03


 文月ジュイエも中旬を過ぎたからか。夜は、以前にも増して、気温が上がっていた。
 朝からずっと歩き続けて、陽が傾いた頃には、ようやくグラフトン湖が見えてきた。なんだか、久しぶりに見る光景に、ディックはふっと息を吐く。

「もう陽が落ちるし、今から山超えるのは危ねえしな。クロズリー城で、今日は休もうぜ」

 完全に陽が落ち、夜の帳が落ちてしまえば、そこはもう魔物の領域だ。ディック一人ならともかく、
 戦うことに慣れているとはいえ、ただの人間であるリアトリスと、今からトスカーナ山を越えるのは、少々厳しいものがある。

 ディックが破壊した城の扉は、風雨に晒されて、少し痛んでいるようにも見える。
 新たに芽吹いていた雑草を踏んで、ディックとリアトリスは城の中に足を踏み入れた。
 ロープ一本で吊り下げられた古めかしいシャンデリアが、ゆっくりと振り子のように揺れている。
 今にも落ちてしまいそうなそれを見上げ、リアトリスはずんずんと進んでいた。
 去年の冬に訪れた時とは違い、ランタンが無くとも、まだ場内を肉眼で見渡すことは出来る。

 階段を上がっていけば、見覚えのある肖像画が何枚も並ぶ通路に出た。そのうちの一枚が、床に落ちている。
 額縁が砕けているのか、金色の破片が散らばっていた。絵を落としたことを思い出して、リアトリスは少し居心地が悪くなる。

 その絵画が散乱した場所から、一つ、二つ隣にある扉を見て、リアトリスはそこに近付いた。
 ゆっくりと扉を開けて、中を覗き見る。そして、顔を顰めた。夥しく積み上げられた人形の山を見て、
 此処がそんな部屋だったことを思い出す。オールコックに向かう道中で、寄った時はこの部屋を素通りしていた。
 久し振りに覗いたが、以前よりも埃っぽくカビ臭い。

 恐らく、昔は家人の寝室として使われていたらしいその部屋は、壁も天井も黒い染みが出来ており、
 穴が開いている箇所もあった。床は真っ白で、まるで雪道を歩いたかのように、ディック達の足跡が付いた。
 窓はガラスが砕けたのか、吹き抜けになっていたので、多少埃っぽいもののそこまで苦痛なわけではない。
 古びた調度品の他、寝具や椅子などもそのまま置かれていたが、流石に二人とも使うことはしなかった。

 何処の部屋も似たようなもので、結局ディック達は初めてティナと出会った部屋へ向かった。
 以前は、ぼんやりと光っていた扉の光は、しばらく見ない間に消えそうになっている。
 リアトリスがドアノブに手を掛けて押し開けようとするも、びくともしない。怪訝そうな顔をするリアトリスに代わり、
 ディックがドアノブを捻れば、いとも簡単に開いた。

「なるほどね」

 そう呟きながら、中に入っていくディックに、リアトリスが尋ねる。

「何が?」
「ティナの話を聞けば、あの子を作ったのは混血だ。誰とも関わろうとしないで、誰にも関わらないようにもしていた。
この部屋の扉は、彼の魔法が掛かっているんだろうね。魔物と人間の交じり合った血を持つ者……つまり、
自分にしか扉が開けられないように。……もしかすると、そんな奴は、自分一人しかいないと、思っていたのかもしれないね」

 誰とも関わろうとせず、誰にも関わらないように……間違って、外に――つまり、自分以外の誰かに出会い、
 狭まった世界が広がってしまわないように。扉に魔法で鍵を掛け、ティナを閉じ込めていた男。
 行動を制限し、制約された世界で生きた二人。

 リアトリスは、ふと思う。
 それはまるで、ディックとシェリーのようだ、と。



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