04


 その悲鳴の渦にディックが視線を走らせれば、大きな魔物が数体、地響きを立てながら、こちらに向かってくるところであった。
 この騒ぎを聞きつけてやってきたのだと、ディックは考える。男達は、まるで蜘蛛の子を散らすように走り回っていた。
 魔物は大きな手を地面に叩きつけながら、逃げ惑う獲物を捕らえようと動く。

 その魔物は、だいたい五メートル程の大きな鬼だった。赤みがかった肌に負けず、瞳も真っ赤に染まっている。
 数体いた大鬼のうち、一体がこちらに突進してきた。ディックはするりと、脇に逸れてその突進を避ける。
 大鬼が直進した先には、先程蹴り飛ばした男がいた。恐怖に慄く彼と、目が合った次の瞬間。
 その男は呆気ない程に、魔物の手に叩き潰されてしまった。何処かの肉片が、足元に飛んできて、靴に赤黒い血が付着した。
 大鬼の掌の下から血が流れ出し、同時にじわじわと漂ってくる生臭い血の臭いに、更に周りの男達が悲鳴を上げる。
 持っていた松明が地面に落ちて、あっという間に周囲に燃え広がっていく。統率を取れる者がいなくなった群れは、ただの烏合の衆に過ぎない。

 声を上げながら男達は、我先にと走り出していた。中には、仲間だった筈の人間を突き倒してでも、
 この場から逃れようとする者もいた。そのうち、逃げ切れずに叩き潰され、圧し潰されていった。
 下品な笑い声がした。大鬼が笑っている。そのうち、大鬼の一体が何か言い放ちながらこちらに向かってきた。
 大きな斧を振り上げている。大きく叩き付けるように、振り下ろされた斧の斬撃を飛び越え、
 ディックは引き抜いた魔剣で、清々しいまでに、一撃で真っ二つに斬り裂いた。
 濃い色の魔力結晶を斬り砕いた魔剣は、その破片を浴びて赤く煌いた。

 ディックが周りの大鬼を睨み上げる。その瞳孔は鋭く、細くなり、目は悍ましいまでに赤く染まっていた。

                   ◆


 明け方近く。ディックはひっそりと静まり返った、チェルテラ川の傍にいた。
 ヴェステルブルグ北部と、南部を大きく両断するように広がる、グラスター山脈から、流れてくる大きな川だ。
 その川は、ソープステッドやブラッドレイなどの町村の傍を流れている。この川で、魔剣と、
 返り血を浴びた顔や腕を、洗っていたのだ。衣類に染み付いた血は、なかなか落ちない。
 唐突に、目の前で潰された男の顔を思い出した。

「助けてくれ」

 そう訴えるような、怯えた目をしていた。

 どれだけ威勢の良い人間であっても、人間である以上は魔物に勝てない。
 魔物ハンターのように、ただ魔物を倒す為だけに、生きている人間ならまだしも、
 その日、その時を生き抜く為に、戦う人間では、魔物の相手は務まらない。

 助けようと思えば、助けられたのだ。あの巨体よりも、速く動くことは出来た。
 そうして男と大鬼の間に飛び込んで、大鬼の腕を斬り落とせば助かったのだ。それを分かっていて、

――それでも助けようともしなかったのは……

 不意に、

「おまえは魔物だ」

 初めてシェリーと出会った時に、彼女に言われた言葉が浮かんだ。
 凍り付いた町の中で、彼女と出会った日のことを、ディックは今でも覚えている。
 その時から、ディックには彼女しかいなくなった。しかし、シェリーが自分を助けたつもりなどないことを、ディックは知っている。

 ディックは自分の手を見下ろした。あの時以来、魔法を一度も放っていない。
 魔法を使うことに、抵抗があるわけではない。しかし、どうしても使おうと思えば、あの時覚えた感覚と、吐き気が込み上げてくる。
 そして、いつでもアレクシアの気配を感じた。

 何も言ってこないが、彼女がこちらを責め立てるような圧力を放っているのは分かった。

『魔法を使って、犯してしまった罪を、あなたは忘れてしまったの?』

 そう言っているような気がしてたまらない。
 彼女はいつも、こちらを恨めしそうな顔で、見つめている。彼女は決して、自分を許さない。
 いつでもそこにいて、こちらを見つめている。彼女はいつも、自分を睨みつけている。

 安堵した時、一人きりの時、逃げようとする時。安寧の道を見つけた時。そして今も。

 彼女は姿や声を出して、こちらを責め立てている。

 明け方で、空が明るい時間帯になっても、アレクシアはそこにいた。
 ディックは立ち上がり、彼女を見つめる。何故だが、今日はアレクシアへの恐怖はない。

『どうして、殺してしまったの』

 アレクシアの声が聞こえた。ディックは口を噤んだまま、何も答えなかった。
 何も答えないまま、オールコックへと歩みを進め、やがて朝霧の中へと、消えていった。






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