03
「どうしたの」
シェリーは我に返った。ディックがこちらを見下ろしている。あの頃と同じ、何処か暗い炎を宿す翡翠色の瞳だ。
もう彼は、「死にたい」と呻くことはない。それでも、不安そうな顔をする。
いつも、不安そうな顔をする。それが、シェリーにとても強い安心感を抱かせる。
「なんでもない」
そう言って、シェリーは笑いかけた。過去を思い出していたなど、言うつもりなど無い。
手を伸ばして、シェリーはディックの頬に触れた。艶めいた彼女の黒髪は、白いシーツの上に、
例えようも無い程美しく広がっている。
「どうしたんだ。そんな顔をして」
「……時々、シェリーがいなくなってしまう、そんな気がするんだ」
弱々しく呟きながら、ディックが強く抱き締めてくる。失うことを怖れている、そんな力だった。
安心させる為に、シェリーは子供のように震えるディックの背中に、そっと手を添えた。
「さっきみたいに、シェリーが何処か遠くを見ている時は、特に……」
シェリーはディックの髪に触れる。赤い髪は、見た目に反してやや硬い。
とんとんと、その頭を撫でた。人のような、ディックの暖かい体温は安心する。この両手の中にいる彼は、とても愛おしい。
「おまえを置いて、あたしは何処へも行かないさ」
「本当に?」
「いつだって、あたしはおまえの傍にいる。
おまえが危ない時も、すぐに駆け付けている。そうだろう」
ゆっくりと、言い聞かせるように言えば、ディックは小さく頷いた。まるで蛇のように、背中に回す腕が、
ディックを捉えて離さない。シェリーの深海のように、青い瞳が怪しく煌めいた。
「あたしには、おまえが必要だ」
その言葉は、ディックを安心させる。自分だけが彼女を求めているのではないか、と。
自分の存在が、重荷になっていやしないか、と。心に湧き上がるその不安を、一時だけでも退けてくれる。
ディックは彼女の愛を確かめるように、もう一度強く抱き締めた。あの時、失ってしまった母と入れ替わるように。
シェリーがずっと傍にいてくれている。手を伸ばせば届く距離に、彼女がいないと不安になる。
何処か遠くを見ていると、そのまま溶けて消えてしまいそうで、不安になる。
――もう二度と、失いたくない。
抱き締めると、抱き締めてくれる。
その温もりや、鼻腔を掠める彼女の香りに、ディックは小さく顔を綻ばせた。
きっと、シェリーがいなければ、もう何も出来ない。生きていくことも、放棄してしまうだろう。
そう確信してしまう程に、ディックはシェリーの傍に居すぎてしまった。
「俺も、シェリーがいてくれないと嫌だ」
「そうだろう」
シェリーはディックに、怪しく微笑みかける。ディックが頷いて、それからそっと身を離す。
少し安心したようだが、その翡翠色の瞳は暗いままだ。その瞳に、再び光を宿して欲しくない。
シェリーはそう願っている。彼の瞳が、暗く沈んでいる内は、自分の傍にいてくれるのだ。
もし、希望を取り戻せば、人間のことを心から許してしまえば、彼は自分だけを求めようとしなくなる。
ディックが自分を必要とし、自分だけを求めて信頼している。その優越感が、シェリーの穴を塞いでくれる。
だから、ディックにはそのままでいて欲しい。
「ディック」
名前を呼べば、彼はまたこちらを見た。
「おまえ、この前あたしに、『自分はどっちなのか』と尋ねてきたな」
「うん。そうだね」
ベッドから出ようとしていたディックは、再びそこに腰を下ろす。
その背中に、シェリーは言葉を投げかけた。
「あの時、あたしはおまえに答えなかった。おまえが、どう思うかだからだ」
ただ、あたしとしては。と、シェリーは続ける。
「おまえには、あたし側にいて欲しい」
「……」
ディックはしばらく、言葉を選んでいるようだった。やがて、
「シェリーは、そう望んでいるんだな」
ぽつりと、そんな言葉が返ってきた。
そう言うディックの声音に、シェリーは苛々する。彼は今、迷うような顔をしているのだろうと、シェリーはすぐに分かった。
それが妙に癪に障る。ディックがそんな顔をするのは、そうさせているのは、死んでしまったディックの母親だ。
そのような生き方を強いた、母を含めて、人間の全てを憎悪し、絶望してくれたなら。
と、シェリーが望むのはただ一つのことだ。
後ろから、シェリーはディックを抱き締めた。首に腕を回し、肩に頭を押し付ける。
「……ごめんね」
ディックが謝ってくる。
それが、「シェリーの望みに応えられなくて」と、頭に付いてきた気がして、シェリーは何も答えなかった。
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