キリエ・エレイゾン












 野営するキリスト教徒たちの天幕の群れは、今日も賑やかな喧騒で満ちていた。
 行商人や露天商などの客引きの声が飛び交い、その合間を兵士たちの笑い声が縫っていく。酒や賭博の店、売春婦の姿、故郷を偲ぶ楽器の音。それらは破竹の勢いで進み続ける彼らの生気に満ち溢れ、戦場でありながら、さながら異国に生まれた新芽のようであった。
 ──この野性味が、私たちの強さだ。
 どこからか聞こえる懐かしい竪琴の旋律に耳を傾けながら、ラミレスは幕舎から抜け出て眼を細める。吹き抜ける風が彼の淡い色の髪を乱した。
 ごったがえす野営地は逞しく活気がある。知り合いの兵たちと言葉を交わし、戦に同行してきた巡礼者たちへ挨拶をしていると、憂いがちな彼の心は少しずつ励まされていった。
 眼を転じて南に向えば、夏でも雪を抱く美しい山脈は薄く紫がかって見え、心なしか肌を焼く空気に潤いを乗せてくるように思われた。乾いた赤茶色の大地はじっと静止しているようでいても、眼を向けていればさらさらと静かに砂を遊ばせて、地平の間を悠久と流転している。彼はそこに、神の息吹の一つを見出すのだった。
 ──主の創りたもうた物は、全て善き物。
 微苦笑を浮かべ、元修道士見習いの青年は口の中で唱える。敬虔なクリスチャンの彼は、兵士となった今でもの文句を一字一句忘れずにいた。剣で人を屠り、異教徒の血を浴びても、聖堂で瞑想した日々は体から抜け出る事がない。部下も従えずに将校一人がぶらりと散策する様子は、やはり彼を戦士と言うよりも聖職者のように見せている。品の良い面立ちを眩しげに顰めて、ラミレスは都を見下ろす丘の上、美しい敵陣の赤い城塞を見上げる。
 グラナダ王国が建国されたのは、イスラム教徒の本拠地だった都が続々と陥落し、レコンキスタが完了しつつある今際の事。それが結果的には最後の砦となったのである。
 一度はその城砦の一角を制圧したものの、奇襲によって再びラミレスらの軍は場外へ撤退する事態になっていたのだった。ほぼ膠着状態に陥った両軍は機を見定めながら、互いに力を蓄えている。
 こちらはカスティーリャ女王の命令でグラナダの鼻の先の渓流に城塞都市を作り、包囲戦の本陣とする計画が着々と進められていた。いずれ幕が落とされれば、最後の聖戦が展開される事になるだろう。
“宗教は本来、私たちを救うものだったはずなのに──”
 ふと、耳の奥で声が響く。
 先日グラナダの城内で出会った少女の悲嘆が、今や自らの痛みと同化してまざまざと胸に蘇った。レコンキスタが始まって、既に長い年月が経っている。将として馬を駆り、衝突しあう両軍を俯瞰する瞬間にさえ、彼はどれだけの人々の血が砂に染み込んでいくのかと思うと、自分の立っている地面が揺らぐような想いに駆られる事があった。
 ──これが、主の御心なのだろうか。
 一度戦闘が始まれば、いかに普段は善良な自軍の兵たちが血に酔って蛮行を振るい、また敵の兵がどれほど気高く苛烈に応じてくるのか、彼はもう嫌と言うほど知り尽くしている。こうして無邪気に天幕で賭けに興じ、仲間と気さくに笑い、故国の歌を歌う彼らの略奪における豹変ぶりには、率いるラミレスであっても無性に空恐ろしいものを感じるのだった。
 彼自身も剣を握るとなれば、情け容赦をしている余裕はない。敵にとっては忌々しい蛮勇に過ぎなかったが、怜悧に馬を駆り、敵の返り血で甲冑を塗装する彼は、味方にとって聖騎士を名乗るに相応しい勇将であった。
 ──皮肉な事だ。故郷で聖職者の道は諦めたと言うのに、戦場で“聖”の称号を貰うとは。
 翳りを帯びた眼で苦笑していると、部下の一人が慌てて駆けてきた。ぶらりと歩き回る将校の癖を、身近な臣下たちは心得ている。
「アラハンブラ城塞より敵地から使者が来ました。何でも、生き残った捕虜を無傷で解放するので迎え入れて欲しいとの事ですが……いかがしますか?」
 ラミレスは驚いた。普通、捕虜といえば身分の高い人間を取って身代金を要求する事があっても、下級兵たちは大概殺されて終わる。だが詳しい話を聞いて更に彼は感嘆した。敵の捕虜を無傷で解放するばかりか、手当てさえ施してあるとは──まったく、イスラム教徒たちの礼儀正しさ、知性の高さは何だろう。
「受け入れよう。決して手は出すな」
 ラミレスは指示を出し、使者が待つ幕舎に赴いた。
 垂れ幕を片手で押さえて中へ入ると、絨毯の敷かれた床に一人の男が座っている。イスラム教徒たちの白い布を巻いた衣を着、深く頭を下げていた。人払いを施した幕内には彼らだけしか居なかったが、敵陣に一人訪れたと言うのに落ち着いたものである。彼が連れてきた十数人の捕虜は既に受け渡されており、人質のなくなった今、いつ斬り殺されても可笑しくはないというのに。
「今回の温情、私からも礼を言う。帰還した捕虜たちも喜んでいる事だろう」
「……貴殿がラミレス将軍閣下か?」
 労いの言葉を掛けると、男は僅かに首肯していた頭を上げて尋ねる。低く、どこか笑みの気配を感じさせる声だった。
 冷えた手で首筋を撫でられたように、ぞくりとラミレスの背が粟立った。神聖な天啓でも聴くように、彼は本能の警告というものを信用している。男の声が内包している不敵な不気味さを感じ取り、反射的に身構えた。
 ──ただの使者ではない。
 響いた刀音は唐突だった。男は長衣の下から剣を取り出すと、獣のような敏捷さで跳躍し、容赦なくラミレス目掛けて振り下ろしたのである。
「………っ!」
 ばさりと翻る白布の下、その口元が薄く引く結ばされているのを視界に捉え、咄嗟に長刀を引き抜いて受け止めた。
 体重のかかった衝撃は重い。しかし相手は競り合うつもりはなかったようで、跳ね返すラミレスの一閃を呆気なく受け流すと、素早く背後に回していた左手を振り上げた。逆手に握られた刃の第二打が襲う。
 一合二合と打ち合いながらラミレスは戦慄した。縦横に飛び交う剣劇から感じる、男の力量。鋭い斬撃は予想が付かず、心持ち短い二つの湾刀は変幻に宙を舞い続ける。だが相手は本気ではないようで、一刀ごとの気合には欠けていた。互いの出方を窺い白刃と白刃を打ち合わせながら、ラミレスは確信と共に鋭く問う。
「貴方は、まさかイスハーク将軍か?」
 見るも鮮やかな双刀の演舞。それは戦場で遠くまみえた姿に驚くほど酷似していた。銀の二刀を掲げ、手綱を使わずに両足だけで自在に馬を操る、ムスリムの黒き狼に。
「彼は奇策が得意だと知ってはいたが、まさか単身で、私の暗殺に来るとは思わなかったな」
 皮肉ると、にやりと男の口元が形を変える。それは肯定の微笑だった。先程と同様に、笑みを含んだ低い声音が響く。
「暗殺ではない。今のうちに敵将の顔を拝んでおこうと思ったまでだ」
 軽く半身を引いて砂避けのフードを邪魔そうに薙ぎ払い、その相貌を明らかにする。思慮深いイスラム教徒とはまた別種の、野性の強かさを窺わせる男だった。布に巻かれた癖のある黒髪と短い顎髭は粗野な印象を与えたが、太陽の恩恵を受けた浅黒い肌は堂々たる力に満ちている。瑪瑙色の瞳は切れ長で、狼将の異名に違わず、荒々しく機敏な身のこなしが凛と美しい。年はラミレスより幾分か上のようだったが、自信と強靭さを窺わせる顔立ちは、常にどこか憂いを湛えている彼よりも若々しく見えた。
「歴戦の猛者だと聞いていたが、護衛もなく敵の使者と会うなど不注意もいいところだな、ラミレス将軍。お綺麗に体面を重んじるとは、よほど聖騎士の名が惜しいと見える」
 片端を上げる唇から発せられた口調は、不敵な面構えを裏打ちするもの。子供を冷やかすようなそれに気分を害し、ラミレスは僅かに声を落とした。
「……捕虜を解放すると温情を示した相手に対し、こちらも礼を尽くしたまでの事だ。余計な心配はせずとも、神は全て物事を良いように為さる。事実こうして、貴方の奇襲も防がれたのだ」
「言っただろう。こちらは端から、お前を殺す気で来たのではない。大仰に神の名を出すには早いぞ」
 生真面目に返すラミレスに対し、イスハークは可笑しそうに目を細める。剣先を向けてはいたものの、既に二人は動いておらず、狭い天幕の中で対峙しながら淡々と言葉を交わしていた。ラミレスが一声上げれば近くにいる部下たちが呼べるだろうに、それを敢えて行なわないのは、彼もイスハークが最初から自分の命を奪う気ではない事を見抜いている証拠に他ならない。イスハークは懐から白い手紙を取り出すと、ばさりと絨毯の上に投げ放った。
「こちらの王からカスティーリャの女王へ宛てた物だ。あんた等が眼と鼻の先に立てている城砦は目障りで適わんが、脅威である事に変わりはない。まあ大方、その事についてだろう」
 自分の任務だったろうに、彼は興味さなそうに告げる。ラミレスは男と手紙とを素早く見比べた。
「捕虜の解放に、この親書か……。だがこれらの用事ならば、わざわざ狼将が任に当たる程の事ではないだろう。何を企んで来た?」
「これも言ったはずだがな。最後の戦が始まってごたごたする前に、お前さんの顔を拝んどこうと思ったんだよ、聖騎士殿?」
 それだけの為に危険を犯したとは考えにくいが、やってのける大胆さがイスハークという男には存在しているように思える。ラミレスが沈黙している間に、尚もムスリムの狼は続けた。
「現在の王は若く軟弱だ。奴が何をそちらに打診したいのか興味はあるが、それだけの為に動くほど、俺は忠誠心が強くない」
「……自らの王に対して何という言い草だ」
 非難めいた言葉を送ると、相手はあっさりと肩すくめた。
「俺は幼少時、シーア派の組織で育てられたのだ。そちらには分からないだろうが、イスラム教徒の間にも派閥はある。まあ簡単に言えば、どの王を正統とするかで揉めているだけだが──」
 彼は視線を僅かに移動させ、片方の刃を肩に背負った。
「少数派のシーア派は異端だ。俺を育てた奴らはそれを不満に思い、国家転覆を図って人知れず武装組織を作っていた連中で、お陰でそれなりに鍛え上げられたのだ。そのせいで、俺には今の仲間に対する親愛はあっても、王に対する忠誠心はほとんど無い」
 話を聞いていたラミレスが、ふと不可解そうに問う。
「お前がシーア派ならば……なぜ現在、そちらの将になっている?この機に乗じて王を殺せば、そちらの望む者を玉座に就ける事が出来るのではないか?」
「おっと、仲間割れさせようとしても無駄だ。既に俺はシーア派ではない。組織は十数年も前に壊滅させられているし、今更、派閥だ何だと言う理由で現在の仲間を裏切るのはつまらないからな」
 壊滅した組織の中で生き残った子供が、どのように現在の居場所を得て、何を考えたのか──。他人に不幸を自慢する趣味はなかったので、イスハークは当時の事をそれ以上語らない。敢えて素っ気なく流してしまうと、またもラミレスは不快そうに秀麗な眉を寄せた。
「不真面目な男だな。そのような問題ではないだろう」
「愚かであることは人間の特権だ。神の為に命を捨てる事は俺にはできないが、故郷の為に剣を取り、仲間の為に咆哮を上げ、好敵手と武勇を決するのは心が躍る。実益のないものに人生を賭けるより、余程充実した人生だと思わないか?」
 獣の愚かさを誇らしげに唱える顔は、狼というよりも、しなやかで狡猾な黒豹のようだった。ラミレスは言い返そうとして口を噤む。思想が違う以上、話が通じる相手でもない。イスハークは肩に背負っていた刃を再び振り下ろし、その先を向けた。
「だから俺は信徒ではなく、人間のお前に宣戦するために来た。グラナダはいずれ落ちるだろう。しかし、最後の華は飾らせてもらう」
「……では前面衝突だと?大人しく城を明け渡せばいいものを、まだ抵抗して無駄な血を流すというのか」
 苦々しげに呟くラミレスに、イスハークは嘲笑した。
「ふん、自分たちの行いを棚に上げ、血に飢えているのはそちらも同じだろう?そちらの救世主様とやらは、よほど俺たちが目障りのようだな」
 またしてもぐっと言葉に詰まる。それはラミレス自身が日ごろ思い悩んでいる問題でもあった。しかし信仰を冒涜されれば言い返さないわけにはいかない。彼は顎を引くと低く反論を唱えた。
「──あの方の事を悪く言うな。現在の惨劇が主によってもたらされたと言うのなら、それは全て我ら信徒が至らなかった為。罪深い事だ。主の本意であったとは思われない」
「……本意ではなかった?」
 はっ、とイスハークは肩を揺らした。
「ならば、なぜ神は未だ沈黙している?いっそ黙示録のように怒りを表せば良いものを、信徒同士が争うのを悲しむ素振りすらないではないか。海が割れ、地が砕かれ、雲間から光が差し、正しき御声が響く──その様な奇跡を期待しているのなら、お門違いにも程があるな」
 ひとつ、息を吸い込む間があった。
「これは聖戦ではない。神の名を掲げた、人間の、人間による戦いだ」
 イスハークの言葉に頭を殴られたような、魂の根底を揺るがす戦慄が湧き上がった。さぁっとラミレスは自分の血の気が引く音を聞いた気がしたが、それは再び烈火のごとく勢いを増して頭上へと駆け上がる。
「ぬかせ!神が居ないと言うのならば、一体、何の為に我々は争ったのだ。このような異国の地で母の名を呼びながら殉教した兵士たちを、お前は無駄死にだと言うのか?」
 怒りでわなわなと震える敬虔な教徒を眺めながら、イスハークはむしろ聞き分けのない子供を哀れむように眉を上げた。
「俺たちは只、神を祭り上げて喧嘩をしたに過ぎない。それに──俺は一度自分が信仰したものが壊れる様を見ているし、その脆さも知っている。だから神には祈らん」
 片手をひらりと挙げ、彼はこちらに背を向けた。無用心にも見えるが身のこなしには隙が無い。イスハークが幕舎の布を片手で押し上げると、室内には細く光が差し込んだ。
「これで用は済んだ。互いに理解し合うことが無理ならば、また剣を取ればいい。この戦いと同じようにな」
 戦場で会おう、と。傲慢に笑う表情はこの男に似合っている。その背を後ろから切りつけてやりたい衝動と、徒労に終わるだろうという諦観がラミレスの中でせめぎあう。人を呼べば数に物を言わせて取り押さえられるかもしれないが、そう簡単にいく相手でもないだろう。押し黙って背を睨み付けている彼に、イスハークは最後に付け加えた。
「そうだ、将軍。お前は悪魔の噂を聞いたか?」
「…………」
 心当たりならば、ある。モスクで出会った少女と巨躯の男の姿が脳裏に蘇ったが、彼は意地でも反応を返さなかった。イスハークも返事を待たずに口の端を吊り上げる。
「グラナダでの小競り合いのときに目撃証言が出ているのだ。俺はてっきり世迷言だと思っていたが、神の名で始まった聖戦を悪魔がぶち壊すならば──それも面白いと思わないか?」
 そう言い残すと、呆気なく幕舎を出て行ってしまう。
「……不信者め」
 残されたラミレスは苦々しげに吐き捨てた。確かにイスラム教徒は理性的だが、あのような男が軍の総大将では高が知れるというものだ。そう罵倒して絨毯の上から手紙を拾い上げたが、胸の内では判然としない不安が蛇のように頭をもたげてきたいた。
 これで、正面衝突は避けられない。
 王が親書で何を書いているのかは分からないが、実質的な指導者から宣戦布告を受けたとなれば確実だろう。再び数多の人々の命が乾いた大地に散るのだ。
「……主よ、なぜ黙っておいでなのですか」
 ラミレスは嘆く言葉を探したが、唇から零れたのは迷い子が親を求めるような、酷く頼りないものにすぎない。
 主よ、なぜ全てを放って置かれるのですか。我々が貴方のために地を広げようとするのは間違いなのでしょうか──やりきれない思いで反芻する。
“我ら滅びと悪とを貪り、道なき荒野を歩めり”
 脳裏に浮かんだ詩篇の一節を振り払いながら、彼は自問する。悪魔とは他ならぬ、救いをもたらす事など出来ない私たちではないか、と。








END.
(2007.09.29)

我が家の将軍二人は私の趣味でこんな感じ。生真面目ローランと、髭のワイルド系。付け焼刃の知識ですので、色々と不勉強な部分はご容赦下さい。
史実だと、ごたごたはあるものの両軍の正面衝突はなく、アラハンブラの最後の王ボアディルは大人しく降伏します。若き十代の少年王という事にロマンを感じる。


TopMainIberia



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -