クエスタ・エンペドラーダ
世界に争いの無い時代は来るのでしょうか、と聡明な娘子は尋ねる。
賢人は「その為に人類は知恵の実を食べたのだ」と答えた。教義に反するような発言だったが、遠い未来を見据える透徹した言葉であった。
神の元を巣立ち楽園を追われて尚、自らの智によって平和を築く為に、我々は原罪を負って荒野を流離うのだ、と──。
* * * * * * * *
キリスト教徒によって取り押さえられた都の区域、人影のない荒れた果樹園で、日暮れと共に異変が起こった。
最初の変化は甲高い鴉の鳴き声、次いで空気を切り裂く高音に伴われて強風が渦巻くと、みるみるうちに黒い塊が浮かび上がる。
それは何十羽にも上る鳥の群れであり、空中に現れた不気味な影は大きく膨れ、一斉に羽ばたいて四方へ飛び立った。
緋い髪を靡かせ、悪魔はそこから姿を現した。
焔を司る険しい容貌は、あたりに人影がない事を予め知っていたらしく周囲を見回す事さえしない。右腕に一人の眠る少女を抱いており、鋭い爪で傷付かぬよう無骨な手は注意を払っているようである。
彼は確信を持った様子で顎を上げ、岩山の上に立つ城塞を眺めた。激しい交戦の名残で未だ町のそこかしこで煙が立ち昇っている。乾いた土の他に生臭い血臭が漂っていた。
だが、彼はそれらに興味がない。ここの人間がどのように生きようが死のうが、感情が動く事は皆無だった。悪魔にとって右腕の少女だけが唯一の価値を持っている。
『ライラ』
そっと呼びかけたが、熟睡しているらしい。悪魔との契約で彼女自身も人間からは掛け離れた存在に転化しており、その疲れが残っているのか顔色は精彩を欠いている。戦火で傷ついた精神が癒されていない事も影響されているのだろう。
悪魔はそれを見下ろし、結局口を噤んだ。昏々と眠る顔は、少し幼い。占領された故郷の姿を見届けようとする少女の思考は理解できなかったが、一時の休息が必要だろうと判断する。
「……ん…」
ライラは微かに身動きすると、居心地の良い場所を探す子供のような仕草で、悪魔の腕に顔を押し付けつけた。起きるのかと思ったが、呼びかける前に彼女は更にもぞもぞと顔を埋めてしまう。
『…………』
息苦しくないのだろうか。彼は律儀に思案しながら、少女が目を覚ますまで無言で待つのだった。
一言にイベリアと言っても、その土地の気候は様々である。
グラナダは地中海気候の為に夏は暑さが厳しかったが、近くを川が通っているお陰で岸には明るいオレンジがたわわに実り、白壁の小道には花の小鉢が咲き乱れる美しい都であった。
アラハンブラ城砦へと続く通う道すがら、市場の人々と挨拶をし合って通り過ぎた穏やかな街角。ライラの記憶の中で、故郷は常にそのような姿をしている。
それ故、かつての同胞であったムスリムの戦士が「異教徒」と称され、槍先に貫かれた首を城壁の下に数百も並べられている光景を眼にしたときは息が止まった。鳥に肉をついばまれ、虚ろな眼は腐り始めている。
「……っ」
言葉が出てこない。ライラは唖然として立ちすくみ、口の中がからからに渇いていくのを感じた。既に人の身ではなくなった少女は、出来るだけ冷静に物事を見つめようと覚悟してここまで来たのだが、実際に受けた衝撃は予想以上に大きい。
『大丈夫か』
背を、支えられる。背後では悪魔がこちらを見ていた。今ばかりは異様な姿を人目から隠すために砂よけの黒布を被っており、常に表情のない眼が細められている。ライラは何か言い返そうとして、俯いた。
『やはり帰るべきだ。見る価値などない』
「……ううん、駄目。今引き返したら、もう来られない気がする」
少女は健気に首を振り、自らを奮い立たせる為きりりと唇を引き結んだ。悪魔の発言も少女を慮ってのものなのか、それとも彼自身の本音であったのかは定かではなかったが、それ以上は反論する気もないようだ。
『そうか。ならば往こう』
一言、了解の意を示す。悪魔と人間では物事に対する思考や感覚も違うのかもしれない。一見すると何を考えているのか分からない彼だったが、しかしライラの意思を尊重するつもりなのか傍に寄り添ってくれているのは有難かった。
無言の内に潜む彼の誠実さを感じ取り、ライラは心細さを紛らわす為に逞しい悪魔の腕に触れ、中へ足を踏み入れる事を決意する。
グラナダの町は、既にその北側の地区を占領されていた。都を見下ろすアラハンブラ城砦は未だ堅牢な守備で持ちこたえていたが、ここまで敵の侵入を許してしまっては陥落も時間の問題だろう。前線は硬直したまま、幸か不幸か、略奪と虐殺の大方も終了していた。
今では逃げ出す事が出来なかった住人たちが町の奥深くで隠れ、怯えている気配だけが漂っている。血と死体と汚物で見る影もなくなった市内を、信じられないような面持ちで少女は歩いた。月光の薄明かりが悪い冗談のように石壁を照らしている。
実際に町が荒らされているのを目の当たりにすると、結末を見届けようと決意した心が揺らぎそうになる。引き返してしまいたい弱音を繋ぎ止めたのは、まず人々の消息を知る為と思ったからだった。
彼らの精神の拠り所であったモスクの一つは既にキリスト教徒に押さえられており、中からは兵たちが勝利に酔う宴が開かれている。しかし死んだ仲間の追悼も行われているようで、聖書の言葉と共に切々とした哀愁も漂ってきていた。
『中に入りたいのか』
「うん……でも無理そうね」
ライラは複雑そうに物陰から様子を伺い、どうするべきか考えを巡らせる。躊躇っていると、悪魔はひょいと少女を抱き上げて驚く暇もないうちに跳躍し、軽々と塀を越えた。翼を使う必要までもないらしいが、兵たちの目が届かない丸屋根の縁へ着地する力はさすが人外のものである。
「び、びっくりした……!」
『この程度、飛ぶうちに入らないだろう』
突然の事だったので動悸が収まらない。目を丸くしながらライラは首にしがみ付き、恨みがましい眼で悪魔を睨んだ。
自分はまだ慣れていないのだ、せめて言ってからにして欲しい。
「もう!」
『………?』
悪魔は少しだけ不思議そうに眉を下げたが、むっとしたままライラが説明しないので、結局また視線を前方に移した。釣られてライラも眼下を眺めると、城壁を崩された町は荒れ果てて見る影もない。
しかし上空に目を転じれば、悠久の時を約束するような星月夜だった。すっと頭の芯が冷やされて澄んでいくのを感じる。
──繰り返される争いの連鎖を、断ち切るために。
彼女が望んだ途方もない願いも、こうして不変の自然を見ていると何とかなるのではないかと思えてくる。緊張で張り詰めていた息を吐き出し、眩しい物を見つめるようにして少女は薄く微笑した。
この空の下では全てが等しく、人間などちっぽけな存在に過ぎない。柔らかく髪を撫でていく夜風は川縁の水気と地平の砂の匂いを運んできて、血の腐臭を消し去っていく。その向こうに広がる乾いた荒野も、星空と寄り添うように従順だ。
「空は綺麗ね。こんなに人が死んだのに、悲しんでもくれない。それが凄く心地良い気がする」
『……死んだ人間も全体の一部に過ぎないだろう。元の大地に帰っただけだ。世界には何の影響もない』
どこか苛立たしげな諦観すら漂わせ、悪魔は静かに呟いた。気が狂わんばかりの長い封印の中で、常にこんな永遠の時間を感じてきたのだろうか。ライラは虚を突かれたような心地がして、慎重に自分を抱きかかえている横顔を見る。
「……ねえ、貴方に人々はどう見えるの?やはり学習しない、愚かな生き物だと思う?」
『君以外は皆、同じに見える』
むしろ少女の方が戸惑うほどの明瞭さで、彼は答えた。
『人間に、愚かも賢いもない。長き争いも時が過ぎ去ってしまえば、摂理に埋もれ、調和のうちに収まる。どれも創世の時代に土塊で創られたものに過ぎない。だから皆、同じだ』
それは正論なのだろうか。何と答えていいのか分からず、うろたえながら少女は異形の神の目線を追った。真紅の瞳は前方を見下ろしたまま動かず、横顔には変化が見られない。何となく居たたまれなくなって、彼女は辺りをきょろきょろ見回した。
すると、モスクの東端にある小さな離宮が目に入る。何度か行ったことがある場所で、今はキリスト教徒たちの姿もない。
ライラは目的を思い出し、ちょうど手元に垂れていた悪魔の長い髪をくいくいと引っ張った。
「シャイターン、私、あそこに行きたい。もしかしたら中の様子が分かるかもしれないわ」
そう告げると、悪魔は横目で彼女を見返してから、頷く事さえせず再び跳躍した。破れた翼で空を下降し地面に降り立つ。
しかし二人がいくら探しても、離宮で生きた人の姿を見つけることは遂に出来なかった。残っているのは戦闘による傷跡と、敵と味方が入り乱れた死体ばかり。
──やっぱり遅かった。
上空から様子を見ると言って再び屋根に上がった悪魔と二手に別れ、彼女はひとり悲嘆の溜め息を零しながら、大理石の柱を抜けて中庭に降りた。奥の一間にあるのは、然程広くはないが美しい装飾アーチが連なる内室である。
すると、荒らされた室内で佇む長身の後姿を見つけた。
差し込んだ月光で淡く光る髪は西洋のもので、甲冑のデザインから見てもキリスト教徒の将校だと見て取れる。
仲間との勝利の宴には混じらず、こんなところで何をしているのだろうか。床には片付けられていない死体が転がったままになっており、そこでライラは見覚えのある僧衣の遺体を見つけ、さっと青ざめた。
「……お父様…?」
間違いない、父の亡骸である。その前に佇んで振り返ったのは、おおよそ兵士らしくない面立ちの青年であった。悄然としている頬が微かに光っている。
──泣いていたのだ。
どういう事なのか分からず、ライラは混乱する。青年の西洋の血を現す白磁の肌と、薄い色味の髪は品よく繊細で、剣を握るよりもこうして祈りを捧げる方が似合っているように感じられた。
けれども血と埃を浴びた姿は幾人も殺めてきた事実を示しており、目元に帯びる暗い影が、実際の年齢よりも彼を老いて見せていた。
「……嗚呼、遺族の方か」
彼が呟く。丁寧な口調は生来のものなのだろう。ライラの姿に動揺する事もなく、痛ましげに遺体を見下ろして十字を切った。
「彼も先程まで息があったが、逝ってしまわれた。私のような異教徒の手で葬られるのは辛かっただろうに」
胸に掛けられた銀のロザリオ。ライラは夢から覚めたように顔を強張らせ、彼を凝視した。剣と十字架を持つ手は血で黒ずんでいる。
では、彼が父を殺し、その上で涙を流しながら、祈っていたとでも言うのだろうか。
――許せない。
そんな慈悲は、勝利者の驕りでしかない。ライラの胸に一気に噴き出したのは、目の前の青年将校に対する憎しみに他ならなかった。冷静に見届けようと決心して故郷に戻ったのに、実際に家族の死を目の当たりにすれば、頭の中から吹き飛んでしまう。
「謝るなんて偽善だわ、父を返してよ!」
彼女は叫んだ。
「キリスト教徒が踏み込んでこなければ、こんな事にはならなかったのに……!なぜ、私たちをこの地から追い払おうとするの!」
「……それは貴方がたも同じだろう。このイベリアは元々キリスト教徒とユダヤ教徒が住んでいたというのに、あなた方が我々を追い出したのだ。今回は、それが逆になっただけの事」
青年は覇気のない声で微笑したが、それ以上の言い訳をするつもりはなかったようだ。どんな理由があろうと、恨まれるだけの事をしている自覚があるのだろう。素直に敵の娘に向かって弁解しているのは奇妙な図だったが、敬虔な青年からすれば死者に対する懺悔であった。
――彼は故郷では見習い修道士をしていた者。だが今回のレコンキスタでは亡くなった兄に代わり、家の体面を保つため従軍しなければならず、嫌悪する剣を下げて殺戮に加わったラミレス将軍である。
彼が驚いたのはピレネー山脈を越えた先はおぞましい異教の地であると言われていたにも関わらず、イベリア半島が高い文明を持っていた事である。ロンドンの住人は丸太小屋に住み、汚物でぬかるむ道を歩いているというのに、ここでは舗装道路が敷かれて常に清潔なまま保たれている。町には必ず学院が置かれ、税さえ収めれば他宗教にも寛容だった。モスクでは信じられないほどの精緻な細工が施され、アラベスク模様がびっしりと書き出された寄木細工には感嘆の吐息しか出なかった。
──我々は違うものを祭る。しかし、彼らの信仰のどこが異教だと言うのだろう。祈る気持ちは同じである筈なのに。
この豊かな文明を自分たちが踏み潰している事にラミレスは恐れ戦いていたが、戦場で血にまみれた今となっては少女の非難も尤もである。いくら死んだ者に詫びた所で、この罪が償われよう。なまじ腕が立つだけに彼の活躍は周囲から期待されていた。家族を殺された少女からの糾弾は、むしろ自虐的であれ彼の望むものだったのだ。
「どうして、上手くいかないの……元は同じ神を信仰していたのに、少し道が別れたからと言って、いがみ合う必要はないでしょう……?」
だが少女の方は、むしろ怒りよりも虚しさに囚われたようだった。すがるような眼で嘆く彼女を痛ましげに見遣って、青年将校はやや投げやりに言う。
「理性を取り戻して祖国に帰る事が出来たら、どんなにいいだろう。けれど、どんなに悔いたところで国も信仰も捨てられない」
ラミレスは自分たちの蛮行もよく理解していた。大概のキリスト教徒は神への奉仕として剣を振るい、異教徒を駆逐すればするほど天国の門が近くなるのだと、親を慕う子のように無邪気な狂気で信じている。そしてやはり彼にも、譲れない信仰であった。
「悔いるくらいなら、最初から剣を捨てればいいじゃない」
「……助けを求める同胞を裏切れない。故郷の土を再び踏むまでは彼らの命も預かっているのだ。そして私とて、やはり聖地が欲しい。信仰は支えだ。あなた方もそうやって異民族を駆逐してきたのだろう?」
「……そんなの……。聖地が何だって言うの、人殺しを神のせいにするの?違うでしょう、宗教は本来、私たちを救うもののはずだったのに……」
延々の平行線だ。彼女は悔しげに拳を握り、唇をわななかせる。それは既に反論ともいえない、小さな呟きだった。
『──ライラ』
するりと、まるで冷たい夜気が鋭く忍び込んでくるように、それまで姿を消していたはずの悪魔の声が背後から響いた。
驚いてライラが振り返ると、逆光を背負って砂よけの黒布がばさりと大きく揺れている。角を隠す布の下から、こちらを覗く緋色の眼が生々しく光っていた。
『今こそ問おう』
厳かな声は一種の神聖さを持っている。ラミレスは突然現れた男に警戒の眼差しを送ったが、彼は意に介さず悪魔は少女を庇うように傍らに並び、ゆったりと顎を引いて低くライラに尋ねた。
『異教徒が憎いか』
「………」
『彼らの死を望むか』
少女は答えない。心の中で感情が激しく揺れ動いた。
しかしその迷いを汲み取ったかのように、先に動いたのは悪魔の方だった。一歩前に踏み出す。それだけの仕草で闇の大気がざわりと揺れ動いた。
「………っ!」
静かな殺気を察し、ラミレスは剣を抜き放つ。本能的に危険だと知った彼は死体の前で悄然としていた雰囲気を投げ捨て、戦士らしい鋭さを宿らせる。
『愚かな。人の身で逆らうのか』
「……このまま何も為さず、死ぬ訳にはいかない」
戦う姿勢を取る青年に、悪魔は唇の端で冷笑する。
しかし、両者が衝突する事は遂になかった。不意に地を揺るがす爆発が起こり、モスクの本堂が崩れる轟音が響いたからである。大理石の柱の向こうでは炸裂した光が噴出し、建物の一部が崩れ落ちていくのが見えた。
「なんだ、あれは……!?」
ラミレスは驚愕して視線を転じた。モスクの倉庫に仕舞われていた火薬に、突如火種が付けられたのだ。兵たちは恐慌に陥って右往左往している。更に火災まで広がったらしく、めらめらと様々な物が焼け焦げる匂いが漂い始めた。
『去るぞ!』
ラミレスの気が逸れたうちに、悪魔は硬直していたライラを抱えて暗がりに紛れ、離宮から飛び立った。だが再び丸屋根の上に止まる前に、我に還った彼女は身を乗り出して抵抗し始める。
「待って、まだあそこには人が……!」
『危険だ。このまま捨て置けば良い』
「でも!」
強く叫ぶと、悪魔は少し呆れたように眼を細めた。
『助けるつもりか。あれは侵入してきた異教徒だろう』
「………っ少なくとも、私は見捨てるために来たんじゃないわ」
懸命に、自らを説得させるようにライラは叫ぶ。先ほどの問いに答えれなかった己の弱さを恥じる、激しい口調でもあった。
「だって私は、もうどちらの宗派でもなくなったんだもの。恨みで我を忘れてしまえば、同じ過ちを繰り返すだけだわ」
《悪魔》の傘下に入ったのなら、第三者として両側の者を冷静に見る事が出来るはずだ。戻れと命じると珍しく悪魔は溜め息を吐き、結局は従う事にしたようで体を反転させる。自分の身を案じてくれていると言うのに申し訳なく思ったが、間違ったことはしていない。ライラは吹き付ける風に逆らいながら、ぎゅっと彼の腕に掴まった。
『奇襲か……まだ抵抗する力が残っていたようだな』
夜目の利く悪魔が先に呟く。上空から見ると、半壊した建物の周りでは人々が集まり始めていた。消火活動かと思ったが、やがてライラの目にも乱闘になっている事が分かるほど間近になる。彼らは現場から少し離れた建物の上に降り立った。
どこで息を潜めていたのだろう。イスラム教徒たちの残党がきらめく湾刃を掲げ、堰が切れたようにモスク本堂の中へ雪崩れ込んでいた。
決死の覚悟だったのだろう。キリスト教徒は己を殺す行いは罪とする。しかしイスラム教徒は誇りの為に死ぬ事を善しとする。その違いが如実に現れていた。
捨て身の死兵となったイスラム兵は容赦なく刃を振るい、荒ぶる獣のように凄まじい奔流となっていた。城壁には岩石まで準備してあったようで、キリスト兵たちは体制を整えられぬまま投げ入れられた石に押しつぶされ、あるいは斬られるかして、次々に地に伏せていった。
凄惨な場面に吐き気を覚え、ライラは口元を押さえる。巻き込まれた市民たちが流れ矢を受けて倒れていくのが見えた。敵と味方が入り乱れ、更に宮殿の装飾を剥がし、金目の物は懐に入れておこうと走り回る民の姿もある。
「どうして……ここは自分たちの町なのに……」
『キリスト教徒に居座られ軍事拠点にされる前に、潰してしまった方が良い。彼らの最後の砦はアラハンブラ城塞だ。それを守り、背後の憂いを絶つ為にも、ここを受け渡すわけにはいかないのだろう』
惨烈を極めた乱闘だった。築き上げてきた文化が崩れ去っていく。それは人間の理知であり、良心であり、平和のささやかな土台となるべきものであった。
なんて脆いのだろう。
ぽつりと、その言葉だけが胸に浮かんだ。
『……もう、いいだろう。何を恨むのか選択できぬなら、今は去るべきだ』
言葉を失くしている少女を気遣うように、悪魔は踵を返してその場を去ろうとした。瞳だけは尚も戦場に向けながら、悄然としてライラは彼の胸に片頬を押し当て、今度は抵抗せずに従う素振りを見せる。
しかし、立ち去ろうとする彼らを見咎めた者があった。
「──お前、ライラか!?」
聞き覚えのある声だ。はっとして見下ろしてみると、路地には同じ学院に通っていた幼馴染の少年の姿があった。乱闘による血と埃にまみれた顔が、驚いたようにこちらを凝視している。
咄嗟にライラは悪魔の髪を手綱のように引いて止まるように指示をすると、彼が何か言いたげなのを敢えて無視し、下方に見える少年に声を張り上げた。
「良かった、貴方は無事だったのね!」
だが、心が弾んだのは一瞬だった。知った顔が別人のように強張っていき、幼馴染だった少年は、狂熱に満ちた目で彼女を睨む。
「何が、良かっただよ……!」
吐き捨てるように彼は叫んだ。
「裏切り者の背徳者っ!お前の母親がモスクに敵を呼び込んだせいで、こうなったんだ!どうしてだよっ!どうして、ここを捨てた!」
刺すような憎悪だった。射竦められたようにライラが息を飲むと、続けて石が投げられる。周りにいた市民たちも彼女の存在に気付いたらしい。父がモスクの導師だった事もあり、ライラの顔は割りに知られている。彼女の母が手引きして町に侵略者を招きいれた事も、既に知っている様子だった。
「恥を知れ!売国奴!」
彼らは口々に叫んで、手元にあった瓦礫の破片を投げつける。元は自分たちの同胞であったが故、その裏切りには何に増しても憎らしく映ったのだろう。悪魔が咄嗟に庇ったが、市民の誰が持っていたのか、飛来した矢が丁度ライラの柔らかい左腕に突き刺さった。
「……っ!」
『ライラ!』
悪魔の声が聞こえる。それは彼が初めて見せた焦燥だった。痛みを堪えてうっすら目を開けると、ライラの腕に刺さった矢に触れ、そこから滴る血に悪魔が唖然としているのが見える。己の腕の中で少女が傷ついた事を知ると、彼はゆらりと前を見据えた。
『──貴様ら』
地を這うような呪詛が、悪魔の唇から漏れる。白い相貌の中で、緋い瞳孔が見る見るうちに広がっていった。
ざわりと周囲で闇の大気が揺れ動き、背後では死体を食い漁っていた鳥たちが急速に騒ぎ始めた。周りの異変に気付いた市民たちが、怯えたように彼らを見上げる。悪魔は首を振って髪を振り払い、その緋い流れの中で嘲るように目を細めた。
――総毛立つような、凄まじい殺気だった。
剣を振るように彼が左腕を横に薙ぎ払うと、地面には蛇が這うように光の線が走る。そこから一拍置いて、焔がごうっと吹き上がる。
町の一角は、途端に地獄絵図へ変わった。異形の神の力の前で、人々はあまりに無力だった。石畳を割って地より吹き上がる業火、それに巻き込まれる老若男女。少女を傷つける敵と見なせば、悪魔は徹底した鬼神に変貌した。淡々としていた表情が怒りで満ち、前を見据える緋い眼は、悲鳴も懇願も寄せ付けない。
「やめて!」
その圧倒的な力に眼が覚めたライラは、とっさに彼の首筋にすがり付く。
痛みで泣いている場合ではない。むしろ、この胸を苛む悲鳴の方が大きかった。腕を流れる血と汗が服に染み込んでいき、彼女は朦朧としながら悪魔を止めようとする。
「だめ、やめて!」
必死に耳元で語りかけるが、悪魔は怒りで我を忘れているのか、少女の声にも無反応だった。彼には殺しを躊躇う概念がないのだ。振りかざす手が焔を呼び、逃げ惑う人々の背を襲う。
──そうだ、契約。
思い付いたのは、悪魔との誓い。ライラは彼の頬を両手で挟みこみ、模様の描かれた額に唇を落とした。
それは信頼と呼んでもいいのかもしれない。この接吻は、共に生きると二人が契約を交わしたときの仕草だ。呪術的な意味合いだけでなく、そこには当人同士の絆がある。
『──…』
果たして変化は起こった。まるで少女の唇に熱を吸い取られたように、悪魔の瞳から凶暴な色が消える。肩に抱きついているライラを驚いたように見つめ、振りかざしていた腕を戻して彼女を支えると、釈然としない憂いを帯びた声で尋ねた。
『何故止める。どちらも君の味方ではない』
「……そんなの、私も分からないわよ」
『下らない連中だ。君を、傷つけた』
「知ってるわ!」
悲鳴のようにライラは食い付いたが、高ぶった気持ちが溢れ返り、くしゃりと潰れる。
「でも、力で力を退けようとすれば、私も蛮族と同じになってしまう。恨みを痛みで報いる事だわ。そんなの、だめ……」
じわりと涙が零れる。ライラは苦しげに息を吐いた。腕の痛みは治まらないが、同時に憎しみよりも強い物悲しさを感じていた。
略奪する敵兵、涙する元修道士の青年、同胞たちの怒りに狂う姿が次々と脳裏に浮かぶ。彼女は沢山のものに板挟みになりながら、必死で正しい選択を取ろうと嗚咽した。
「私は……まだ人の心を信じたいの」
しかし泣いてまで訴えても、やはり悪魔は彼女の事がうまく理解できない。どちらの教徒側に立つことも許されず、憎まれて石を投げられながら、尚、人を信じたいと言う理由は何なのだろう。
争いは人類に課せられた業。その連鎖が延々と続いていく事をただ善しとせず、憤り、嘆く心はどこから来るのか。人一人の身で叶う願いでもあるまいに。
『……泣くな』
だが良かれと思ってした事が少女を悲しませた事に気付き、彼は困惑した。無骨な指が涙を拭おうとして、鋭い自分の爪が柔らかな肌を傷つけることを恐れたように直前で止まる。泣くな、ともう一度繰り返す。
『君を悲しませる為、共に生きる訳ではない。泣かないでくれ』
ぐずる子供をあやすように囁くが、苛烈な少女の涙は純粋であるが故に激しかった。悪魔は一度目を瞑ると息を吐き、逃げ惑っている眼下の民を一瞥すると背を向ける。
どちらにしろ、これ以上ここに留まるのは得策ではない。ライラに傷の手当てもしてやらなければならなかった。彼は使えない翼の代わりに鳥たちを呼ぶと、町から姿を消す。
後に残ったのは地を割いた瓦礫の名残と、騒然とする町の人々、そして地に零れた少女の涙だけだった。
“悪魔襲来”
その場に居合わせた人々の間で怯えながら囁かれた言葉は、しかし噂の域を出ないうちに上層部によって一蹴され、消え去る事になる。
そしてそれから数ヶ月後、最後のイスラム教徒の城塞都市グラナダを巡り、全面衝突の構えを見せた両軍の戦いが、レコンキスタの終焉を告げたのだった。
END.
(2007.08.12)
全く曲の考察をしていない暴走パラレルストーリー。厨二全開で楽しい。
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