サタニズム












“私が来たのは、地上に火を投ずるためである”

 侵略者の経典によれば、救世主はそう言って聖母の腹から生れ落ちたという。彼の掲げた火は悪を滅す裁きの火であり、また更正させる清めの火であった。
 だが救世主自身は病める者へ涙を流し、虐げられる者へ手を差し伸べ、全ての苦難を背負って十字に架けられた悲しき人。それは贖罪と共に人々を救う、深い愛の火でもあったのだろう。

 ──だが燃え盛る戦火に、もはや救世主の説いた愛はない。

 裸足の少女は駆けながら、そう嘆じて涙を拭った。肌を隠す闇色のベールを片手で掻き寄せるのは、まだ幼さの残る白い相貌。普段は布の下に収められている黒髪は乱れて宙を舞い、頬には暴力を受けた名残で痣が付いている。侵略の歴史の必然性で迷路のように入り組んだ道は、幾度も曲がりくねりながら彼女の行く手を阻んでいた。
 ごうごうと吹き荒れる風に煽られ、グラナダを守るはずの堅牢な中間都市は続々と陥落しつつあった。美しい白壁の町並みは逃げ惑う人々で埋まり、突破された城門からは神の名を唱えながら肌の白い騎士たちが一斉に牙を剥いて、浅黒い邪悪な異教徒を駆逐せんと咆哮を上げる。市外では二対の軍がぶつかり合い、凄惨な血の飛沫が飛び散っていった。
 イベリア半島。現在はイスラム教徒の作り出した文化が花開く地方であったが、この土地で最初に町を築いた人々は古代ローマ人であり、その滅亡後はキリスト教徒に支配されていた過去がある。不当に取り上げられたかつての国土を取り戻す、神の名による聖なる戦い──それがレコンキスタだと侵略者たちは叫んでいるのだ。
「もう城砦も崩れる寸前。だからお願いです、どうか陥落する前に降伏を……!」
 駆ける少女の脳裏に、母の掠れた哀願が蘇る。とっさに記憶を振り払って耳を塞ごうとしても、続く父の怒声を遮ることは出来なかった。
「確かに我々は他宗教にも寛容だ。それに、元を辿れば同じ経典を汲んでいる同士でもある。だが本来の慈悲を忘れて排他するしか能のない、あのような蛮族どもに従う訳にはいかない!」
 恥を知れ、と父が拳を振り上げた。モスクの中で乾いた音が鳴る。集団礼拝を指導する導師にとって妻の裏切りは手酷い物であったのだろう──この地の神を捨て、敵の宗教へ改宗したいと言い出したのは。
「では、娘だけでも改宗をさせてあげて下さい。彼らは隣人愛を説く教派です、同じ教徒になれば命ばかりは助けてもらえるでしょう。このままでは惨殺されて終わりではありませんか……!」
「あやつらに愛と言うものがあったならば、何故ここまで意味の無い血を流す!聖地奪還を掲げながら、実態はただの狂信集団でしかないではないか!改宗したところで殺されるだけだと何故分からない!」
 耳の奥で繰り返される、言い争いの追想。アラベスクの下でうねる不和。平行線を辿る両親を怯えながら、見ている事しか出来ない自分。やがて城門が開かれ、雪崩れ込んでくる敵の殺戮。
 そして町の混乱に乗じて、父の留守中に娘を改宗させようとした母の手引きにより、モスクに踏み込んできたキリスト教徒の男たち。
 ──母は、私を彼らに売ったのだ。
 それは娘の命だけは助けようと言う、苦肉の策であったに違いない。異教徒として焼き殺されるより信仰を捨てて生きろと、そう願ったに違いない。
 だが実際に少女が受けたのは、嘲りによる暴力だった。まるで人間だと認めることすら汚らわしいとばかりに振り落とされる拳。娘には乱暴しないと言ったじゃないかと泣き叫ぶ母の声。
 そのまま捕虜として連れて行かれそうになったところを、今度は帰宅した父が兵を持ってキリスト教徒たちを殺して回った。そして娘を敵に売った裏切り者として、己の妻を捕らえたのだった。
 ──もう嫌だ、父も母も私を想っただけだったのに、争いを起こすだけの神などどうでもいい。
 ぎゅっと、ベールの上から耳を塞ぐ。アラブ式のモザイクを張り巡らした壁に、少女の翻すベールの影が不吉な鳥のように黒く残像を描いた。殴られた頬の傷跡が今更になってずきりと疼く。
 何もかもが煩わしく、悲しかった。血が飛び散った床も、泣く母も、殴る父も、こうして戦火に見舞われる町も。駆ける道は逃げる人々の阿鼻叫喚で満ち、心優しい少女の胸を酷く痛ませる。押し合いながら同胞に踏み潰された老人の亡骸、侵略者の槍にかかる幼児の手足。それらの断片が視界に入り、彼女は唇を噛み締める。
 モスクの学院で柔軟に知性を得、人間の英知を信じてきた賢い少女にとって、このように愛した世界観が容易く壊れていくのは大きな悲しみと痛みを伴った。理不尽に散っていく命の数に比べたら、教義や主張がどれほど大きなものかと問い正したい衝動に駆られる。
 ──これがカインとアベルの兄弟が争ったときから始まった、人類の宿命だと言うのならば、何故こうも進歩がないのだろう。
 虚しさを感じた一瞬の隙を付いたように、彼女の胸を放たれた矢の一本が貫いた。
「…………っ!」
 鮮血を滴らせながら、どこまで歩けたのか分からない。ほとんど視界は消えかかって、路地を抜けた後は道など分からなかった。必死で走ったが、既に死神は彼女の目の前まで迫っている。やがて力尽き、景色も何も分からないまま彼女は冷たい地に伏せた。
 胸から零れ出る緋色がじわじわと流れていくのを感じる。不思議と死ぬことは恐ろしくはなかった。ただ、無性に悔しかった。
 今も町の上空では、信仰の狂熱が天を焼いているだろう。同じ人間同士で違う正義を掲げ、違う神の名を呼び、違う肌の者を憎み、嘲笑い、憎悪し、誤解し、永遠に殺しあう。
 ぽちゃん、と。
 憂う少女の涙と血が、混じり合いながら静かに零れた。それが複雑な模様を描く石畳の上に落ちた瞬間、ぼんやり床から光が浮かび上がる。一つの模様の光が次の文字を導き、ゆるゆると波紋のように広がっていく光景は幻想的なものだったが、薄れていく意識の中でただ彼女はひたむきに祈っていた。
 もし、出来る事ならば、私は──。







『ライラ』
 低い声で目が覚める。びくりと体を震わせて過去の悪夢から逃れた彼女は、慌てて目尻に浮かんだ涙を拭った。
 開いたライラの視界を埋めたのは、燃えるように流れる緋い髪。横たわる彼女の傍らで、大柄な男が無表情に佇んでいる。
「あ……」
 現在彼女が居るのは、廃墟となった岸壁の寺院だった。今まで礼拝してきた壮麗なモスクとは違い、サンスクリット文字とアラビア文字が壁に彫られた花崗岩は、切り出したばかりの洞窟のように無骨な印象を与える。冷たい岩の寝台に彼女は横になっており、頭はまだ曖昧で、熱が在るのか体がだるかった。
「私は……?」
『うなされていた』
 ぼんやり呟くと、隣の気配が暗がりから明らかになり、ライラは更に夢の続きを思い出す事になる。顔の左半分を覆う髪の合間から少女を静かに窺っている男は、異質な神々しさを身にまとっていた。感情の欠けた彫刻のように表情を変えず、ゆっくりと動く眼球は半ば伏せられたまま瞬きもしない。
「シャイターン──もう、私は人間ではないのね?」
 ライラの問いに、彼は僅かに顎を引くだけで肯定する。人間に在らざる獣の角と蝙蝠のような翼。その容貌から炎から作られた種族である魔神を想像して《悪魔》だと呼べば、奇妙に口元だけで嗤って、名は忘れたから何と呼んでも構わないと答えた者。生死の境で出会い、覚悟があるのなら共に生きようと契約を交わした存在。
『君を私と同じ眷属に転化させた。そして今、目覚めた』
 彼に言われてみると、確かにライラは自分が今までとどこか違う事に気付いた。首元を流れる髪は黒かったはずなのに、明るい橙色へ変化している。体を動かすのが億劫で確認は出来ないが、もしかしたら瞳の色も変わっているのかもしれない。
 これが《悪魔》に憑かれたと言う事なのだろうか。胸の内側で未知なる力が燃えているように思える。
 ──アッラーを捨て、キリストを払い、私は悪魔と共に生きることを決めたんだ。
 それは足元が揺らぐ反面、どこか清々しいような背徳感だった。
 ライラは上体を起こすと、ゆっくり室内を見渡す。奇岩を利用して作られた寺院の中は、真っ直ぐ左手にバルコニーのようなものがあり、柱の間から郊外の鬱蒼とした森が広がっているのが見えた。蔓草の這う壁には彫刻や異郷の絵が描かれてあり、それらは風雨によって半ば崩れてしまっていたが、尚も美しさの片鱗を垣間見せている。
「あの後、町はどうなったの?」
『町の北側は陥落した。既にキリスト教徒に占領されている』
 覚悟していたと言え、暗い吐息が漏れるのは抑えられなかった。キリスト教徒の徹底した残虐行為は留まるところを知らず、人々と文化を根こそぎ痛めつけただろう。暫くライラは耐えるように唇を噛み締めると、視線だけを動かして傍らの悪魔に訴えた。
「……見に、行きたいわ。例えもう救う事が出来なくても、どうなってしまったのか見届けておかなければいけない気がするの」
『後悔はしないか』
「私はもう貴方の手を取ったのよ。人として死ねないのならば、残してきた人々を見る覚悟も、付いているわ」
 掠れかけた語尾を誤魔化し、何とか言い切る。悪魔は理解しようと努めるように、そこで初めてゆっくりと瞬いた。
『何を望む、ライラ。君が闇から私を呼び出し、封印を解いた。契約を交わした以上、私はその望みに応える……』
 緋色の瞳が揺らめく。常に短い言葉で淡々と話すのは、これが彼の母国語とは異なる為なのだろうか。平坦な口調も表情も、感情と言うものがあるのか疑わしくなるほど静かだ。
 だが寡黙ながらも圧倒的な存在感を感じさせるのは、彼の内から発する異質な迫力の為だろう。それをライラは怖いとは思わなかったし、何故か古い友人に会うような懐かしい気持ちさえ湧き起こさせた。
「……私は、知りたい。この戦いの何が悪かったのか。何を憎めばいいのか──何を、正せばいいのか。私たちが何の為に争いの中で苦しんだのか、その価値を知りたいの」
 そう答える。どこまで理解したのか悪魔は物憂げな様子で彼女を見たが、すっと視線を外すと横目で出口を捉えた。
『では、今から向かったほうが良いだろう』
 軽々と少女を片手で抱きかかえ、バルコニーに歩を進める。慌ててライラは落ちないように両手を首に回し、大柄な男の胸にすがった。
 自分で歩けると言いたかったが体力はなくなっていたし、あまりに自然と腕に収まってしまった為、抜け出す気も起きない。巣の中で母鳥に抱かれた雛の気分だった。
 バルコニーから見渡すと、自分たちが随分と高い位置に居る事が分かった。びゅうびゅうと風が吹き付け、岩山にへばりつく草花をせわしなく揺らしている。すぐ耳元で男の緋い髪が踊り、その背後で破れた黒い翼がばさりと布のような音を立てた。
「もしかして飛ぶの?」
 不安になって尋ねると、悪魔は一言『少し』とだけ答えて前方を見つめる。片手でライラの瞼を遮り、獣のような爪で青空を区切って淡々と囁いた。
『着くまで寝ていろ。まだ疲れているはずだ』
 どうやって飛ぶのが気になったが、そう言われると急激に眠気が襲ってくる。やはり体は消耗しているらしい。逞しい腕の中は温かいとも冷たいとも形容できない奇妙な心地良さがあり、これが悪魔の温度なのかと不思議に思った。時折頬に触れる男の髪は柔らかく、同じ眷属になったせいかもしれないが、ここは安全な場所だと本能が告げている。
「……ありがとう、シャイターン」
 礼を言って瞼を閉ざし、眠りの淵へと落ちていく少女の顔は、久々に安らかだった。









 長い封印で傷ついた悪魔の翼は、長距離の移動には適していない。巨石の石窟寺院から一度だけ羽ばたき、ゆっくりと地面に降り立つのが精々だった。
 出来るだけ衝撃を避けたつもりだったが、強風に煽られたのか、少女の閉じた瞼がぴくりと震える。
 起こしてしまうだろうか。
 だが余程深い眠りに居るのか、目覚める気配はない。
『……ライラ』
 悪魔と呼ばれた男は腕の少女を見下ろし、夜を意味する彼女の名を低く呟いた。
『ライラ』
 眠りを妨げる訳でもなく、何かを確かめるように繰り返す。緋色の眼は常ながら静かだったが、無心に少女を呼ぶ声はぎこちなかった。
 記憶を辿らずとも、他者に触れることは随分と久しい。そのとき、背後の小道からカツンと硬い音が響いた。
「なんと……古の封印が解かれたか……」
 感嘆の声を上げたのは、巡礼の白衣を着た老人である。杖で体を支える姿は放浪で疲労していても、白く混濁した瞳には確かな知性の光が宿っていた。
「ここも既に記録から失われ、朽ちていくばかりの遺産だと見納めに参ったが……しかし……これが何となるのか……」
 老人は呟くように言う。悪魔は抱いた少女を庇うように胸に引き寄せ、鋭く尋ねた。
『人間。貴様は何だ』
 老人は怯えることなく深々と礼拝の姿勢を取る。俗世離れした独特の雰囲気を持つ彼は、異形を目前にしても穏やかに返答した。
「これは失礼を……。わしは聖地巡礼を行う流浪の者。お主らを害そうという意思など持っておらぬ。どうぞご安心なされよ」
 悪魔は推し量るように暫く視線を留めていた。しかし興味を失ったのか踵を返すと、無言で片腕を胸の高さまで上げる。
 声なき呼びかけに応じたように、ふと森がざわめいた。やがて空を覆うほどの鳥たちが大量に集まってくる。瞬く間に悪魔の周囲は黒影に包まれ、バサバサと翼がぶつかり合う音が響き始めた。
「遺跡より蘇った者よ、最後に聞かせて欲しい。名を何とおっしゃる?」
『……Shaytan』
 一羽の鴉を左手に止め、うっすらと彼は眼を細める。老人は畏敬の念を抱きながら、感じ入ったように豊かな髭に手を当てた。
「成る程、その娘に使役されるジンだと申すか……。だがお主の気配は単なる炎の魔神と言うより、わしに懐かしい神の類を彷彿とさせる」
『──以前の名は忘れた』
 悪魔は素っ気なく顎を上げる。
 確かに彼は、ライラが思っている存在とは少し違った。彼が名乗った際、聞きなれない異国の言葉に困った少女が、彼女なりに解釈して《悪魔》と呼んだだけ。俗な魔族の名を冠された事には皮肉げな嗤いを返したが、だが少女の声でなら何の名であれ、彼は認めただろう。
 ──もう、自分を呼ぶ者は現れないかと思っていた。
 自我さえ忘却する檻の眠り。犯した罪さえ霞むほどの悔恨と憎悪。魂の芯まで凍らされた幽閉。彼を信仰する者すら東へ追放され、朽ちていくだけとなった身を、ライラがまばゆい《焔》で解き放ったのだ。その網膜に焼きついた輝きは、幾百年たとうが忘れることはないだろう。
 長き永遠を共にすると誓った。彼女に望まれたならば、呼ばれる名の通り低級の悪魔に堕ちようが辞さない。恩を返すという概念は彼になく、その時点では恋でも愛でもなかったが、それは自然と胸に芽生えた彼の意思であった。
 鳥たちの鳴き声が徐々に大きくなる。今や男の周りは黒い渦の塊となり、風に巻き上げられた長い髪が赤々と舞い踊っていた。少女の眠りを妨げないように腕で庇い、老人の事など視界にも止めずに悪魔は何事か低く唱える。
 ざあっと、強風が起こった。
 羽ばたきと鳥の鳴き声が急速に膨れ上がり、一瞬にして消えうせる。老人が深い礼拝から顔を上げたとき、悪魔と少女は既に遺跡から立ち去っていた。
「何にせよ、人ならざる者が一人の娘の為に蘇ったのだ……歴史に携わろうとするお主らの姿、流浪の民は巡礼の途中で、ただ拝見させて頂こう……」





 * * * * * * *





 それより後も、レコンキスタの波はイベリア半島を襲い続けた。度重なる悲嘆と詠嘆、死者と英雄を生み出しながら、元は同じ経典から二つに分かれた兄弟神は、互いを喰らい合う道を辿っていく。
 だが延々といがみ合うかに思われた二つの宗教も、やがて和解し、カスティーリャを中心とした連合王国を生む意外な結末で終わりを迎える事となった。
 それは焔をまとって突如現れた、人ならざる敵に対抗する為であり、この『悪魔による審判の日』と後世に伝えられた出来事がなければ、更に戦乱は百年ほど伸びていただろうと歴史家たちは評している。
 だが不思議な事に、人類の脅威だと思われた悪魔の来襲による被害は、殆ど出なかったらしい。
 とある放浪の一族には、当時イベリアを巡礼していた三姉妹の伝承歌の中で、唯一それを『救世』の文字を用いて伝えている。
“戦乱を終わらせた悪魔が放った焔は、神のように人々を裁くものでも、清めるものでもなかった。ただ争いを憂う一人の少女を想ったが故、地上に贈られた愛の火である”と。







END.
(2007.08.05)

というわけで情報も出揃わないのに、陛下の掌の上で楽しく踊ってみました。同盟国については、敢えて歴史を改竄してみる暴挙。



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