02


 陽が傾き始めた頃には、ようやく人が住めるくらいには綺麗になった。
 ディックもアレクシアも、あちこちを転々とする為、持ち歩く物はいつも少ない。
 あらかたの埃を掃き出したディックの耳に、

「アレクシアさん。何か困ったことがあったら、なんでも言って頂戴ね」

 という、ヘレンの声が聞こえてきた。アレクシアの控えめな返事も聞こえてくる。
 彼女達は外にいる筈だったが、ディックは小さな頃から、離れた場所にいる人の会話が、よく聞こえてきた。
 今ではもう慣れているので、気にすることもなく、室内の片付けを黙々と進めていく。

「はい。そうおっしゃって頂けると、私もとても心強いです」
「此処に来るまでにも、魔物がたくさんいて、大変だったでしょ」
「ええ、まあ……」

 ヘレンの言葉に、アレクシアは言葉を濁していた。

 魔物がアレクシアを襲おうとする前に、全てディックが退けていた。退け切れないことの方が多かったが、
 それでも何故か、魔物はそれ以上の追撃をしてくることは無かった。この不可思議な力を使うことを、
 アレクシアはあまり快く思っていないようだったが、それでも、この力のお陰で、大きな危機に陥ったことがないのは、事実だ。
 それ故か、彼女は不安そうな顔をしながらも、一度も「使うな」とは言ってこなかった。

しかし、その力を使って魔物を追い払ったあと、アレクシアは必ず、翡翠色の目を合わせて、こう言ってきた。

「私の前以外では、決して使ってはいけないのよ」

 その言葉が、彼女と自分を守る為の言葉であったことを、この頃のディックはまだ、知る由も無かった。

 ディックは、古い大きなベッドに藁を敷き詰め、その上に布を被せて、簡易的なベッドを作る。
 何度も行ってきたことなので、今ではディック一人でも、準備することが出来た。家の中を整え終え、
 ディックが扉を開けて外に出ると、二人はまだ喋っていた。

「アレクシアさん。あんた、随分と綺麗な言葉を使うのねぇ」
「そうでしょうか」
「うん。なんとなく、あたし達とは違う発音だもの。
まるで、この辺りを治めてらっしゃる、領主様みたいよ」

 ヘレンの言葉に、アレクシアは曖昧に笑っている。
 その笑みのまま、アレクシアはこちらに気付いたようだ。赤茶色の毛が、冷たい風に揺れている。
 それは、神無月オクトーブルの中旬の頃であった。


 翌日。
 バーズリー夫妻に連れられて、ディックはアレクシアと共に教会を訪れていた。村人達への挨拶周りに向かう手前、
 まず紹介されたのが、ノーハーストにある教会だった。そこは、民家と殆ど変わらない、小さな教会だった。
 聖堂に入れば、一人の男が人の良い笑みを浮かべながら、にこやかに出迎えた。

「ようこそ。バーズリー村長から、お話は伺っております」

 その男は、ウィル・アシュレイと名乗った。この教会の司祭を務めているという。
 立ち襟で、踝まで覆う黒の衣装に身を包んでおり、組んだ手からは、大小様々な珠で繋がれた、剣の装具がぶら下がっていた。
 アレクシアに促されて、簡潔に挨拶を交わしたものの、どうにもディックは、ウィル司祭に対して、警戒心を解くことが出来なかった。
 それに、彼の傍にいると――というよりも、教会の独特の空気からか――、具合が悪くなっていく気がした。
 少し、距離を取る。

 その後、ウィル司祭とアレクシアが、何か話している間。
 ディックは彼女から離れ、教会の中を見渡した。木で作られた長椅子が並び、祭壇の奥の壁には、一つの像が飾られていた。

 細身の長い剣の、刃の部分を両手で掴み、祈るように固く目を閉じた、髪の長い人物の像だ。
 体付きは、まるで女性のように華奢だったが、その顔立ちは精悍である。性別も年齢も分からないこの人物は、
 神のように崇められ、「光を運ぶ者ルーク」と呼ばれており、強く崇拝されていた。
 そして、この者を信仰の対象としたルーク教が、この国では広く浸透している。像を飾った壁には、有名な一節が刻まれている。
 小さく咳をしながら、ディックはその一節を黙読した。

『ルークはおっしゃいました。研ぎ澄まされた剣のように、強く清い心でありなさい。
あなたの中に宿る、光を捨ててはなりません。絶えず襲い来る苦しみは、魂を育てる為にあるのです。
魔性の者に、気を許してはなりません。その甘言に耳を傾ければ、彼らはすぐさま、あなたの身も心も食らうでしょう』

 誰にでも理解できるように、分かり易く記されたその一節を読み終えた時。

「もう千年以上も昔のことです」

 背後からそう声がした。振り向けば、にこやかに微笑むウィル司祭がいる。

「飢饉や戦で、人々が次々と亡くなってしまった時代。
今日、魔物と呼ばれるようになった、魔性の物達は、驚異的な速さで増えて行ったそうです。
ルークは、魔物で埋め尽くされた世界の秩序を正す為に、天上に住まう神々が遣わしたお方だと、そう伝わっております」

ウィル司祭は、ルーク像を見上げながら続けていた。

 「狩猟を司る聖霊“ナサニエル”の加護を受けたライリー、癒しを司る聖霊“メリリース”の加護を受けたオリヴィア、
武芸を司る聖霊“イマニュエル”の加護を受けたセスなど、ルークから洗礼を受け、聖霊の加護を授かった従者は十二名いますが、
聖書の中で、特に名前が出てくるのは、この三人ですね。彼らは、レーガンと呼ばれた魔性の王を倒す聖戦の中で、
特に大きくルークに貢献し、抜きん出た活躍をしたと、そう伝わっています」
「レーガン?」

 聞き返したディックを見て、ウィルはまた小さな微笑を浮かべた。

「古い言葉で、『幼い王』という意味です。その呼び名通り、稚児と思わしき容姿でしたが、
その力は他の魔物達と、一線を画していたと、記述されています。レーガンは全ての魔物の祖……原初の魔物とも呼ばれており、
更に、状況に応じて、その姿を様々な者に変化させる能力を持っており、『千の顔を持つ』とも言われていたようです。
あまり、ルーク教の聖書は知らないですか?」

 ウィル司祭に尋ねられ、ディックは小さく頷いた。

「あまり。母さんは知っているみたいなんですけど、僕はあまり教わってなくて……」
「そうですか。では、良い機会です。僭越ながら、私が少しお話ししましょう」

 微笑を浮かべながら、ウィルは小さく唇を開いた。



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