サンプル3




 家のどこかで水が滴る音が聞こえる。
(……ああ、またエレフが泣いているのかしら)
 アルテミシアは重い瞼をこじ開けながら、隣で横になっているはずの存在を確かめようと闇の中で腕を伸ばした。
 エリスがいなくなってから、エレフセウスは再び不安定になっていた。あの子は大丈夫、あの子がいなくても私がいるわと抱きしめても、彼の心が安らぐのは一瞬で、日を追うごとに苦しみが募っていくのが分かった。波がぶり返したように胸を掻き毟り、呻いて、答えを求めようとアルテミシアに問いかける。何かを忘れているような気がするのだ、と。
 ――あの二人と会ったせいかしら。
 アルテミシアは先日の出来事を振り返った。常に新しい風を吹き込んでくるような快活なオリオンの立ち姿、そして死と争いを引き連れたもう一人の《エレフセウス》ことアメティストスの嫌悪の表情。平穏なこの島で、あの二人は極彩色のように強烈だった。
 アルテミシアはぐっと奥歯を噛み締める。どうやっても後戻りはできないのに、二人がエリスを連れて島を去っていくあの日の船影を思い出すと胸が騒いだ。
 自分でさえそうなのだ。エレフはもっと影響が強いのだろう。夢にうなされ、眠ったまま泣く夜が増えていた。
 涙の落ちる音がする。肩を叩いて慰めてやらなくては――。
 しかし伸ばしたはずの腕はどこまでも虚空を掴むばかりだった。はっとして目を見開くと、自分が冷たい大理石の床の上に横たわっている事が分かった。夜の闇の中で、その床だけがぼんやりと明るい。視線を向けるごとに床はどんどん広くなり、篝火を灯す台座や、等間隔に並んだ柱などが見えてきた。
(神殿の託宣所……?)
 自分が捨ててきた場所である。アルテミシアはようやくそこで夢を見ているのだと分かった。
 闇に包まれた夜の景観だった。天井はない。夜空が見渡せるように作られた神殿の間取りを、自分はよく知っている。ここから降り注ぐ星々の光から無数の可能性を垣間見てきたのだ。
 けれども実際の神殿と違う点が一つあった。託宣所の中央に、玉座のような白い椅子が置かれているのである。そしてアルテミシアを見下ろすように、椅子には一人の女性が腰かけていた。
 髪の長い、巫女時代の自分である。
 盲目の瞼は閉じられており、白い瞼が小刻みに震えていた。椅子に腰かけていると言っても、ほとんど手摺りにすがっているという有様で、ひどく疲れ切っている事が分かる。長い距離を泳ぎ切った後のようにずぶ濡れで、肌に張り付いた衣服の裾からぽたぽたと水が滴っていた。落涙の音だと勘違いしたのはこれだったのだ。水は床に丸く溜まり、星々の明かりを映して淡い色を放っている。
 アルテミシアは直感した。別の世界のエレフが島に訪ねてきたように、別の世界のアルテミシアもまた、夢という手段を介して自分を訪ねてきたのだと。
「結局……赤ん坊まで手放したのね」
 予想通り、もう一人の自分は――星女神の巫女は、憂いを秘めた声でこちらに囁いた。アルテミシアがこの世界で何をしたのか全て知っている口ぶりだった。
「愛とは褥に仕える為の奴隷ではないわ……まして子を孕む道具ではない……ソフィ先生から頂いた、あの教えを捨ててまで授かった子供でも、あなたは遠ざけてしまうの?」
「……冗談じゃないわ」
 アルテミシアは唸るように顎を上げた。腹の底から熱い怒りが突き上げてくる。
「揃いも揃って、私を責めにきたのね。あなたの兄さんなら他の場所に行ったわ。さっさとそちらに行ったらどう?」
 自分相手になら、どこまでも刺々しくなれた。巫女が自分一人だけ正しいような顔をしている事も気に障る。アルテミシアは立ち上がり、挑むように椅子に向き合った。けれども相手はこちらの怒りに気付かぬ様子で、ぼんやりとうなだれている。
「どちらのエレフも苦しんでいるわ。オリオンまで傷つけてしまった……フィリスさんも、もうこの世にはいないのね」
 力ない声だった。相対するアルテミシアに生気を奪われているのか、あるいは言葉を口に出すだけで消耗が激しくなるのか、今にも気絶して崩れ落ちてしまいそうに見える。滴る水に青ざめて、巫女は唇を震わせながら語り始めた。
「エレフを縛り付けても苦しくなるだけよ。私はあの時――エレフと私が一人の人間ではなくて、双子として生まれたのは、お互いに別々の事をやる為だったのではないかと思ったの。分かれたからこそ、見えてくるものがあった。無理やり同一になるのは、苦しい……」
 不意に凄まじい嫉妬がこみあげ、アルテミシアは狼狽した。運命を出し抜いてエレフとの幸せを勝ち取ったのは自分だというのに、彼女を目の前にしていると、郷愁のような切ない想いが滲み出てくるのを止められないのだ。
 彼女には兄との絆がある。限りなく深く、透き通った絆が。アメティストスと名乗った別の世界の兄が、アルテミシアの所業に衝撃を受けながらも、結局は生かして去っていった姿が脳裏に蘇る。彼は以前と同じように妹を探して果てしない旅を重ねるのだろう。呼び合う声を信じて道を進む事のできた、その互いの広がりが、まだ彼らの中には残っている。
 今のアルテミシアにはあの頃のように無心に相手を信じる事はできない。この島は平和で、貝のように閉じている。エレフの目を塞いで隠し事ばかり増えていくのは幸福の代償なのだと納得しているが、いつ正気に戻ったエレフが自分を振り切りってこの島を去ってしまうのか、毎日のように戦々恐々としていた。何度も言葉を重ねて、大丈夫だと、何も問題はないと、相手にも自分にも言い聞かせる必要があった。
 けれども、そんな息苦しさを今更になって肯定できない。アルテミシアは自分の弱気ごと押し潰すように鋭く叫んだ。
「勝手な言いぐさね! あなたなんて、これが運命と抗いもせず逃げたくせに! その皺寄せがエレフにいったんだわ! 彼の手を血で汚させたのは誰のせい?」
 巫女の肩がびくりと跳ねた。
「……確かにそうね。エレフにはいつも辛い思いばかりをさせてしまう。いっそ私なんかと双子でなければ良かったのかしら。選択を迫られた時、私はエレフを待つ事ができなかった……とても会いたかったのに」
 眉が苦しげに寄せられる。巫女は朦朧としながらも、必死に自分の考えを辿っているようだった。
「でも思えば、あの時、私が戦った相手は運命なんかじゃなかった。どの神様でもなかった――あなたよ」
 そっと巫女は両腕を上げ、迎え入れるように開いた。
「私の心ひとつでこんなにも変わる世界があるのなら、尚更、私は私を譲り渡せないわ。運命に抗えなかった選択もまた、私の戦いだったのだもの」
 ぞっと鳥肌が立つ。気が付けばアルテミシアは自分から巫女の前に進み出ていた。嫌だと思うのに、まるで渦潮に巻き込まれたように体の自由が効かない。足が勝手に動いていく。
「やめて、何をする気なの?」
「大丈夫。別にあなたの命を取ったりしないわ。もうあなたには必要ないものを私が貰っていくの。私の世界のエレフが、赤ん坊ごと死の影を連れて行ったように」
 ひんやりとした手が両側から髪の中に差し込まれる。巫女はアルテミシアと額を合わせると、すっと息を吸い込んだ。その途端、触れあっている額の中央から、何か糸のようなものが引っ張り出されていく感覚があった。
額が離され、次に両手が引いていくと、アルテミシアはよろめきながら後ずさった。天井を見上げて夜空を眺めても、もはや何の予兆も感じ取ることができない。星女神の巫女としての力が自分から完全に抜け去ってしまったのだと分かった。
「……これから私達はどうなるの?」 
 虚勢を張る勢いはなくなっていた。頼りないアルテミシアの声に心を動かされたのか、巫女は口元に微かな笑みを浮かべた。
「心配しないで。運命も咎も、もうあなたの手の中にはなくなった。これまでと同じように自分で判断して生きていく事しかできないわ。誰だってそう。……わたしも早く行かなきゃ。でも、まだ時間が……」
 再び巫女はうなだれた。長い髪から滴った水滴が涙の代わりのように彼女の肌を伝っていく。声は次第に弱々しくなり、それと呼応するように神殿の闇が深まると、遂には真っ黒に塗りつぶされた。



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