03
「そうか」
ディックは容量の得ないティナの言葉を、自分なりに整理してから頷いた。
この川の付近で、リアトリスの行方が分からないとなれば、きっと彼はこの川を渡河したのだ。
魔物に襲われた形跡も、攫われた痕跡もない。魔力を浴びて、弱ってしまった人間の臭いを薄める為、川を超えたのだ。
川など、流れる水は匂いを洗い流してくれる。逃走し、行方を眩ませる術としては常套手段だ。
そうなれば、この異臭も彼の仕業かもしれないと、そういう仮設も立てることが出来る。
「……」
この川を超えた先には、アストワースの町がある。アストワースには診療所もあった筈だ。
その上、確か魔物ハンターの支部もある。
「……」
あまり近付きたくはない町であった。ティナがコトンと首を傾げている。
「どうしたの?」
「リアトリスは、この先の町に向かったかもしれない」
そう言えば、ティナはぱっと笑顔を浮かべた。
「それなら、そのまちに、いけば、リア、あえる、ですの」
「……どうだろうな。確実とは言えない」
「でも、あえる、かもしれない、ですの。まち、いこう、ですの。いこう、ですの。
いこう、ですの」
ゆさゆさと揺さぶりながら言う、ティナのあどけない顔をディックは見下ろした。
無邪気なその笑顔は、あの少女の顔を彷彿とさせる。しかし、ティナがどれだけ頼み込んでも、
ディックは首を縦に振らなかった。あの町には、あまり近付かない方が良い。そう思ったのだ。
とにかく、ティナを見つけることは出来た。リアトリスは、魔物との戦いやその危険性も理解している。
自力で何とかしている筈だ。そう判断する。何をするにも、余計な手間を増やしがちなティナを、
まずはギルクォードに連れ戻す。それから、リアトリスを探しても良いだろう。
「ギルクォードに戻ろう」
ディックは言った。
「なぜ?」
ティナが聞き返してくる。
「リア、いない、ですのよ」
「……オボロさんが、君をすごく心配していた。先に戻ろう。
リアトリスは……俺に任せてくれたらいいから」
そう言うと、ティナはまっすぐこちらを見つめたまま、何も言わなくなった。
無機質な紫色の瞳が、何故だかこちらの心を不安にさせる。ティナが小さな唇を開いた。
「リアのこと、しんぱいしたひと、いない、ですの?」
「いや。グラニットさんもオボロさんも、心配していた」
彼女の言葉を否定すると、ティナはにっこりと微笑んだ。
「それなら、リア、いっしょに、かえるべき、ですの」
「……」
「ディック、リア、しんぱいじゃない、ですの?」
ティナはオボロと全く同じ質問をしてくる。以前、リアトリスはアストワースの町で、魔物ハンター達の前に立ち塞がった。
それは、攻撃を受けていたディックを、庇おうとしたが故の行動だった。そこには悪意や打算的なものは無かったように思える。
心配していない。そう言えば、嘘になるということを、ディックは理解していた。
オボロに答えた「気にはなる」という答え。それは、少なくともリアトリス達へ向けた関心だった。
「……じゃあ、行こうか」
ディックは言った。脳裏に、シェリーの言葉がふっと過る。以前彼女は、ディックに対してこう言ってきた。
『おまえに、何かあったら困る』
そう言ってきた、シェリーの赤い唇を思い出した。艶めいたその唇から、囁く声は今でも耳にこびりついて離れない。
まるで、暗示のように頭に響いてくる。人間なんて放っておけという考えも浮かんでくる。
しかし、ディックはそれらの言葉や思考に、耳を貸さなかった。
――私のことは殺したくせに。
黒く塗り潰され、日々反響する声の中で、いつも聞こえてくる声がある。冷ややかな女の声だった。
それが聞こえてくるたび、ディックは首を締められるような、心臓を掴まれるような、そんな苦しさを思い出す。
川を渡る為、浅瀬に足を踏み入れたティナは、流水の感覚に顔を綻ばせた。
足で水を蹴飛ばしながら進んでいたティナは、ディックが川に入ってこないことに気付く。
振り向けば、ディックは額を抑えながら、その場で立ち尽くしている。
じゃぶじゃぶと水を蹴飛ばしながら、戻ってきたティナは、力なく垂れる右手を掴んだ。
一瞬だけ、ディックが小さく震えた。
「どうしたの?」
見上げれば、ディックの暗い瞳と目が合った。その顔は苦悶にゆがんでいる。
「いや、なんでもない。行こう」
「うん!」
苦しげに吐き出された言葉に、ティナは無邪気ににっこりと微笑んで頷いた。
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