10


 森の中に響いた銃声に、ディックの真っ赤な左目がぐるぐると動き、周囲を探ろうとする。
 酷く不鮮明なその視界の中で、赤い目をした黒い生物が多数蠢いていたが、その一片に、
 一際色彩の鮮やかな姿を捉えた。再び銃声が響き、ディックのすぐ脇を霞めた銃弾が魔物を撃ち貫いていく。

 そして、見つけた。茂みの向こう側から、こちらに銃口を向けている者がいる。それがリアトリスであると認識したディックは、
 それまでに抱いていた殺意や敵意が、見る見るうちに、萎んでいくのに気付いた。あれ程までに、
 心を支配していた殺意が急速に消え失せていく。赤い瞳が少しずつ翡翠色へと戻っていくが、それは同時に、彼を危機へと陥れた。

 戦意を弱めてしまったディックは、軍隊蟻にとって格好の獲物であった。
 自分が置かれていた状況に、気付いた時には既に遅く。軍隊蟻は一斉に彼に飛び掛かり、覆い尽くしてしまった。

「ディック!」

 あっという間に見えなくなってしまったディックを見て、リアトリスは軍隊蟻の危険性も魔物達の凶暴性も忘れ、
 茂みの中から飛び出した。迫り来る魔物達を拳銃で撃ち貫きながら、一際大きな群れへと突進する。
 弾切れになった拳銃をその場に捨て、リアトリスは両腕のアームカバーから、鎌を弾き出す。
それを使って、軍隊蟻を斬り剥がしながら、内側にいる筈の彼の姿を探した。手足を噛んでくる軍隊蟻もいたが、構っていられない。

「おい! ディック! 大丈夫か!」

 叫びながら、軍隊蟻を斬り剥がしていたリアトリスは、右腕に強烈な痛みを感じた。
 一瞬、その痛みに怯んでしまった隙に、魔物を骨まで食らい尽くした軍隊蟻が飛び掛かってくる。
 咄嗟に左手で、左足に装着した拳銃を引き抜き、リアトリスは一番近くにいた軍隊蟻を、撃ち抜いた。
 その間にも、ずっと続く右腕の痛みに、リアトリスは唇を噛み締める。

――こんな時に……!

 その時、突然赤い光の刃が飛び出し、軍隊蟻を全て蹴散らした。
 次々と切り裂かれ、黒い塵へと変貌していく軍隊蟻に、リアトリスは目を丸くする。
 振り向けば、赤い魔剣を握り締めたディックが、険しい顔付きで立っている。

「……」

 酷く顔色が悪いが、名前を呼ぶことすら憚る程に、その真っ赤な左目は、強い殺意と敵意で染まっている。
 齧られた跡からは、出血もしていた。肉を多少食われてしまったのか、衣類には夥しい血痕が付着している。
 じわじわと染み出す血は、止まる気配を見せず、赤く濡れる範囲をゆっくりと広げていく。
 まるで雨どいを伝う雨粒のように、赤い雫は腕からも流れ落ちていた。

「おい、……」

 皆まで言う前に、ディックの魔剣がリアトリスの真横に突き出された。
 視線だけを動かせば、軍隊蟻の頭がそこにある。リアトリスは顔を歪め、舌打ちをした。
 何にせよ、この群れをなんとかしない限り、ディックと話をすることも、何も出来ないのだ。リアトリスは拳銃を構えた。
 森の中に、鋭い銃声が響き渡る。

                 ◆

 軍隊蟻の群れと抗争を始めて、数時間が経過した。リアトリスは周囲に視線を走らせる。
 飛び散った鮮血で、木々は赤く染まり、黒い塵は少しずつ風に霧散していっている。
 砕け散り、破損した魔力結晶があちこちに散らばっていた。
 僅かに残っていた軍隊蟻の瞳は正常に戻り、こちらに――というよりも、鬼気迫るディックに――恐れを抱いたのか、後退しつつある。
 反面防毒面をしていても、尚も鼻を突いてくる生臭い血の臭いに、リアトリスは大きく嘔吐きそうになる。
 険しい目付きで周囲を睨み付けていたリアトリスは、
 雫が落ちる音を聞いた。その音の出所を探そうと周囲を見渡し、見渡すまでもなく見つけた。
 ディックの足元には、ねっとりとした赤い血溜まりが出来ている。軍隊蟻による負傷を、癒す間もなく、長時間に及ぶ激闘を繰り広げているのだ。
 それに、自分が見つける前からずっと、戦っていたのだろうことは容易に想像出来た。

――これ以上は、本当にまずい。

 そう思わせる程の傷だった。もともと、軍隊蟻の大顎は、大木や骨をも削り取る程の威力を持つ。
 彼らから戦意が消えているのなら、深追いはせず、治療をする為に、戦線離脱をするのが最良だ。
 けれども、そうさせないような気迫をディックは纏っている。

――違う。

 リアトリスは、気迫という言葉に対し、すぐに否定の感情を持ち上げた。
 彼から感じるのは、強い焦り。言葉通り、死に物狂いで戦っている。何かの思念に取り憑かれたように、
 ディックは己の身を顧みず、逃げようとする軍隊蟻に、更なる追撃に打って出ようとしていた。

 事実、ディックの頭の中は、

――戦わなければ。

 この言葉だけで、埋め尽くされていた。
 シェリーに認められる為には、シェリーの傍に在り続ける為には、戦い抜き、力量を示していくしかない。
 強くなければ、シェリーの傍にいる資格はない。「敵」を殲滅出来なければならない。
 安息など求めてはいけない。何故なら、耳元でずっと「戦え」と叫ぶ声が聞こえてくる。
 その声はシェリーのようにも、アレクシアやあの少女や、少年の声にも、そして自分の声にも聞こえた。
 戦え。戦え。戦え。そんな声が幾重にも重なり、大音量となって喚き散らす。五月蠅くて、溜まらない。
 鳴り止まない声を止めるには、魔剣を振るうしかない。戦わなければ、まだ、戦わなければ……そうでもしなければ……

「おい!」

 その声の全てを掻き消すような大声が聞こえた。その声に、ディックははっと我に返る。
 強い力で腕を掴まれていた。見下ろせば、リアトリスがこちらを強く睨め上げている。
 血に塗れることも厭わず、絶対に離さないとでもいうように、彼は右手で腕を握り締めていた。

「深追いはやめろ。あいつらの、おいら達への敵意は消えたんだ。奴らがまた戻ってくる前に、此処を離れるぞ」
「でも、戦わなくちゃ……そうじゃないと、」

 ディックは言い淀んだ。

「そうじゃないと何だってんだ。あんたがおっちゃんに頼まれたのは、この森の魔物の殲滅じゃねえだろ。
だいたい、そんな身体で、これ以上どう戦うつもりなんだ! 血だらけじゃねえか!」

 そう怒鳴られ、ディックは纏わりつく血が、ようやく返り血ではないことに気付いた。
 痛みが分からなかった。酷い傷を負っていたことに気付いた途端、急激な眩暈を感じて、ディックは額に手を当てた。
 途端、足元が揺れ、よろけて、転倒しそうになった所を、リアトリスが手を伸ばして支えてきた。

「おい、」
「リアトリスは……大丈夫なのか」

 何かを言いかけた、リアトリスの言葉を遮るようにして尋ねれば、彼は「ああ」と頷いた。

「おいらはな。腕も足も、ちゃんと鎧付けていたし……あんた程、重症じゃねえよ」

 ちょっと傷は付いたけどさ。
 そう付け加えるリアトリスから、ディックはそっと身を離す。

「とにかく、幾らあんたが……魔物の血を引いていたとしても、その怪我じゃ長時間歩くのは無茶だ。
 とりあえず、早いとこ森を出てオールコックに戻ろう。じきに、夜になる」

 歩き出すリアトリスについて歩き出したディックは、耳障りな鳥の鳴き声を聞いた。





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