08
「……あ……?」
リアトリスは、急に周囲の気温が、ぐっと下がったことに気付く。
肌を突き刺すような痛みを感じさせる魔力が立ち込める。急激な寒気と怖気に、リアトリスは思わず腕を摩った。
鳥肌が立っている。この魔力を知っている。リアトリスは、「まさか」と顔を歪めた。
ヒースコートと名乗った魔物と似た魔力だったが、更にそれを圧倒する魔力だ。
皮肉だが、感じ慣れた魔力に包まれたことで、幾らか呼吸はマシになる。根本的な苦痛は変わらないが、
それでもさっきよりは良い。リアトリスはその場から動かず、違和感を覚えたディックの影を見る。
その影から、黒い炎が静かに立ち上がっていた。黒い炎の中から、今度は青白い炎が吹き上がる。
その青白い炎が、腕の形を取り、ゆっくりとディックに伸びた。それと同時に、徐々に女性の姿を象り始めていく。
やがて、その青白い炎の中からシェリーが姿を現した。
ディックに距離を詰めていたヒースコートが、顔を顰めて飛び退くように距離を取る。
まるでディックを守るように、前に進み出たシェリーは、それを見て笑った。真っ赤な唇を歪めている。
「久しぶりだな、元気にしていたか?」
その声音には、嫌味ったらしい雰囲気が乗っていた。
対するヒースコートは、先程までの余裕はすっかり消え失せ、憎悪に満ちた赤い目で、
眼前の魔女を睨みつけている。
「今日はどうした。また、腕を取られに来たか?」
「……」
ヒースコートは、右肩を掴んでいた。そして、その視線がディックに向けられる。
またシェリーへと視線を戻す。それから、ようやく笑みを浮かべた。
「アンタ程の魔将なんだから、そこまで暗愚じゃないでしょうよ。
アタシの仲間を殺したのは、アンタなんでしょう。シェリー」
「そういえば、以前あたしの領域を無断で横切ろうとした化け鳥がいたな」
なんてこともなさそうに、まるで天気のことを話すような口ぶりだった。ヒースコートが肩を震わせ、眉を釣り上げる。
シェリーの魔力に包まれていた空気に、僅かに彼の怒気を孕んだ魔力が混ざった。
リアトリスはライフルを杖代わりに、その場に突き立てる。何かを支えにしなければ、最早立ってはいられない。
「それがおまえの仲間だとは、知らなかったんだ。しかし、いくら急いでいたとはいえ、
礼儀を欠いた連中の失態でもあるだろう。その腹いせに、こいつに喧嘩を吹っかけたようだが……」
シェリーは、唇を強く噛み締めるヒースコートを見つめる。
夜露を浴びて、咲き崩れそうな花に似た、艶やかな笑みを浮かべた。
「残念だったな。何人たりとも、誰にもこいつは殺させない」
そんな華やかな笑顔の一方で、シェリーの瞳は刃物のような鋭さを帯びている。
「あたしがそれを許さない」
ヒースコートは少しずつ交代する。犬が強い相手と出会った時に、姿勢を低くして尾を下げるように。
いかに魔将とはいえ、魔物の性からは逃れられない。強者には逆らえない。
ヒースコートの中で、激しく警鐘が鳴り響く。これ以上彼女を刺激すれば、今度は右腕だけでは終わらない。
真っ赤に染まった視界の中で、宙を舞って消えていった左腕が脳裏に蘇る。
シェリーは、冬の凍てつきよりも冷えた声音で続けた。
「あたしは今、機嫌が悪い。あたしが大人しくしている間に、逃げるがいい」
「……ふふっ」
ずっと黙っていたヒースコートは、シェリーへの畏怖を感じながらも、笑ってみせる。
「オズバルドの言った通りだわ。そんな魔物モドキに、随分と過保護じゃないの。
代わりを見つけたってこと?」
「……」
混血が近くにいるからか、シェリーは何も言わない。
あれだけ、こちらに対して敵意を向け、無謀にも戦おうとしていた彼は、今は糸が切れたように動かない。
只、救いが必要な幼子のような顔で、不安そうにシェリーを見つめている。
「聞こえなかったか。あたしは消えろと言ったんだ」
静かなその声音は、ヒースコートのうなじから凄まじい悪寒を走らせた。
「最も、おまえがあたしに殺されることを望むのなら、相手をしてやる」
その声音は、ヒースコートの戦意を削ぎ落とすには、充分過ぎる程の殺意が込められている。
此処で死ぬわけには行かなかった。離れたところで、帰りを待つエルダがいる。
◆
まるで、嵐のようにヒースコートが去っていった後で、シェリーはディックに近付いた。
ディックが恐れるような顔をしているのを見て、シェリーはふっと表情を和らげた。
「大事ないか?」
「……ごめん。追い返せなかった……」
それは、独り言にも思える程、小さな声だった。
悪事がばれた子供のように、ディックは顔を伏せている。シェリーはそれを聞いて、一度リアトリスを見た。
顔色が悪いのは、魔将の魔力に当てられた所為だろう。しかし、この人間のことはどうでもいい。
今は、この不安がっている彼を慰めなければ。
「気にするな」
シェリーは、子供をあやす母親のような優しい声を出す。
安心させるように、柔らかな微笑を浮かべてみせた。ディックに近付いて、前から首に腕を巻きつける。
そのまま、ぴったりと身体をくっつけた。
「おまえが無事なら、それでいいんだ。だから、気にするな」
「……うん」
シェリーは横目で、ちらりとリアトリスを見た。
ディックを心まで、隅々まで自分が埋め尽くしていることを、見せつける。
その存在も言葉も、掻き消すように、ディックに言った。
「あたしは、おまえが生きて、傍にいてくれるだけでいいんだ」
「……うん」
ようやくディックの纏う雰囲気から、緊張が消えていく。シェリーはその雰囲気を感じ取り、
リアトリスが何も言ってこないことを知り、一人ほくそ笑む。オズバルドやヒースコートが何を言おうと、関係無い。
決して、この混血を、逃しはしない。”あの男”と同じ、曇った孤独な目を持つ彼を、
決して手放しはしない。
決して、逃がさない。
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