07


 ティナに支えられながら、リアトリスが立っている。
 足が震え、顔色も悪い。立っているのがやっとだと、そういう風に見受けられた。
 久しぶりに見た彼は、疲労困憊といった様子で、薬品と、微かに毒の匂いがした。

「一体、何が……」

 周囲に倒れ伏した魔物ハンターや、焼け焦げた人間の遺体を見ながら、リアトリスは苦しげに声を振り絞った。

「シェリーの炎だ……」

 うっかりすれば、聞き漏らしてしまいそうな大きさで、ディックが答えた。他人事のような、
 何処か遠い世界の出来事のような口ぶりに、リアトリスは呻きながら、胸を掴むように抑えながら、

「なんで、止めなかった!?」

 思わず、そう声を荒げてしまう。ディックが、無感情な瞳でこちらを見つめていた。
 その底の見えない暗い瞳は、まるで奈落を彷彿とさせた。
 リアトリスは、目の前に広がる凄惨な光景と、吐き気を催す血の臭いに、ディックを睨み付ける。

「あんたがもっと早く止めれば、犠牲者は出なかった筈だ。
あんたなら……あんただけが、あの魔将を止められるだろ!」

 周囲には人が焼け焦げた臭いが充満していた。焼き殺された魔物ハンターの遺体に、リアトリスは目を向けた。
 野晒しで転がるその様は、いつかの光景を彷彿とさせる。痛みに喘ぐ声が聞こえる中、
リアトリスは痛ましい様子で目を伏せた。辛うじて、生き延びた者が多少なりともいるようだが、それでも大きな被害だ。
 ディックがシェリーを酷く信頼していることは、知っていた。彼が、単に人助けの為に、
 日々、魔物を退治しているのではないことも、薄々分かっていた。彼が、何か秘めていることも、感付いていた。
 それでも、ディックが人を傷付けることを、看過することはないと、思っていた。

 それが、自分勝手に描いた理想像であり、現実とは異なることを、リアトリスは理解している。
 しかし、それでも裏切られたという、身勝手な感情がふつふつと湧き上がって止まらない。
 感情に蓋をすることも出来ず、リアトリスは捲し立てるように、ディックを追い詰める。
 
「それともあんたは、あの魔将の機嫌を取る為なら、人間を見殺しにするような奴だったのか!?
あんたも、人間を平気で殺すのか!?」
「平気なわけないだろう……」

 愕然とした顔で、ディックがこちらを見た。翡翠色の左目に、強い怯えの色が走っている。
 まさか、怒鳴られたからではないだろう。
 一点の光も見えない、翡翠色の瞳がこちらをじっと見つめている。いや。と、リアトリスは気付いた。
 彼は自分を見ているのではない。そのずっと後ろを見つめていた。誰かが立っているのか。
 一度振り向いたが、半壊した町並みが広がっているだけで、気になるような人影はない。
 まるで、意志の疎通が出来ないような、ずっと遠くに行ってしまったような、そんな感覚に陥ってしまう。
 実際、今のディックには自分が見えていないのかもしれない。

「おい、ディック……」

 歩み寄ろうとしたリアトリスは、急激な苦痛に襲われて、その場で崩れるように倒れる。
 両手を付いて、顔を打ち付けることは防いだ。ティナが眉を下げて、不安そうな顔をしている。
 ゆっくりとかぶりを振り、ディックは両手で顔を覆って俯いた。硬直したように動かない。

 様子がおかしくなったディックを見て、リアトリスは困惑した表情を浮かべた。

「ディック……どうしたんだ……?」

 暗澹あんたんとした雰囲気を纏い、聞き取れない声で何事かを繰り返すディックに、
 リアトリスが心配そうに声を掛けた時。両手で顔を覆うディックの影から、黒い炎が静かに立ち上がっていることに、
 リアトリスは気付いた。その黒い炎の中から、今度は青白い炎が吹き上がる。その青白い炎が、
 腕の形を取り、ゆっくりとディックに伸びた。それと同時に、徐々に女性の姿を象り始めていく。
 やがて、その青白い炎の中からシェリーが現れた。

 リアトリスが顔を顰めた。最も会いたくない魔物が、現れた。
 呻いていた魔物ハンター達からも、畏怖の感情が沸き立ったのが分かる。

「可哀想に、追い詰められて……」

 妙に甘ったるい声音だった。シェリーはディックの背後から手を伸ばして、彼を強く抱き締めた。
 その腕の動きが、まるで蛇のように見えて、リアトリスは怖気を感じる。

「何にも耳を貸す必要はない。何も見なくていい。
あたしだけを見て、あたしの言葉だけ聞いていれば、大丈夫だ」

 シェリーはまるで、リアトリスやティナなど見えていないかのように振舞っている。
 そのしなやかな手が、ディックの左目をゆっくりと覆っていく。

「それでも、おまえが怖いなら……あたしが全部消してあげる……」

 まるで、暗示を掛けるように、シェリーはゆっくりと言葉を紡いだ。

「おまえを惑わす者も、全部消してあげる」

 シェリーがこちらを見た。長い睫毛の下から覗く、深海のような青い瞳には、明らかな敵意が透けて見える。
 その目付きを見て、リアトリスは凄まじい悪寒を感じた。
 逃げなければまずい。
 そう思わせる程の、圧力が全身に伸し掛ってくる。

 この弱った身体では、魔将の魔力は非常に危険だった。ティナに手伝ってもらいながら、
 一刻も早くこの場を立ち去る必要がある。それでも、リアトリスは自分の身体よりも、
 彼女に対して抱いた感情を優先させた。

「惑わしてんのは、テメェじゃねえか」

 シェリーは目を丸くして、それから小さく吹き出した。その微笑は、まるで大輪のように、華やかで美しい。
 けれども、リアトリスは美しいその笑みに、吐き気がした。

「おまえは、なにか勘違いしているようだ」

 リアトリスは、今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に開いた。
 ぼやけつつある視界の中でも、シェリーがニヒルな笑みを浮かべているのが分かった。
 シェリーはふっと表情を和らげた。

「あたしが惑わせているわけじゃない。どうするかを選択し、選んでいるのはこいつ自身だ」

 傍で話が聞こえている筈のディックは、何も言わない。

「あたしのものになることを、ディックは選んだ。だから、こいつはあたしのものだ。
この先、誰にも譲る気はないし、返す気も逃がす気もない。それが例え、幻影の女相手でもだ」

 具合が悪いのかと思ったティナが、不安そうな顔をしている。「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」と繰り返し聞いてくるのを、
 リアトリスは手を上げて制した。吸う息が酷く重たい。体中の震えが止まらない。
 ちろちろと、シェリー達の周囲に青白い炎が揺らめき始める。視界がチカチカと点滅する。
 意識が朦朧としてきて、シェリーの言葉もティナの声も、把握出来ない。

 それでも、シェリーが消える刹那。はっきりと、この言葉だけは聞こえてきた。

「こいつだけは、絶対に手放しはしない」

 それは、まるで呪いの言葉だった。



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