切望をぐるりと




Marchen×Elisabeth









 優しすぎるものを手に入れてしまって、神に見放されないかと不安になる。
 婚礼の間から抱いていた思いが、今になって強くなってきた。夫婦の為に与えられた部屋は眺めが良く、琥珀をまぶしたような光の中で城下町が広がる様子は、正しい人間の世界へ帰ってきたのだと言う実感を強くさせる。きちんと時を告げる教会の鐘を聞くのは随分と久々で、メルヒェンはどこか落ち着かない。
 夜の鐘が鳴ると、いよいよ就寝の時間となる。昨日から続く婚礼の祝賀はようやく落ち着いてきたところだが、まだ城には招待客が滞在し、新婚夫婦をからかう事に熱心だった。おかげで席を立つのに苦労する。
「なんだ、もうお開きかい。付き合いが悪いな。もう一勝負しないと決着が着かないじゃないか」
「止めてやるなよ、兄弟。そりゃ騒がしい僕らといるより、新妻と一緒にいた方が楽しいに決まってる」
「まあね。睦まじくて結構だ」
「野薔薇は身籠っているので国に残してきてしまったが、やはりここへ連れて来たかったな。良き妻の見本になれただろうに」
 カードの席で王子達は酔っ払い、笑ってメルヒェンを送り出した。反応に困りながら寝室に向かう。
 ――不安になるのは、こう言う時だ。
 本当に部屋にエリーザベトがいるのだろうか。摂理に背いた身で神に誓いを立て、伴侶を娶った事実がまだ全身に浸透していない。片親で育ったせいか『メルツ』だった頃も結婚願望は然程なかったように記憶しているし、死者として生きるようになってからは尚更、愛と言うものを記号としてしか捉えていなかった。賑わう宴から抜け、こうして静かな廊下を歩いていると、思いがけず手にした光を取り上げられてしまわないかと不安になる。
 けれども、愛していると告げるエリーザベトの声は本物だった。昨夜の事を思い出し、メルヒェンは反射的に口元を覆う。
 ――初夜!
 いや、まあ、自分だってお世辞にも手際が良かったと言えないかもしれないが、最後はエリーザベトも痛がっていなかったし、うん、無事に済んで本当に良かった!柔らかくて心地良かったし、ようやく結びついた安心感があった。それにしても彼女が本当に性について何も教わってないとは驚いた。驚いて、ちょっとどうにかなるかと思った。いやまあ、多分そうなんだろうなとは思ったけれど、あれが子供を作る為の行為だと忘れたまま、痛みの方が強いであろう初夜に身を預けてくれたのだとなれば、本当に自分は愛されていたらしい。ああそう言えば、母上からもらった薬はどうするべきだろう。やはり最初の夜は素面でと、使わないまま棚に入れて置いたが――。
 何度目かになる反省会を脳内で繰り広げ、メルヒェンは悶々と廊下を進む。しかし寝室の扉を開けた途端、はたと思い至った。
 二日目の夜ってどうするべきなんだ?
 愕然とする。全然、考えていなかった。冷やかしから逃げる事に一杯一杯で、全く考えていなかった!
 初夜は婚礼とセットだから躊躇う事もなかったが、これが二日目の夜となると、果たして昨夜のように抱いていいものだろうか。まだエリーザベトだって慣れてはいないだろうし、体の負担も考え合わせれば、やはり時間を開けた方がいいに違いない。しかし寝台が一つきりな以上、どちらにしろ隣で寝る事になる。それで手を出さないと言うのも新婚夫婦として問題があるような気がするが、しかし、だからと言って、がっつき過ぎるのもどうかと――!
 経験が少なく、手本とする貴族の作法も知らない彼だからこその悩みだった。恥を忍んで王子達に尋ねてみるべきかもしれないが、既に扉を開け、赤々と燃える暖炉の火が見えてしまっている。
「……あっ、メル」
 書き物をしていたエリーザベトが、ぱっと顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
「あのね、雪白ちゃんからお祝いに、飛び切り上等な布をもらったの!上着に仕立てて下さいって。それでお針子に頼んで、貴方の袖の部分にもね、この刺繍を入れたいなと思ったんだけれど」
 彼女は興奮して喋り出した。そう言えば幼い頃から刺繍が趣味だったはずだ。昨夜のような緊張もなく、ほころんだ口元からは何の憂いも窺えない。夢中になると一直線になる性質なのだ。安心したような拍子抜けしたような心地でメルヒェンが彼女の横に歩み寄ると、葉陰から覗く花々の繊細な図案が目に入ってくる。
「……綺麗だね。でも、僕には少し可愛すぎないかな」
「そんな事ないわ。糸の色も銀だから、そんなに目立たないと思うし」
 そこでエリーザベトは少し不安そうな面持ちになり、おずおずと「嫌かしら?」と尋ねた。嫌じゃないよ、と答えれば安心したように眉を下げる。尻尾を振る子犬のように見えて、余程メルヒェンは彼女の髪を撫でてやろうかと思ったが、これからどうするか決めかねている以上、軽々しい事は控える事にした。
 そこでしばらく刺繍について語り合う。話すたびにエリーザベトの両手がひらひらと動き、口元を隠したり、図案を宙に描いたり、肩に落ちる髪をそっと払い除けたりするのを眺めるのは楽しかった。床に座り込んで他愛もない時間を過ごした子供時代を思い出す。
 その頃、彼女の身振りはもっと派手で大胆だった。図鑑を広げて見せると、まるで世界が今まさに神様の手から放たれたと言わんばかりに瞳を輝かせ、白鳥の絵を見せれば、どうして鳥なのにこんなに首が長いのと不思議そうに尋ねられたものだ。くすくすと笑うたびに結い髪が軽やかに揺れるのは、今も昔も変わらずにメルヒェンの目を楽しませてくれる。彼女が喜ぶ顔を見ると自分まで善良になった心地がした。
「ああ、これは母上が縫い取りしていたのを見た事があるな。確か教会の祭壇布を作る時に、聖書の話をモチーフにして――」
 ほのぼのとした気分になり、何気なく刺繍の図案帳を覗き込む。するとエリーザベトがぱっと体を引き、距離を取った。
「どうしたんだ?」
「……ううん、何でもないの。お義母様、祭壇布なんて作ったのね、素敵ね!」
 慌てたように頬に片手を当て、彼女は図案帳に視線を落とした。刷毛で塗ったようにさっと首筋が赤らんでいるのを見て、遅まきながら理由に気付く。
 ――ああ、今、顔を近付けすぎたのかな。
 動揺が透けるエリーザベトの反応が愛らしく、そして照れ臭かった。ともすれば親密な子供時代に戻りがちになる空気を、こうしてふわりと引き戻してしまう。神に誓いを立てて夫婦になったとは言え、ようやく恋人としての時期を歩み始めたばかりの自分達に、それは何とも甘い誘惑に感じられた。
「………」
「………」
 沈黙が落ちる。エリーザベトは気恥ずかしそうに伏せた目を瞬かせており、自然と唇を寄せたい気持ちが湧き上がってきた。もしくは髪を手に取って、くすぐったそうに肩をすくめる彼女を見てみたい。体はまだ昨夜の事を鮮やかに覚えていて、どうにかすると気遣いを忘れて夫としての特権を無理やり使ってしまいそうな気がした。
 しかし、それは頂けない。メルヒェンは熱情を出さないよう注意を払い、苦労して顔を離した。
「刺繍、楽しみだね。僕からも雪白姫にお礼を言わないといけないな」
「……ええ」
 何となく話は尻すぼみになり、もう寝ようかと言う事になる。暖炉の火を弱め、身支度を整えた。
 とは言え、ここからが思案のしどころだ。上着とシャツとブーツを脱ぎながら、二日目ってどうするべきなんだと先程の問題がメルヒェンの頭の中を駆け巡る。
 ――やはり大人しく眠るべきか?
 うん、それがいい。そうしよう。紳士的な振る舞いをすれば間違いがないはず。
 髪を解いて振り返ると、肌着姿を見られたくなかったのか、エリーザベトが先に寝台の中に潜り込んでいた。首元まですっぽりと布団に埋もれている。メルヒェンは腹を括って寝台に歩み寄り、決然と上掛けをめくって、敷き布の間に体を滑り込ませた。
 妻の前髪を掻き上げて、額にお休みのキスをする。エリーザベトも小さく息を吐き、躊躇いがちにキスを返した。距離が足りず、彼女の唇が行き着いた場所は額でも頬でもなく顎の先。擦り寄ってきた柔らかい体にメルヒェンは急速に口の中が乾いていくのを感じる。適度に肉付きの良い肢体はふんわりとして、抱き寄せると陽だまりのよう。
 人間の男とは大変だ。墓場にいた頃は生理的な欲望と切り離されていたが、呼吸をしたり食事をしたりする事と同じように、密かに飢えて乾いていくものがある。
 ――成る程、愛と性欲を混同する人間が多い訳だ。
 悶々としながらも苦笑を零した。これは随分と幸せな悩みだ。メルヒェンは心を落ち着ける為に枕の位置を直し、抱き寄せる腕を少し弱める。エリーザベトの髪は結び目で癖が付いており、指先で梳いてみると、波打った部分が僅かに引っかかった。気を紛らわす為に何度も髪に指を潜らせ、癖を直そうとしていると、腕の中で彼女の体が徐々に強張っていく。
「……メル。それで今日はその……ど、どうするの?」
 どもりながらエリーザベトが尋ねた。驚いて見下ろすと、林檎のように赤く熟れた頬が目に入る。
「どうって……」
 それが心を揺さぶらなかったと言えば嘘になるが、期待と怯えで一杯になっている彼女の表情に、思わず口元が綻んだ。エリーザベトの眉がたちまち下がる。
「やだ、笑うなんてひどい」
「笑った訳じゃないよ」
「嘘。笑ったわ」
「いや、君から言われるとは思わなくて」
 ようやくくつろいだ気分になり、メルヒェンは答えた。
「すまない。こう言う事は男の方から尋ねるべきだったんだが、昨日の今日だから無理をさせたくなくて、どうしようかと思っていたんだ。体の調子はどう?」
「それは――」
「エリーザベト。嘘は無しだよ」
「……うん。本当はちょっと痛い」
 釘を刺せば、渋々と彼女が頷く。
「でもね、痛いと言うか、お腹の中が少し変な感じがするだけなの。後はほとんど変わらないわ。だから、もしメルが、その――」
「そう、分かった。いいんだ。今日はゆっくりお休み」
 ああ、やはり彼女の前で、自分は善良になれるのだ。妻としての役目を果たそうと精一杯強がる姿は欲望よりも保護欲をそそる。納得しかねている彼女に優しく口付けてやり、少し卑怯な方法で反論を防いだ。
 何もしないと聞いて、エリーザベトも気が抜けたようだ。昨日とは違うやり方で夫婦の夜を埋めてもいいと理解したのだろう。ゆっくりと体の力を抜いてメルヒェンの腕に縋ると、やがて笑い出す。
「メル、大好きよ。本当に大好き」
「うん……ありがとう」
「昨日も幸せだったわ。貴方との赤ちゃんも早く欲しいの。信じてね」
「ああ」
 ぎゅうっと抱き付き、気負いなく肩を震わせている彼女は幸福そうだった。まっすぐな言葉は心臓に悪く、下手をすれば再び穏やかではない反応を引き起こしそうになるが、そこは男の我慢の見せ所。強く目を瞑って気付かない振りをする。
 しかし眠る段になったところで、エリーザベトが「あっ」と声を上げた。
「やだ。私、靴下を脱ぐのを忘れていたみたい」
 今夜も何かあるのかと思い、寝支度にまで気が回らなかったようだ。彼女は恥ずかしそうに体を起こし、もそもそと膝を立てる。白いリネンの肌着を慎ましくめくり、絹の靴下を爪先から引っ張った。
 けれどもずり下がってこないよう端を押さえるレースのリングが太股に巻いてあった為、すぐには脱げない。彼女は改めて服の裾を丁寧に手繰り寄せ、太股から靴下留めを引き抜いた。同時に絹の靴下も脱げていく。するすると手触りの良さそうな衣擦れの音と共に、透き通ったふくらはぎが一瞬だけ露になった。
 ――何だろう、これ。
 メルヒェンは目が離せなくなる。もしやこれは……と不穏なときめきが湧き上がった。
 彼の気も知らず、エリーザベトは日常的な仕草で残りの靴下に手を掛けている。それはやはりするすると抜けていき、滑らかな真珠貝の色が、ふと二手に分かれた。
 絹の靴下と、彼女の脚と。
「……傷は治ったのかい。足の裏の」
「ん?」
「磔になった時、君は裸足だったから」
 気が付いたら声を掛けていた。エリーザベトはきょとんとした後、大丈夫、もう治ったわと微笑む。深い本能に呼ばれている気がした。彼女は服の裾を直し、刺繍のされた靴下をきちんと折り畳んで、邪魔にならないよう寝台の脇に置いている。眩暈がするようなこの感覚を引き伸ばしたい気持ちもどこかに潜んでいたが、メルヒェンは体を起こし、彼女の前に屈み込んでいた。
「見てもいいかな」
「え、え?」
 エリーザベトは戸惑っている。それはそうだ。眠るつもりだったのに脚を掴まれたのだから。
 欲求は次々に連鎖していく。ひんやりとした彼女のふくらはぎに手を掛ければ、その感触を味わいたくなった。足の甲に唇を落とせば、震えるそれを押さえ付けたくなる。今夜は何もしないと言った手前やはり罪悪感は湧いて出たが、どうした訳か体が止まらないのだ。何だこれは。
 王子の性癖ばかり笑えない。男はどこかしら変態なんだと言っていた彼らの持論を思い出す。そもそも男が変態じゃなかったら子供は生まれないんだよ、と。メルヒェンはそれを唐突に理解した。
「メル、どうしたの……?」
 視界の端でエリーザベトの手が服の裾を握り込む。困惑と期待が入り混じる声に、頭のどこかが焼き切れる心地がした。普段は長いスカートで覆っているせいか、陽の光を知らないその部分へ、昨日とはまるで違う愛撫を受けて恥ずかしがっている。
 だが、嫌がっている訳ではないと全身で感じられた。空気が甘い。許されている。息を吸い込む彼女の胸元が大きく上下していく。
 取り繕う事もできたかもしれない。けれども鼻から抜けるエリーザベトの溜息が漏れた途端、引き返せない情熱の渦に放り込まれていた。柔らかな太股の線を唇で辿りながら、欲望で掠れた声で囁く。
「ごめん、エリーザベト。抱かせて」
「ん……っ」
 自分でもずるいなと思いながら懇願した。彼女が断る訳はないのだ。潤んだ目と、下がった眉と、けれども決して怯まない掌。喘ぎと共に頷いて、こちらの髪に差し入れてくる指先は優しい。
 二日目の夜。痛がるような事はしない。無理はさせない。それは相手の事を思うなら当然の事だ。触れるだけでいい。途中で終わりにしても構わない。愛する夜は明日も明後日も存在している。
 けれど、お上品な遠慮も分別も糞食らえだ。悩むのは後にしよう。
 自分は今、彼女が欲しい。









END.

(2011.02.23)




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