幕間の言葉と教養者









 日没と共に雨が降ったらしい。湿った土の匂いが急ごしらえの兵舎に入り込み、何重にも布を張った天幕から雫が滴り落ちると、じゅっと火鉢の中で嫌な音を立て蒸発していく。
 ドーバー海峡を渡り、武装した歩兵、騎兵がおのおのの獲物を携えて城を包囲する事、遂に三日。相手方の反応が薄いまま膠着状態が続いていた。ここで雨となると兵の士気が下がるなと、アルヴァレスは汲み継いだ酒を煽る。
 ――ブリタニアは本当に雨と霧の国なんだな。
 鎧は従者に引き渡して磨かせてあった。申し訳程度に鎖帷子と外套を羽織った格好で、彼は主人の到着を待っている。幕舎の床はたっぷりと布が敷かれおり、胡坐になって直に座り込んでいても地面の冷たさは気にならない。中央に置かれた火鉢や壁に掛けられたタペストリーも豪奢なもので、夜の闇も雨の冷たさも毅然と跳ね除けて室内を暖かく保っている。
 問題は内装ではなく、人選だ。
 部屋には二人。アルヴァレスと、数ヶ月前から新たにキルデベルトの軍に組み込まれたプロイセンの若い将軍。二人は言葉も交わさず、杯をぶつけて互いの健闘を称える事もなく、競技のようにひたすら目の前の酒を飲み続けていた。
「……なかなかいらっしゃらないな、陛下」
「……ああ」
「…………」
 冷え冷えとした空気を打破しようとアルヴァレスが呟いてみても、跳ね返ってくるのは短い相槌のみ。束ねもしない黒髪を無造作に背へ流し、晩酌の相手――ゲーフェンバウアーは詰まらなさそうにぐいぐいと酒を飲んでいる。
 無愛想だと噂は聞いていたが、まさかこれほどとは。高潔さと陰気さが織り交じった男の間には常に見えない壁が立ちふさがっているようだった。面識がない上、話題もない。
 ――気詰まりだな。
「犬と子供の躾けはドイツ人に頼め」と言う言葉があるが、今となっては的を射た表現と納得できる。おそらく人前で酔っ払うなと子供の頃から厳格に教え込まれているのだろう。結構な量を飲んだはずだが、ゲーフェンバウアーに酔いの兆しは見られない。同郷の人間で編成された彼らの隊で酒乱騒ぎが起こったと聞いた事もないし、そんな男は一生蔑まれるのだと小耳に挟んだ事がある。
 共に飲む相手としてこれ以上やりにくい人間はいない。酒の席の無礼講だとか、気安い愚痴だとか、そうしたものが一切楽しめないのだ。早くキルデベルトが来て軍議を始めないだろうかと、いつになく落ち着かない気持ちでアルヴァレスは杯の隙間から室内を盗み見る。
 奥の壁には王の為に献上されたタペストリーがぶら下がっていた。軍議で使えるよう地図の意匠が選ばれたのだろう。毛織物で名を馳せたフランドルらしく、一角獣や獅子などの動植物があしらわれた飾り枠の中、ガリア全域の土地と海が豪奢に刺繍されている。
「そう言えば、俺の隊へ出動要請が出たと聞いているが――」
 地図を眺めて今後どうするか考えていると、思いがけず声が掛けられた。横に視線を動かせば、ゲーフェンバウアーが組んだ膝の上に肘を立てて目を細めている。
「偵察隊だそうだな。そちらの提案か?」
「ああ、そうだ、私から頼んだのだが」
 刃のような黒曜石の視線に若干怯みながら、アルヴァレスは頷いた。
「城の連中が立て篭もったまま打って出る気配が全くないだろう?と言う事は、他の砦からの応援を待っている可能性があるだろう。私の隊からも人を割くが、君の小隊も一つ二つ貸して貰って、そちらに回して牽制にと……」
「牽制?」
 ゲーフェンバウアーが小さく鼻を鳴らす。
「砦の様子を見てくるなら既存の斥候隊で事足りる。ただでさえ城攻めは戦力がいると言うのに、わざわざ牽制の為だけに?」
 温厚で通っているアルヴァレスとて、その言い草には多少かちんとくるものがあった。だが彼は自分の部下ではないし同じ将軍職なのだから、と思い直す。
 ゲーフェンバウアーとて戦況を真面目に考え、こうして意見をしてくれるのだ。険を立ててても仕方ない。アルヴァレスは努めて穏やかに言い返した。
「ブリタニア騎士団の動きが怪しいのだ。噂に名高い騎士長が王都から出てくると言う話もある。ドーバー海峡に無傷で上陸できたはいいものの、このまま拠点確保に手間取っていれば彼らに囲まれる危険が高い。だからこそ慎重にいきたいのだ」
「……成る程。あそこの騎士団は余程手強いらしい」
 こちらの言い分に納得したのか、ゲーフェンバウアーも唇を歪めて頷いた。彼は手酌で酒を注ぐと、やや思案するように言い足す。
「貸すとしたら、クレメンスとテオバルトの隊だ。他は動かせん」
「そうか。有り難い――」
 クレメンスとテオバルトとはどんな輩だったろうかと記憶を探ったところで、そう言えば前回の交戦で左翼に配備されていた男達だ、と思い出す。アルヴァレスは頭を抱えたい気持ちになった。
「……悪いが、他に回せる人間はいないのか?」
「何か問題でも?」
「いや……ちょっと彼らは訛りがひどくて私の隊との交流が難しいかな、と」
 歯切れ悪い返事になるのも仕方がない。キルデベルト率いるフランドル帝国軍は各地の人間が寄せ集めらた混成軍で、同郷の兵をまとめて隊を組んでいた。言葉が通じなければ命令を徹底できないからである。
 ゲーフェンバウアーの受け持つ幾つかの隊は、そう言った面で、素直には歓迎できない人選だった。
 強さには申し分ない。ドイツ人らしい大柄な体格と生真面目な態度には好感が持てるし、皆よく鍛えられている。
 しかし、しかしだ。少しはドイツ語を聞きかじっているアルヴァレスにも戦いの最中、クレメンスとテオバルトが兵を奮い立たせる為に何と怒鳴っていたのか、さっぱり分からなかったのだ。
 苦りきったアルヴァレスの様子に仲間を侮辱されたと思ったのだろう。黒い瞳が細められ、突然ゲーフェンバウアーが指を突きつけんばかりに身を乗り出した。
「いいか、ドイツでは村の数だけ麦酒があり、麦酒の数だけ方言があると言われている。それだけ土地の自治性を重んじているからだ。地域に根付いた言葉を郷土愛として大事にこそすれ、ないがしろにするような蛮族ではない。そもそも我が国は中央と言うものがない連邦国家で、どの土地も平等な立場だ。国の訛りがあるからと見下すような輩は少ない」
 さすが討論となると張り切るお国柄である。急に饒舌になってきた相手を前に、どうした事かとアルヴァレスは慌てて相槌を打った。
「あ、ああ、確かに郷土愛は素晴らしい事だな、うん、君の言う通りだ。だが、いざと言う時にぱっと意味が通じなければ困るんじゃないのか?訛りばかりじゃ何を言っているのか、私なんかはさっぱり分からないんだが……」
 常日頃の疑問を述べ立てると、ゲーフェンバウアーは顎を反らせて腕を組み、本格的に語り出す体勢になった。
「方言の他に共通語があるのだ。高地ドイツ語と言う。他の村と行き来する立場の人間は教会なんかで習う事になるだろうな。俺の隊でも伝令は全て高地語に統一している」
「へえ……」
「挨拶にしても北ではグーテン・タークだが、南ではグリュース・ゴッドなんて言う。正直、俺も別の地域の言葉はよく分からんが」
「ああ、成る程。南の方が若干響きが柔らかいのか。気候が穏やかなせいかな?」
「知らん。だが一理ある」
 講釈に耳を傾けているうち、少しばかり面白くなってきた。侵攻に狩り出されるばかりで他国の観光などろくにしていないアルヴァレスにとって、こうして土地柄の違いを知るのは新鮮だ。
 聞けば、深い森で土地が区切られているせいでドイツでは各領地で独自の文化が育ちやすいらしい。また言語にしても音の響きを大切にしているようで、成る程、詩人や音楽家を次々排出している国だと納得するものがあった。あれだけ森深い土地に暮らしていると、眼を凝らすより耳を澄ます方が性にあっているのかもしれない。子音が強くて重々しい響きがあるせいか「ドイツ語は馬と軍人が話す言葉だ」と陰口を叩かれがちだが、生真面目に詩を引用して自国の文化を誇るゲーフェンバウアーの声にはどこか音楽的な美しさがあった。明快で高貴な響きだ。
「それに、方言を使うのは同郷の間だけにしろと徹底させている。いざ会話してみればそちらにも言葉は通じるはずだ。どうだ、まだクレメンスとテオバルトの面子で異論はあるか?」
「いや、私の取り越し苦労だったようだ。勉強になったよ」
 長い講義を聴き終えた充実感に包まれ、アルヴァレスは深く頷く。相変わらず酒の席らしい無礼講や気安い雰囲気はなかったが、こうして言葉を交わしていると身の内に満ちる澄んだ空気があった。
 ゲーフェンバウアーも頭は悪くないのだろう。こうして流暢に話しているのもキルデベルトが定めたフランドルの公用語だった。もしかしたら良い話し相手になれるかもしれない。戦いに明け暮れていたせいで学術的な話題は随分と久々である。
「ついでに聞くが、君の故郷はどんな方言だったんだ?」
 砕けた気持ちになって尋ねると、先程の熱心さはどこへやら。黒髪の将軍は途端に眉を跳ね上げ、心底嫌そうに吐き捨てた。
「俺は西の生まれだ。それほど大きい村でもなかったし訛りもある……が、貴様に聞かせてどうなる。違いが分かるとでも?」
「……まあ、確かにどうにもならないけれど」
 何が気に障ったのか、唐突に話題を切られる。それを言い出せば先程までのドイツ語の講釈も無駄なんじゃないかと思ったが、人の良いアルヴァレスは追求せずに引き下がった。
「ははっ、ベルガの死神とあろう者が、また随分と盛大に振られたようだな」
「……陛下!」
 雨音に紛れて近付く音が聞こえなかったせいだろう。いつの間にか幕舎を開け、豪奢な衣装に身を包んだキルデベルトが背後に立っていた。傘を持つ従僕を片手ひとつ振って下がらせると、彼は愉快そうに湿った前髪をかき上げる。二人は慌てて姿勢を直し、主人を迎え入れた。
「もう二人ほど将軍を呼ぶはずだったが、あいにくと立て込んでいるようで遅れると言う。だがお前達だけにしてみるのも面白い。その方言とやら、余も聞いてみたいものだな」
「……お耳汚しでございます」
 頭を下げたゲーフェンバウアーが苦々しく返答する。フランドル皇帝は二人の前を横切って上座に向かうと、繻子のクッションに持たれて優雅に頬杖を付いた。
「構わん。戦も女も賭け事も、世俗の物は醜いからこそ面白い。美しさだけではかえって興醒めだ。そうは思わんか?」
「はっ――」
「だからこそ、このブリタニアも汚らしく染めてやろうと言うもの。些か陳腐な言い回しだが、奴らの血と死体でもって、な」
 鷲のような目で低く笑い、キルデベルトは壁のタペストリーを見上げた。肩まで垂れる亜麻色の髪がさらりと揺れる。
「まあ、堅苦しい軍議は他の将軍が来てからにするとしよう。それまでゲーフェンバウアー、お前、何か喋れ」
「……と言いますと」
「例の方言だ。余も他国の文化に興味がない訳ではないからな。程よく下品なものを頼むぞ」
 残虐な猫に似た微笑で、皇帝はにっこりと言い放った。どうなる事かと二人を見比べていたアルヴァレスは、黒髪から覗くゲーフェンバウアーの耳元が屈辱と羞恥で赤らんでいるのに気付く。
 ――さすがに気の毒だな。
 神聖帝国の名を掲げ、無遠慮に侵攻を繰り返すキルデベルトが他国の文化を尊ぶ訳はない。何だかんだ言いつつ、この生真面目な騎士の田舎ぶりを笑いたくて仕方ないのだろう。
 アルヴァレスが肝を冷やして成り行きを見守っていると、ゲーフェンバウアーが片膝を立てて頭を下げたまま、小声で何か呟くのが分かった。
 どうもドイツ語で「こんのクソったれ」と言ったようだが――。
 果たしてこれは方言なのか、どうなのか。








END.
(2010.12.24)
Marcheを聞いて最初に書いた話がゲーフェンのドイツ語講座ってどうなのと思いつつ、やったもん勝ちのネタですのでご容赦を。我が家のクロセカ帝国組もキャラが定まっていないので、こちらも平にご容赦を。
ここで語っているドイツ語の話も、本当はもうちょっと後の時代の事なんで鵜呑みにしないでください。高地ドイツ語が共通語として広く学ばれ始めたのは中世以後の話。でもドイツは郷土愛の強い国で、方言を大事にしているようですよ。
それを考えると黒き女将の田舎っぺ発言がちょっと面白い。ドイツ人じゃなかったりしてね。いや、そこまで深読みする必要はないか。


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