03


 アベリーがノースと合流し、ノーフォーク湖へとやってきたのは、それから程なくしてのことだった。
 霧深いその湖には、濃密な魔力が立ち込めている。強い毒気を孕んだその魔力に当てられて、
 周辺には草木一本生えていない。裸の大地には、魔力が奥深くまで染み込んでおり、例え魔物であっても、
 力の弱い魔物であれば呆気なく死んでしまう。

 不機嫌そうな顔をしながら、アベリーはその大地を踏み締める。

「相変わらず、此処は息が詰まりそうだわ」

 その傍らに寄り添うように歩いているのは、ノースだ。彼は耳と尾を下げて、不安そうに周囲を見渡している。
 歩くたび、彼を縛る鎖が音を立てた。時折ノースは、煩わしそうに轡を引っ掻いていたが、外れることはなかった。

 濃密な魔力が漂うノーフォーク湖の中心には、山の様に巨大な白い獅子の彫像がある。
 背中には体長をも上回る大きさの翼が四対あった。その彫像が、二百年程前に封印を施した、
 魔王の化身であったことは、知能の高い魔物なら、誰でも知っていた。

 身体を石化させることで、自身が鍵となり、ラストに強力な封印を施したのだ。湖の中に沈む前足の爪は、
 一メートル程湖面から突き出している。ノーフォーク湖の水深の深さから考えても、その大きさには圧倒されるばかりだ。
 魔王の残り香とも取れる魔力と、水底から吹き上がるラストの強い魔力は、この一帯の気温さえも飲み込んでいるらしく、いつだって寒い。

「あっ、」

 場違いな程に、弾む声が聞こえてくる。
 アベリーが目を向けると、ドルチェットがこちらに向けて、大きく手を振っていた。その近くにはシルヴェーヌもいる。
 魔将ヒースコートと戦ったと聞いたが、無事なようだ。

「お久しぶりですぅ、アベリーさん」

 ぴょこん、と弾むような元気良さで、ドルチェットが駆け寄ってきた。

雛菊の日デイジー以来ですねっ。歌姫のお仕事、お疲れ様ですぅ」

 この甘ったるい、媚びたような声は苦手だ。アベリーは「ええ」と短く返答する。
 ドルチェットが両手を広げて、アベリーの前に立つ。その軽やかな動きに、緑色の髪が、
 風に吹かれる木の葉のように、緩やかに揺れた。

「それより、見てくださいよう、アベリーさん。ラスト様が見えるんですぅ」

 そう言われて、湖の真ん中――魔王の石像に目を向ける。その白い彫像を飲み込むように、
 時折黒い巨大な蛇の影が見えた。まるで靄のように、黒い大蛇の影が湖面に浮かび上がっては、幻のように消えていく。

「ああ、ラスト様……」

 うっとりとした顔で、ドルチェットが名前を呼んでいた。アベリーは、大蛇の影から目を離せない。
 封印される前よりもずっと、強く強大な魔力を感じる。うなじから、背筋に掛けて怖気が走ったのをアベリーは気付いた。
 この毒気に耐えられる彼女でも、只々圧倒されるばかりだ。

 ずっと此処にいて、その魔力に慣れているドルチェットやシルヴェーヌは、顔色一つ変えていない。
 ノースが「クゥゥン」と鼻を鳴らしている。

「大丈夫よ」

 ぴったりと寄り添ってくる彼の頭を撫でると、ノースがまた小さく鳴いた。
 アベリー頷き、優しい声で言う。

「……ええ、アタシがいるわ」
「時に、アベリー」

 それまでずっと黙っていたシルヴェーヌが、声を掛けてくる。扇子で口元を隠しながら、
 ひたりとした視線をこちらに向けてきていた。アベリーはすぐさま、ノースへ向ける雰囲気から、
 敵対する空気に切り替える。同じ主の元にいるとはいえ、気を抜けばすぐに殺される。
 逆に、相手が隙を見せれば殺すつもりだった。アベリーもシルヴェーヌも、力量はほぼ互角である為に、本能的に戦闘欲が刺激される。

「なにかしら」

 唸り声を上げるノースを制しながら、アベリーが聞き返すと、シルヴェーヌが周囲を見渡しながら言った。

「クロードが、何処にも見当たらないようですけど。彼はどちらへ?」
「ああ、」

 アベリーは小さく肩を竦めた。

「エドワード様とクラウディア様の結婚式も近いから、その準備ですって」
「あら。そんな形だけの儀式なんて、必要なのかしら」

 鼻で笑うシルヴェーヌに、アベリーも嫌な笑みを浮かべて返す。

「さあ? 形だけだからこそ、必要なんじゃない?」



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