フィンブリアータ









 魂を堕落させるものとして、芝居が禁止されていた時代があった。カトリックの人間は今でも芝居と聞くと渋い顔をする。
 しかし現在のロンドンでは常打ちの劇場はもちろん、昔ながらの旅回り一座が旅籠の中庭で行う素朴なものや、気候のいい春から夏にかけて同業組合が総出で行う三日がかりの野外劇など、芝居は市民の娯楽提供に欠かせない存在となっていた。そしてその恩恵を受けるのは庶民のみならず、貴族とて同じこと。
 御前公演。女王を喜ばせる為の舞台は、その最高峰である。
「芝居はいいわね。なんでも美しく見せてくれるもの」
 叔母である冬薔薇との対立が続くローザも、この時ばかりは素直に出席する。彼女もまたブリタニア人らしく芝居好きで、お気に入りの台詞などは楽々と暗誦してみせるほど。最近は笑劇もたしなむらしく、周りがぎょっとするような際どい冗談も覚えてくる。
 そんな彼女のボックス席で騒動が起こったのは、ちょうど二幕が終わりを迎える頃だった。言い争う声の後、カーテンで仕切られたボックス席から何者かが追い出されてきたのである。
 柱に寄りかかり舞台へ拍手を送っていたパーシファルは、何事かと素早く視線を走らせた。だがすごすごと逃げ帰る若い男を目に留めて、下らないと一笑に付す。
 ――グレンヴィル卿。
 以前からローザに言い寄っていた男だ。今回も何だかんだと理由をつけて王女との同席を勝ち取っていたが、公演中にしつこく口説こうとして失敗したのだろう。野心家ではあるが、所詮は甘ったれた五男坊。功を焦りすぎて不興を買ったか。
 冷え冷えとしたパーシファルの視線に気づいたのか、グレンヴィルは恥辱と敵意の混じった目でこちらを睨みつけると、足早に通路を去っていく。護衛長官として王女の側に控えていると、こうして要らぬゴシップばかりを仕入れて恨みを買うものだ。グレンヴィルを横目で見送った後、野暮だとは思いつつも、入れ違うように主の元へと足を向ける。
「ローザ様」
 カーテンを開け中を覗いたパーシファルは、途端に顔を曇らせた。ボックス席は優に六人が座れる広さだが、今はローザしかいない。ラベンダー色のドレスの裾が零れるように椅子から床へと流れていた。
「……パーシファル?」
 靴音で誰か気付いたのだろう。騒動を聞きつけられて気まずいのか、はにかんだ表情でローザが振り返った。
「お疲れのようですね」
「もうぐったり」
 二階と三階のボックス席は王族や外国の大使達にあてがわれるもので、ステージの左右に張り出すような形で作られている。観劇より、むしろ自分達の姿を周囲に見せて権力を誇示する為の席だ。冬薔薇も隣のボックス席である。ただでさえ体を傾けなければ舞台は見えにくいと言うのに、気もない男との相手で芝居に集中できず、さすがのローザも元気がない。パーシファルも同情を示して頷いてみせた。
「他の皆様はどこに?」
「エリーナは具合が悪いって中座したけど、きっとシュリー卿のところ」
「それは……身勝手な」
「今頃は奥様の目を偲んで逢引でしょうよ。他も似たり寄ったり。グレンヴィルと二人きりになっちゃって参ったわ」
 ローザは寂しくなった座席を見渡し、溜息と共にワインを飲み込んだ。
「グレンヴィルったら、事あるごとに余計な茶々を入れるのよ。一幕の間はまだ我慢できたんだけど、二幕になってからはまるで九官鳥ね。自分では上手いつもりなんでしょうけど、うるさくてうるさくて」
「口説き文句には自信があったんでしょう。確か、ご趣味で詩を書いているとか」
「やめて欲しいわ……」
 おかげで芝居の台詞が聞こえなかったと、空になったグラスを差し出す。いつになく乱雑な仕草は彼女なりの甘えだろう。
 パーシファルはボックス席の入り口に立ったまま人を呼び、新しいボトルを届けさせた。手ずからに封を切り、ワインを注ぐ。
「貴女に追い出されたとなっては、さすがのグレンヴィルも鳴りをひそめるでしょう。少し目立ちすぎる男ですから、私としても安心しました」
「……そう?」
「あれではローザ様のお役には立ちません――どうぞ」
「そう、ね。ありがとう」
 グラスを差し出す。受け取ったローザは眉をしかめながらも微笑して、ちらりと直立するパーシファルを眺めたが、三幕が始まる気配を感じて前に向き直った。舞台ではなびかない想い人を描き口説こうと、役者が大仰な身振りで愛を歌い始めている。
「不思議ね。誰も彼も、まるで恋と愛だけが世界を動かしてるみたいに」
 芝居を眺め、ローザが呟いた。そっぽを向く髪の結い目からふわりと後れ毛が零れる。パーシファルは先程から彼女の指先が小さく震えている事に気付いたが、あえて口には出さなかった。
 舞台へ向けて張り出しているバルコニーのカーテン。当初は開け放たれていたはずのそれが、人目を忍ぶように四分の一ほど閉められていた。おかげでボックス席は暗くなっている。空になった椅子も乱暴に傾いたままになっていた。
 先程ワインを飲み終える際、ローザが唇を強く拭った事にもパーシファルは気付いている。彼女のドレスの襟元が、僅かに乱れている事にも。
 ――グレンヴィルめ。
 呪う言葉を噛み締める。この時ばかりは自分の目聡さが恨めしかった。二人きりになったのをいい事に、奴が不逞を働いたのは見え透いている。カーテンで作った死角で何をしようとしていたのか、男ならば多少は見当がついた。
 王女の腰を引き寄せてキスを?それとも耳元に得意の睦言を?
 ローザが何も打ち明けない以上、大事には至らなかったのだろう。宮廷の恋愛はそのまま政治の勢力図と繋がっている。これも駆け引きの一つだからと、彼女は周囲の男達に思わせぶりな態度を取り続けてきたし、パーシファルもそれを望んでいた。血を流さずに懐柔できるならそれに越した事はない。グレンヴィルも今回の事で冬薔薇派に移らなければいいが――。
 しかしそう案じる声よりも強く、箸にも棒にもかからぬ輩にローザの周りをうろつかれるよりは、このまま敵に、とも。
「ここに座らない、パーシファル?」
 暗い考えを遮るように、ローザの声が耳を打った。はっとして見開いた目の先に、ぽんぽんと隣の席を叩く彼女の手が映る。
「王女が一人で観劇なんて、ちょっと格好がつかないと思うの。寂しい女みたいじゃない」
「……ならば、いつもの侍女を呼んできますが」
「馬鹿ね、ここは三階よ。あの子は高い場所が苦手だから、舞台を見る前に目を回してしまうわ――貴方でいいの」
 普段通りの口調の中に、何か言い知れない懇願が宿っていた。心細いのか、試したいのか。彼女の不安げな目さばきの中に、もう自分の知る幼い少女ではないのだと気付く。場に満ちた甘い緊張に胸が軋む想いがした。
「……おたわむれを」
 仕方なくパーシファルは口元で微笑む。他にどんな受け答えができると言うのだ?
 ここは王族専用のボックス席。人目もある以上、大っぴらに王女と馴れ合う訳にはいかない。何よりパーシファルの自尊心がそれを許さない。
「貴女の後ろに控えるのが仕事です。ここに立っていますから」
 ほら、と前を向くように促す。舞台は着々と進行していき、今では三人の男女がお互いの不実をなじり合っていた。下らないロマンスだが、パーシファルには何故かそれが忠実さを示す正しい寓話であるように聞こえる。想いは一つに絞るべきだと。
 ローザは最初表情を動かさなかったが、ふいに崩れ落ちるようにして背を丸め、椅子の肘掛けにしなだれかかった。つんと唇を尖らせる。
「……パーシファル」
「はい」
「けち」
「……私相手では外聞が悪いでしょう」
「け〜ち〜」
「ローザ様」
「だって、座ってもくれないなんて」
「……今更です」
 たしなめると、すっとローザは表情を引き締めた。
「恋をするのに、貴方は有能すぎるわ」
 お芝居には出れないわよ、と。それはどんな想いで発せられた言葉なのだろう。息苦しくなるのを感じたが、パーシファルは平静を装って目を伏せる。
「確かに、芝居にするには面白みに欠けますね。私は」
 女である事の幸せよりも、女である事を武器に政治の世界に乗り込んでくれた彼女に、パーシファルがしてやれる事など実際そう多くない。ここは戦場ではなく宮廷で、いくら護衛長官と言えども寝室にまで立ち入る事はできないのだ。いつかローザがブリタニアの世継ぎを生む日が来ても、その子供の名付け親にすらなれない立場なのだと、パーシファルはよく己を理解している。
 主人として慕い、妹として愛し、友として手を取った――けれどもその先はない。
 芝居のように情愛で世界が動いたら、どんなに素晴らしく、そして恐ろしい事だろう。積み重ねた信頼の全てを投げ打って役者は愛を歌う事ができるが、この背に掛かる国の運命は命よりも重く、気休めに頷く事すら躊躇わせた。だからこそパーシファルはいつも通りに自制心の利いた完璧な態度で、彼女の背を前へと促すのだ。
「さあ、集中してください。三幕は始まったばかりですから」
「はーい。では後ろにいらしてね、お兄様?」
 ひらひらと手を振り、ローザが背筋を伸ばす。冗談を言いながらも前を向いた彼女の姿勢は美しかったが、その肩は微かに気落ちしていた。そうして二人、ありもしない他人のロマンス劇を眺めて時間を潰す。



 ローザの初恋は詩人のバラッドだと公言されている。
 けれども二度目の恋は口に出される事もないまま、ひっそりと自分達で手折っていくのだ。





END.(2010.8.13)



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