指先に魔法












 人々の様子を伺いに街に下りていたライラは、共に食べようと思って買った串焼き肉を二本両手に持ったまま、きょとんと広場の入り口に佇んでいた。
「あれ?」
 待たせていたはずの場所に悪魔がいないのである。今日も今日とて一緒に付いて来る来ないで揉めた後、どうにか彼を納得させ、広場の東にある絨毯売りの店の横で別れたはずだった。
 そこで急いで街を歩き回り、懐かしい人間の世界で様々な噂話を聞きとめた後、謝罪を兼ねて露天で串焼き肉を買ってきたところなのだが、肝心の悪魔が見当たらないのである。礼拝の時間が終わったばかりで、道には祈りを終えた人々がどっと流れ出ていた。この人ごみで見つけられないのだと納得したのは一瞬で、あの長身で見当たらない訳がないとすぐに考え直し、思わず首を傾げてしまう。
 悪魔は人里に下りる際、角や羽根、それから頬の文様を隠す布をすっぽりと纏うようにしている。それでも人間離れした彼の存在感は周囲から浮きがちだったし、元から大柄な為、ぴょこんと飛びぬけている頭を探せば一発で見つけられたのに。
(強引に置いていっちゃったから、怒ってどこかに行ったり……してないよね?)
 まさか彼に限ってとは思うが、ライラは少しばかり不安になる。きょろきょろと周囲を見渡していると手元が留守になり、気が付いた時には押されるようにして通行人の波とぶつかっていた。
 あっと思った時には指の力が抜け、肉の重さに負けて串が抜け落ちてしまう。たたらを踏んで道の脇に避けたライラは、石畳の腕にぼてりと落ちた二本の串焼き肉を名残惜しげに振り返った。
(シャイターンは見つからないし、お土産は落としちゃうし)
 出鼻を挫かれて寂しい気持ちになる。悪魔は人間のように食料を必要としなかったが、共に生活をするようになってからライラのする事を真似て、あれこれと口にするようになっていた。それが何だか嬉しくて、どれを食べさせれば彼が喜んでくれるだろうかと、急いで見繕ってきたのに。
 気持ちを持ち直そうと唇を引き結んで地面を見つめていると、視界の隅からすっと逞しい手が伸びてきた。
 健康的に焼けた男の手で、それは地面に落ちた串を二本とも器用に指に挟み込むと、姫君に花でも捧げるように差し出してきた。
『落とした』
 簡潔な声が告げる。差し出された肉には砂がくっついていた。いくら石畳の上とは言え、人通りの多い路上に落としたのだからこうなるのは仕方ない。しかし砂まみれになった肉をご丁寧に拾ってくれるとは、親切だが、どこか間が抜けているように思えた。これを食べるのはなかなか勇気がいる。驚きながらも礼を言おうと視線を上げたライラは、そこにある顔を見て目を丸くした。
 やや浅黒い肌に、端正と言うより精悍と呼び現した方がしっくりする顔立ち。光が差し込むと火花のように輝く緋色の瞳。はらりと零れ落ちる髪色も炎そのもののような色で、その隙間から丸く形のいい耳が二つ覗いている。それは人間の青年の姿をしていたが、いつも隣にあるはずの悪魔にとてもよく似ていた。
「……シャイターンなの?」
 ライラが恐る恐る尋ねると、目の前の男はすっとこちらに視線を合わせ、物静かな瞳に微かに誇らしげな色を浮かべる。
『物陰で、少し姿を変えてみたのだ。私は少し目立ちすぎるようだから、待つにも不都合で』
 はにかむような沈黙で口を閉じ、彼はライラを人ごみから庇うように立ち上がった。人間に化けたと言うだけあって、普段よりも頭の位置が低くなっている。大柄には違いなかったが、ライラを片手で持ち上げるような人離れした逞しさは失われていた。代わりに鍛えられた軍人のような体躯に、先程まで目深に被っていた黒の外衣を緩め、簡素な白の装束をゆったりと身に纏っている。紫に染められた袖口からはしなやかな人間の手が覗き、装甲のような悪魔の爪はなくなっていた。波打つ赤髪も広がらないよう緩く編まれており、角や翼は影も形もない。頬や額の模様もなくなっていた。真っ白だった肌も不自然ではない程度に日に焼けている。
『ライラ、これを』
 片手を壁について人の流れからライラを守りながら、彼は拾い上げた肉を生真面目に差し出した。ライラは信じられないような気持ちで目の前の青年を見上げていたが、砂塗れの肉をさも大切そうに扱う仕草に急に笑いが込みあげてきて、思わず声を上げてしまった。
「あは、本当にシャイターンだ!凄いわ、指もちゃんと人間と同じね!」
『これでは敵を切り裂けないから、少し頼りないかもしれないが』
「ううん、そんな事ない、素敵だわ!こんな事ができるなら、もっと早くやれば良かったのに!」
 ライラは笑いながら手の甲に触れた。柔らかく、人の肌の感触と温度がする。鉱石のように鋭く硬い手がライラを傷つけないように、彼が普段から慎重すぎるほど気を使ってくれていると知っていた。だから、こんなふうに簡単に化けられるなんて思ってもみなかったのだ。
 悪魔は串焼き肉をライラがなかなか受け取ってくれないので困っていたようだが、彼女のはしゃぎように気を良くしたのか、ふっと満足げに目を細めている。
『わざわざ人に化けるなど以前の私ならば思い付かなかっただろうが……堂々と君を待てるなら、悪くはない』
 人の姿になったせいか彼の表情が普段より親しげので、ライラは少しばかりどきりとした。魔神の物々しさが和らいで、相応の青年らしく見えたせいなのかもしれない。それとも単に身長差が縮まり、顔の位置が近くなったせいなのかもしれない。
 ライラは落ちつかずに視線を投げかけ、一度外し、再び向けると言うことを繰り返した。悪魔はそれに気付いているのかいないのか、いつも通りの面持ちでこちらを見つめている。
『それで、これは食べないのか?』
 彼は根気強く二本の串焼きを指し示した。すっかり忘れかけていたライラは目をぱちぱちさせ、少し黙った後、砂が付いちゃったから食べにくいわと答える。悪魔は考える素振りをし、ではあちらに行こう、とライラを脇道へと誘った。何か考えがあるようだ。肩に置かれた温かく柔らかい片手に促され、ライラは戸惑いながら彼の隣に並ぶ。
 道は狭まりながら緩やかに上がり坂になり、人通りがぐんと減っていった。最初の待ち合わせ場所にしていた絨毯屋の裏手らしく、見知った場所を行くように迷いなく進んでいく。しばらく行ったところで悪魔は頭上を仰ぎ、ゆっくりと足を止めた。
『ライラ』
 物静かな彼は、ただ名前を呼ぶだけで意志を伝えようとする。示された場所を見上げると、建物の壁を伝って小さな影が行き来していた。逆光に目を凝らすと、黒い翼と口ばしが確認できる。彼の使役する鳥達だ。
『彼らにやってもいいだろうか』
 悪魔が尋ねた。勿論断る理由はない。いいよとライラが頷くと、彼は丁寧に串から肉を抜き取り、それを素早く空中に投げやった。特に合図をしなくとも主の意志が分かるのか、鳥達は綺麗に滑空すると糸で引き寄せられるように上手に肉片を銜え込み、すっと反対側の壁へと飛び降りる。悪魔は次々と肉を放り投げ、鳥達はそれを軽々と受け取った。何だか芸を見ているみたいだ、とライラは思う。
 すっかり肉を撒き終わると、満足したらしい鳥達が二人の周りに集まってきた。甘えるように肩に止まってきた一羽を悪魔は軽く手の甲で撫で、羽根を整えてやっている。
「シャイターンって動物に好かれるよね。優しいのが分かるのかな。お肉、貰えて良かったね」
 ライラがそう声を掛けると、鳥はまるで話が分かったようにくるりと首を回した。
『いや……単に彼らは付き従っているだけだ。だから、好かれているのとは意味合いが違う』
 悪魔は生真面目に説明する。別にそこまで厳密な事を言いたい訳ではないのにとライラは苦笑するが、そうした彼の性質はもう分かりきっていた事だったし、その誠実さを好ましく思う事こそすれ鬱陶しく思うような事はない。ライラも興味を引かれて触っていいかと尋ねると、悪魔は頷き、鳥を肩から腕に止まるよう促した後、眼前まで下ろしてくれた。
 鳥は飛んでいる姿を見ている時よりも大きく、羽根を広げればライラの頭をすっぽりと覆う事ができそうだ。どこを撫でればいいのか悩んでいると、悪魔が手振りで喉の下を指し示してくれる。おっかなびっくり曲げた指の背でそこを撫でると、鳥は気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふ、犬や猫と同じなのね」
『面白いか?』
 悪魔が尋ねる。うん、と答えようと視線を上げると、思ったよりも近くに彼の顔があって、ライラは再びどきりとした。これまでだって彼に抱き抱えられ、ぎゅっと首にしがみついた事だってある。誓いの接吻だってした事がある。だから別にうろたえる必要はないのだけれど、そんな考えとは関係なく鼓動は早鐘を刻み始めていた。やはり普段と少し姿が違うから、体が勝手に緊張しているのかもしれない。
『どうした、やはりこの姿は何かおかしいだろうか?』
 まじまじと見つめてくるライラの反応に、悪魔も微かに眉を寄せる。
 大切な何かを見透かされそうな気がして、ライラは慌てて首を横に振った。どうしてか耳たぶが熱い。
「ううん、ごめんね、全然おかしくないわ!でも、えっと……多分ちょっとまだ見慣れなくて!」
『そうか……ならば、もう少し別のものに化ける事もできるが』
「え?」
 意外な申し出である。そこまでしてもらう必要はなかったが、そう言われると興味が湧いた。そんな事もできるのかと驚くと、ライラが乗る気になってくれた事が嬉しいのか、悪魔もすんなり頷いた。
『属性を変えるだけのものなら簡単だ。少し待ってくれ』
 そう言って瞼を閉じる。その瞬間、彼の足元から赤い焔が巻き上がって全身を包んだ。ライラは反射的に腕で顔を庇ったが、どこも熱くはない。魔力を具現化した幻の焔のようだった。それは彼の足元から髪の毛の先まで嘗め尽くしたかと思うと、数秒後、すっと風に溶けたように消えていく。
 そうして現れたのは、更に一回りも二回りも小柄になった悪魔の姿だった。体に合わせて装束も変えたのか、砂避けの黒い布の下は異国の踊り子めいた薄手の服で、袖から覗く手首は華奢でほっそりとしている。片手を振って最後の焔を消し去ると、細い首筋から瓜形の綺麗な相貌がこちらを見つめていた。目鼻立ちは以前と同じなのに、その全てが繊細で柔らかい――美しい成人女性の姿である。
「凄い、本当にシャイタンなの!」
『ああ』
 返事をする声も、硝子を爪で弾いた音のように高く透明だ。これなら緊張せずに済みそう、とライラは喜んだ。彼女もまた年頃の少女として、同性の友を持ちたいとずっと前から望んでいたのである。女に化けた悪魔は友と言うよりも姉と呼んだ方がしっくりくるような落ち着きがあったが、それでも憧れるような美しさだった。
 楽しくなったライラは勢いあまって相手の懐に飛びつき、ぎゅっと腕を回す。悪魔は虚を突かれて不思議そうに身を固めたが、やがてライラの背に手を回し、そっと受け止めた。
「……?」
 途端、むにゅりと顔が埋まる。一瞬ライラは懐かしい母親に抱かれたような安堵を感じたが、その感触の正体に気付くと真っ赤になって体を離した。
 顔を上げれば、豊満な小山が二つあり、その向こうから怪訝そうな視線が降ってきている。
『どうした?』
「……あっ、え、えっとね!」
『これも気に入らないのか、ライラ』
「う、ううん、別に嫌って訳じゃないの!でも何だか複雑な気持ちって言うか……!」
 どう答えようか困ってしまった。魔力で姿を変えたせいか、悪魔は「女とはかくあるべし」と言う理想をそのまま引っ張り出してきたような姿をしている。魅惑の力で人間の生命を奪う魔物がいると御伽噺で聞いた事があったが、もしかしたら現在の彼はそれに近いものなのかもしれない。よくよく見れば起伏のある体つきといい、優美な顔立ちといい、匂い立つような色気だ。
『しかしこれならば、どこへでも共に行く事ができる。聖廟では、祈りの部屋が男女別にされているだろう。今までそれが不満だったが、この姿ならばどこへ行っても君を守れるのだ』
 悪魔はライラの機嫌を取ろうとするように、親指でそっと頬を撫でた。確かに男の姿の時よりも、こちらの方がずっと自然に好意を受け取る事ができるが、それでも落ち着かないのは変わりなかった。どぎまぎする。同じ女としても劣等感を刺激され、徐々にしょんぼりした気持ちになってきた。少なくとも自分はこんなに……その、女らしい体ではないし。
『駄目か、ライラ?』
 悪魔は再び問うた。どこまでも誠実で真っ直ぐな彼の態度に、無理に戸惑いを隠すのも間違いな気がして、ライラは素直に頬を膨らませてみる。子供のまま成長が止まって得をしたのはこんな時くらいだわ、と思った。
「やっぱり私、いつもの方がいいな。何だか違う人みたいで変な気分になるもの」
『しかし、それでは共に買い物に行けない』
 悪魔はそれがひどく重要だと言わんばかりに訴えた。そんなに置いていかれるのが嫌だったのだろうか。
 しかし、女性の姿のままでも人目を引きそうだ。イスラムでは妻を四人娶る事ができるが、こんな美人な奥さんが一人いたら、男の人は他の妻の事なんて考えられないほど首っ丈になるんじゃないかしら――とライラは思う。
「だったら……さっきの方がいい、かも?」
『分かった』
 迷いながら答えると、悪魔は素早く焔を召喚して姿を変えた。まるで早くしなければライラの気が変わってしまうのではないかと恐れているように。再び体格が変わり、ぐっと眼前の姿が大きくなって、肩に置かれた手が逞しい男性のものへと変わる。
『これでいいか』
 もうこれで間違いがないようにと、彼は慎重に確認を取った。精悍な青年の姿である。ライラはやはり目に馴染まないような気がして耳元を赤らめたが、これ以上我が侭を言うのも悪いと思い、うんと頷く。悪魔は小さく息を吐き、目を伏せるようにして微笑んだ。
『では、先程の肉を買いに行こう。鳥にやったばかりでは退屈だ。共に食べたい』
 そう言って手を引かれる。滑らかな掌を握り返しながら、やっぱり何だか慣れないなぁ、とライラは首を傾げるのだった。






END.
(2012.05.01)

イスラムの魔神なら、姿形を変えられるくらいのスペックがあるといいな


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