている訳にもいかなかった。嫌われようが、せめて見苦しくないようにしなければならない。
「先程はシャウラ様に失礼な事をしてしまい、申し訳ありません。改めてお詫びにうかがうと、兄上からお伝え願えませんか?」
「必要ない。また不用意にブロンディスの力を出されても迷惑なだけだ。母上に詫びる前に、まずは自らの未熟さを恥じるがいい」
「……精進、いたします」
 返す言葉もない。スコルピオスの台詞は的を射ており、レオンは顎を引いて情けない気持ちを噛み締めた。
 雷神の加護を受けているとは言え、扱えなければ単なる災いの種だ。せめて私が王位に相応しい人間にならなければ兄上にも申し訳が立たぬ、とレオンは苦く瞳を伏せる。
 スコルピオスはそれ以上何も言わなかった。元から多くを語る兄弟間ではない。軽く目を細めると母を追って離宮に向かうつもりなのか、無言で横を通り過ぎていく。
 その時、兄の掌が視界に迫り、レオンの腕の中にいる子犬の頭をぽんと叩いた。
 前髪が風で揺れる。撫でるように毛並みに触れた手は、行過ぎるままに離れていった。
「……?」
 意外な行動に視線を上げても、スコルピオスの横顔に表情らしきものは見えない。真っ直ぐに前方を向いている。その背が徐々に遠ざかって行くのを見守りながら、レオンは不意に感情が揺らぐのを感じた。
 ――そう言えば、久々にまともに話せた。
 優しい言葉など一切ない。手加減されていたとは言え、殴られた頬もじくじくと痛む。ただ言葉を交わし、昔レオンの首を絞めた手が子犬の頭を優しく叩いていった――それだけだと言うのに。
「……兄上に撫でられるなんて貴重だぞ、パリス」
 自然と泣き笑いに近い表情になる。どう思えばいいのか分からなかった。兄の痕跡へ重ねるようにそっと子犬の頭をくすぐると、レオンは気を取り直して離宮とは逆方向へ歩き出す。帰って手当てをしてやらなければならない。
 背中合わせに離れていく兄の気配を遠くで感じながら、幼い王子は振り切るように丘を下っていった。







END.
(2008.12.07)

子犬の名前は『イリアス』に登場するトロイア王子から。戦争を起こしてしまう張本人なので縁起が悪いですが、いかにも王族らしいキラキラした名前なので拝借しました。


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