カザー・カダル前編












 鞘から抜かれた剣が次々と血を味わわずにはいられないように、一度起こった不穏の出来事は、更に別の出来事を呼び寄せる。
 闘いが憎しみを結び、偶然が必然と変貌し、やがて大きな流れとなって時代を動かした。それはどの世界、どの時代においても同じ事――全ての地獄は前兆あって胎動する。
 その晩ラミレスの元に訪れた西方からの使者も、そう言った種類の禍々しさを含んでいた。
 その客が天幕へ現れたのは、イスラム世界では一日が始まるとされる夜の始まりの刻限。つまり太陽が地平に没した瞬間。
 客人から渡された手紙を読みながら、ラミレスは不愉快な表情を隠そうとしなかった。目の前で跪いているのは漆黒の長衣に身を包んだ代表者の男で、頭全体をすっぽりと覆う頭巾を被っている。
 苦行僧たちによく見られる装束であるから特に不審には思わなかった。同じような男たちが十数人、天幕の外でラミレスの許可を待っていようとも特別気にかける事柄ではない。
 が、本能的な嫌悪感は拭いようがなかった。何せ手紙の内容が内容だ。
「……どうも、私には話が見えないのだが」
 ラミレスは努めて冷静に切り出した。
「我々の間ではイスラム軍との正面決戦の準備が進んでいる。聖都奪還には正攻法で、堂々と臨むつもりだ。今になって君達のような部外者に介入をされるのは、正直気に食わないな」
「お優しい事で」
 男は低く答えた。表情の見えない装束の下、小さく嘲笑する気配。恭しい態度は崩さないが、その隙のない態度から油断のならない相手だと知れる。
「ここは戦場。どのような卑怯な手も有意義な戦略となります。伝染病で亡くなった者の死体をグラナダに放り込んで、内側から腐らせてやればいいと忠言しているのです」
「……卑怯極まりないがな」
「それも町を混乱させるだけの目的。奴らもすぐに気付いて手を打つでしょうから、それほど病人も出ないでしょう。ラミレス殿に迷惑はかけません。ただ、協力して欲しい事が一つあるだけの事……」
「それが迷惑だとは考えないのか?」
 皮肉で返しても通用するような相手ではなかった。男はラミレスの冷たい物言いに気づかぬふりをしたまま、ふてぶてしく続ける。
「これには上の許可も取っております。貴方様が断ったとなればご実家の立場もないでしょう。特に寡婦となった貴方の義姉君は、お辛いでしょうな」
 含みのある言い方にラミレスは血相を変えた。死んだ実兄の妻とは彼も幼馴染であり、一時は若い胸を焦がした事もある相手だ。結局その恋を実らせる事はなかったものの、せめて神に幸いを祈り、遠方から彼女の待つ祖国を守れればいいと割り切っていたのに――。
「……貴様……っ!義姉上を人質にしたと言うのか!?」
「いやはや、随分と人聞きの悪い事をおっしゃる。しかし貴殿のご返答次第では今後そのような可能性も出てくるでしょうな」
「……くそっ、一体お前たちは何が望みだ?」
 元から敬虔で情の厚い青年将校だ。吐き捨てるラミレスの表情から勝利を確信したのか、使者はフードの下から口元を歪ませて笑う。
「簡単な事です。雷神の末裔である貴方の血を、少しお貸し頂きたい――」




 * * * * * * * *


 

 混乱に陥ったグラナダの町を悪魔に抱えられて脱出してから数日、ライラは再び岩窟寺院の冷たい寝台に横になっていた。
 矢を受けた傷口自体は深くない。しかし綻んだ部分から人々の憎悪を受け入れていくように、ライラは急激に病んでいった。
 病む――という言い方が適当なのかは分からない。最初は単なる貧血かと思っていたが、徐々に身体のだるさが酷くなり、時折、胸を突くような激しい痛みを覚える。既に日付の感覚も曖昧で、寝たり起きたりを繰り返していた。
 ずるり、ずるり、と胸が苦しい。それは熱と冷気をそれぞれ帯びた二匹の蛇をライラに連想させた。彼女の心臓を食い破ろうと機会を窺い、牙を剥いている――。
『大丈夫か?』
 気遣わしげな声を聞き止めて、うなされていた彼女は縋るように目を開けた。不吉な想像を追い払った声の持ち主は、まるで目を離したら少女が消えてしまうのではと危惧しているように、常に傍らに控えてくれている。心細さを救われ、ライラは凝り固まっていた息を吐き出した。
「うん……気分が少し悪いだけ……」
『無理をするな。汗が酷い』
 悪魔の不器用な手が額に張り付いた髪を払う。僅かに触れた爪先の熱さに、ふっと太陽の息吹を感じた。熱を出した子供が母親の手に安らぐように、ライラは再び目を瞑る。
 強面の見た目に反し、看病をする彼は随分と物静かだった。契約した時は無我夢中だったし、その後も周りで起こった出来事や自分の悲しさばかりに必死になっていたけれど、悪魔の誠実さが今になって身に染みる。こうして緩やかに停滞していく時間の中、肉親も失っても尚、彼が傍にいてくれる事が嬉しかった。
「シャイターン……このまま私は死ぬの……?」
 だからだろうか。聞くのが怖いような質問もするりと口を出ていく。悪魔はその問いが不快だったのか、眉間に微かな皺を刻んだ。
『……死なせない。君は元は人間だ。今は私と同じ眷属になり切れず、一時的に焔が薄まっているだけだ』
 そう呟くと、寝台に流れる彼女の髪の一房を手に取る。彼と出合った事で橙色に染まっていた髪が、徐々に人間であった頃の黒髪に戻ろうとしていた。彼が思案げに見遣って髪に口付けると、その部分は再び明るい灼熱色に燃え上がる。
 けれども一時しのぎなのだろう。彼は面持ちを沈ませたまま、掴めない未来を読み取ろうとするように少女から目を離さなかった。その視線を感じ、ライラは寂しげに笑む。
「私が、人を憎みきれないせい……?本当は、あの世界の中に戻りたいと思っているのから、貴方と同じ物になれないのかしら……」
『………』
 相手は何も答えなかったが、沈痛な無言がかえって雄弁に事の深刻さを感じさせた。ライラは気詰まりな思いで目を瞑る。
 契約によって永らえた命だ。それが切れてしまうのなら、あの時終わるはずだった身体など、どうなっても不思議ではない。
 ――随分と呆気ないな。
 結局、自分は何も出来なかったのだ。悪戯に争い事に首を突っ込んで、悪魔の手を無駄に汚し、幾つかの命を散らしてしまった。浅はかな自分の命を引き伸ばした所で辛いだけなのかもしれない、とさえ思う。
 平穏な生活から全てを奪い去った争いを、許さないつもりだった。しかし戦場で懸命に生きる人々の正しさも愚かさを、ライラは非難できなくなっている。視点を変えさえすれば変わってしまう価値観の中で、分かり合えない自分達が哀れでならなかった。
 誰もが自分一人ではどうにもならない、時代と言う流れの中で血を流している。自分ごときが世界の何を見極められると思い上がっていたのだろう。何を憎めばいいのかさえ分からないなんて、本当に自分は至らないと泣きたくなった。
 身体が弱るに従って、精神も疲労していくのを感じる。既に死を怖いと思う感覚も鈍って、あるのはただ奇妙に凪いだ心地だけだ。よるべない存在の切なさがライラを弱気にさせている。彼女はかつての暮らしを思い出しながら、昔話をするように囁いた。
「あのね……イスラムでは、全ての人々の両肩に天使がいると言われているの。右肩はその人の善行を、左肩は悪行を記録してね……死んだ後、最後の審判の日に秤にかけられるんですって……神様を捨ててしまった私は、どう報告されるのかしら……」
『そんなもの、私が追い払う』
 おぼろげなライラのうわ言に、悪魔は強く唇を噛む。
『神や天使などに縋るな。私達は永遠を生きる、たった二人だけの種族だ』
 獣の威嚇音に似た唸り声が喉から漏れた。再び灼熱の気配を感じる。悪魔の献身を嬉しく思うと同時に、何か空恐ろしいような気がして、ライラは彼の顔を見つめた。
 ――もし私が死んでしまったら、この人はどうなるのだろう。
 自分の亡骸を抱き、ぽつんと砂漠に佇む彼の姿を思い浮かべる。ライラは妙に後ろめたい気持ちを抱えたまま、再び弱まる焔の中で昏睡した。




 * * * * * * * *


 

 周りを取り巻くのは密集した森と、その先に広がる枯れた荒野。瑠璃色の空に星々が乱雑に散らばり始めると、廃墟となった寺院は残照の名残を引きずって、露台に立つ悪魔の髪を赤々と照らした。
 情のない風が頬を叩きつけ、苛立ちも露わに彼は地平を見遣る。ライラが病んでから、既に月が一巡りするほどの時間がたっていた。
 ざわざわと大気が騒いでいるのを感じる。獣が水の匂いを嗅ぎ付けるように、目には見えない不吉な淀みが彼の鼻先を掠めた。幾つもの力ない精霊たちが砂の上を駆け、何かを知らせるように落ち着かない。
『――前兆、か』
 自分が封印から目覚めた事を発端に、何かが起ころうとしているのが感じられた。世界は何かの出現に向けて震えているように思える。彼は北から吹く風に不穏な物を感じたが、魔力を削がれた身では確かな事は読み取れなかった。
 契約を遂行したにも関わらずライラが世界の楔から抜け落ちようとしているのも、この影響だろうか。眠りから覚めるたびに力を注いでやっているが様態は芳しくない。このままでは彼女の焔は再び掻き消されるだろう。
 ――何故見捨てないのだ、という声が本能の淵から沸き起こる。
 封印は解かれた。もはや自分は自由の身。契約が効力を失いつつある以上、足手まといの人の子など捨て置けばいいではないか、と。
 だが床に伏せっている少女の翳りある生命を見ていると、我知らずに狼狽する自分がいた。半ば追い詰められた思いで軽く胸元を押さえると、形容しがたい感情が背筋を駆け上がっていく。何が自分を駆り立てるのか、その理由を彼はまだ辿れない。
 ――失わせてなるものか。
 悪魔は右腕を宙に差し伸べて眷属を呼んだ。最も低級だが使いやすい黒鳥たちの群が下界の様子を伝えてくる。ここ暫くライラの休息を為ここに留まっていたが、世界が静かに胎動し始めている以上、無関心でいる事は出来ないだろう。
 手の甲に止まらせた鳥達は、主人にそれぞれの空で目にした事を物語った。しかし目ぼしい情報はなく、再び彼らを空に放つ。焦燥はじわじわと足元から忍び込んできていた。
 何が起きようが構わない。本来なら彼は世界の輪から外れた場所におり、既に忘れ去られたものとして存在していたのだから。
 ――しかし、もう達観はできない。もう関わってしまった。
 力の減じた体が恨めしい。自分の予測できない事態が襲った場合、果たしてどこまで少女を守り抜けるだろう。再生しつつある二対の羽根を羽ばたかせてみたが、背中に激しい疼きを感じて彼は顔をしかめた。それは痛みでなく、もっと別種なもの――使い方を忘れた焔の本流が体内を突き破ろうとしているようにも思える。 
 一抹の不安に駆られていると、ぎゃあ、と慌しく鳥が彼の肩にしがみ付いて鳴き始めた。
『どうした?』
 尋ねてみるが答えはない。次第に他の鳥たちも鳴き始めて辺りは騒然とする。不安に駆られた悪魔は露台から更に上へと飛び上がると、岸壁の頂上から地平を見遣った。
 雲が急激に黒く染まり、空を不気味に渦巻かせている。砂がざらざらと煙を立てて足元を駆け抜けて行き、凄まじい突風が岩に叩き付けた。風と言うよりも荒れた波に近い。
『自然の嵐ではない……?』
 唐突な変化に胸騒ぎが大きくなる。視界を塗り替えるように雨雲と砂煙が湧き上がり、異空間を思わせる不穏な気配が山々さえ飲み込もうと激しく牙を剥いていた。ごうごうと唸る空は尋常ではない。
『――…ッ…!』
 ライラの所に戻ろうと、そう気を焦らせたのが油断を招いた。視界に届かぬ所で起こった雷が大気を震わせ、凄まじい光と共に悪魔の体を撃ったのだ。神に属する彼ならば普通の衝撃など通用しないが、それは明らかに別格の力。美しい落雷。

I want to way law by chronicle……Mere repeat way law by chronicle……

 悪魔が跪いた瞬間を狙ったかのように、どこからか平坦な歌が響いてくる。何人もの呪詛を重ねた声は重々しく耳に届き、しまった、と思った時には次の変化が訪れていた。
 ざわりと砂が風紋を描き、その中心から、小さな黒い点が湧き出てくる。無数のそれは滑るように砂の上を走り、彼を取り囲んだ。
 黒い点は、文字だった。砂に浮かび上がった魔法陣から何万字にも渡るインクが命を得て地面を駆け、虫のように群がり、悪魔の体を拘束したのだ。鎖のように連結した文字は神経まで食い込み、彼を岸壁から地面まで引きずり落とす。
『く……っ』
 文字の鎖は更に悪魔を地面に縫い付けた。抵抗しようとしても力が出ない。先程の落雷で片側の角が折れているのに気付き、彼は小さく舌打ちした。
 これは古い魔術だ。文字が触れた所から徐々に焔を吸い出され、感覚が弱っていく。
「――やっと捕まえたよ、ベスティア」
 俯けた顔の先、ふと黒い靴先が覗いた。
 ぱたんと本を閉じて姿を現した男の姿を、悪魔は知らない。嵐と同じように茂みから突如歩み出た男は全身を黒いローブで覆っていた。未だ収まらない強風の中で聞き取る事も容易ではないが、しわがれた声音から壮年の男の物だと知れる。
「それとも書の領域から抜け出て封印されてからは、情けなくも単なる一介の悪魔に過ぎないのかね。それでも雷神の力に押されるとは、魔獣としての本能は残っていたと見えるが?」
『……下らん』
 ライラを一人残してきてしまった事が気がかりだったが、所詮は人間相手だ。唇を歪ませて悪魔は誇り高く相手を嘲う。
『過去の事など思い出すに値しない。私にとって意味があるのは現在だけだ。何のつもりか知らないが、人間の世迷言に興味はないな』
「人間ではなく魔術師と呼んでもらいたいものだね」
 悪魔の恫喝に怯む事なく、男は同等の威厳を持って口の端を吊り上げた。その不敵な余裕を怪訝に思い、悪魔は目を眇める。見知らぬ男が何を企んでいるのか見極めなければと、彼は唸るように尋ねた。
『ならば……忌々しい前兆を引き起こしていたのはお前だろう。一体何の始まりを告げにきたのだ、魔術師?』
 男が無言で黒い書物を翳した、その瞬間。
「告げるとしたら無論、終わりを」
 頭蓋へ黒い文字が流れ込み、ぶつりと、意識が飛んだ。






END.
(2008.11.28)

中途半端な所で続く。超展開でまさかのノア。カザー・カダルはアラビア語で神による運命。


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