02
その唸り声は、こちらに対する強い敵意を感じさせた。ティナがそわそわとしながら、こちらを見上げてくる。
その視線の意図に気付きながら、ディックは気付かない振りをした。
助けた所で、既に子供は死んでいるのだから、意味など無い。
巨大な狼はこちらをしばらく睨みつけていたが、ディックに敵意も戦意も無いと理解したのか、
不意に視線を逸らすと、市街地の方へと去って行った。ディックはそれを見届けて、
今度こそ歩き出す。その後ろを、ティナがちょこちょこと付いて歩いた。
「あのね。ティナ、リア、いわれた、ですの。ひなん、てつだって、あげろ、って」
「そうしたいなら、すればいいよ」
「ディックは?」
「俺はしない」
短く答えれば、ティナがまた尋ねてくる。
「どうして?」
ティナはしつこく尋ねてきた。
「ねえ、どうして?」
「逆に、なんで俺が助けなきゃいけないの」
少し苛々した様子で足を止め、ティナにそう問い返せば、彼女はコトンと首を傾げた。
その拍子に、フードに付いていた雫が、地上に落ちる。ティナはそこで、場違いな程無邪気な笑顔を浮かべた。
「だって、ディック、いつも、まもの、たいじ、してる、ですの」
ティナの放った答えに、ディックは小さく溜息を吐いた。
「悪いけど、頼まれもしないのに、首を突っ込む真似はしないよ」
もう話はやめようと言いたげに、ディックは歩き出した。
その後ろを、ティナが付いてくる。雨音がきつくなってきた。見通しが悪い。
地上では牡牛のような巨大な狼が、空からは翼を持った猿のような魔物が、絶えず襲いかかってくる。
魔物の強襲で、アストワースが混乱に陥っている。魔物ハンター達もそちらに手を取られている筈だ。
速やかに、気付かれないよう町を出るのは、今しかない。
「リアトリスの言葉に従いたいなら、残ればいい」
ティナを見てそう言うと、彼女は足を止める。きょとんとした顔で、こちらを見上げていた。
ディックはすぐに、彼女に背中を向ける。
「俺は、先に町を出る。リアトリスを待って、此処に残るのも、
避難誘導を終えて戻ってくるのも、好きにしな」
「わかった、ですの」
ディックの言葉に、ティナはこっくりと頷いた。こちらに背を向けて、来た道を戻り始める。
機械人形とは思えない程、彼女も人間の感情に感化されているらしい。魔物に困っている人を見て、
後先考えず助けようとするその姿勢は、リアトリスによく似ていた。
――リアトリスに、強く影響されているんだな。
彼は優しいのだ、と改めて気付く。底抜けに、というわけではないが、お人好しなのだ。
手にした力で、誰かを守ろうと必死になっている。それは、一般的には”良い人”に分類される。
しかし、善意で取った行動や、正しいと思った行動が全て良い方向へ進むわけではない。
『助けてくれて、ありがとう』
あの少女は、確かに救われた。
魔物に殺されそうになった少女を、禁じられた力を使って救ったといえば、聞こえは良い。
しかし、実際はただ一人を救う為に、決まり事を破ってしまった、ということだった。
その結果、取り返しの付かない事態を招いてしまった。
村そのものが凍り付いていったのは、真冬であったからだけではない。
『た、頼む! 見逃してくれ!』
『許してくれ……』
『やめてくれ!』
芋虫のように地面を這いずりながら、泣き叫ぶ村人達の末路を思い出し、ディックは目を伏せる。
急速に掌を返す彼らの態度に、吐き気がした。そして、同時に湧き上がる、自身への嫌悪感に憤りを感じた。
赤い視線の先には、母がいた。落ち窪んだ翡翠色の瞳で、こちらをじっと見つめている。
赤茶色の髪は乱れ、青白い顔をしていた。背筋が凍りついたのは、雨の所為だけではない。
「どうすれば……良かったの……」
その問いかけに、彼女は何も答えてはくれない。
「……ねえ、母さん」
雪の上に倒れ伏したアレクシアの姿が、まざまざと蘇る。逃げ惑う人々の姿が蘇る。
そして、妖艶に微笑みながら、手を差し伸べてくる魔女の顔を思い出す。
その手を取ったことに、後悔はしていない。それでも、ふっと思う時がある。
――あの時。本当は、どうするのが正しかったの。
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