03
「……おかあさん、」
その嗚咽混じりの声に顔を向ければ、道の上で倒れ伏した女と、その傍で呼び続ける少年がいた。
女は、此処からは見え難いものの、酷い傷を負っているらしいことは分かった。
雨で臭いが分かりにくいが、腐敗臭も微かにした。魔物に襲われてから、時間がだいぶ経過している。
「おかあさん、おかあさん」
少年が嗚咽混じりに呼びかけながら、必死で母親の身体を揺さぶっている。そのたびに、
彼女の身体が崩れていた。しかし、少年がそのことに気付くことはない。ディックはまた、
不可解なざわめきを感じた。この光景を知っている。見たことがある。そんな既視感があった。
唐突に、あの村で起こした惨劇を思い出す。噎せ返りそうな、酷い血の臭いの中で……。
心がざわつく。
「やだよう、おかあさん」
短い呼吸が吐き出された。ディックのものだ。
少年の背後に、牡牛のような体躯の魔眼狼が現れる。
丸々と肥太った狼の口には、人間の頭が咥えられていた。狼が投げ捨てた人間の頭部は、
血の尾を引いて地面に打ち付けられる。その音を聞いて、少年がびくりと肩を震わせた。
少年の怯えたような泣き声と、氷柱に貫かれ、
痛みに泣き叫ぶ子供の声が、交互に頭に響いてくる。
雪の降る夜の出来事が、切り取られた絵のように、次々と脳裏を掠めた。
そして――
「ディック……」
アレクシアの声が聞こえた。その瞬間、
「うわあ!」
悲鳴を上げて、少年は濡れた石畳の上を転がった。その拍子に、頬や腕を擦り剥いた。
呻きながら身を起こすと、何処からか現れた青年が眼前に立っている。
目を見張る程の、美しい赤い剣を構え、狼の牙を防いでいた。雨に濡れた赤い髪が綺麗だ。
「え、……え?」
何が起こったのか理解出来ず、その場で狼狽える少年に、赤い目を向けてディックは言った。
「此処から離れろ」
「で、でも……おかあさんが、」
口篭もりながら言う少年に、ディックは容赦なく告げる。
「手遅れだ」
散々町の人間を食い、魔力結晶を奪い、力を肥大化させた魔眼狼の力に臆することもなく、
実に呆気なく、ディックは魔眼狼を一刀両断した。地面に飛び散る鮮血と、
霧散していく魔物の姿に、少年が大きく悲鳴を上げた。
「うわああ!」
それに呼応するように、突然、二つの悲鳴が響く。
思わず娯楽街の方角を見れば、逃げ遅れたと思わしき中年の男が一人いる。その背後には、
翼を持った猿のような、魔物の群れがいた。戦闘の音や血の匂いに感付いた魔物達が、集まってきていたらしい。
「そ、そこの! た、助け……」
皆まで言わぬうちに、男は瞬く間に魔物に飲み込まれてしまった。
その様子を見てしまった少年が、更に悲鳴を上げる。やがて、糸が切れたようにその場にぐったりと倒れてしまった。
彼らの赤い目と目が合った時。ディックの胸の奥深くで、何かが顔をもたげた。
それは、あの村の惨劇の時に、彼が初めて感じた感覚であった。
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